第17話
広場から飛び出したループは、薄暗く長い廊下を走る。
冷たい石の床に、冷たい石の壁。絵や花瓶など豪華な装飾品が置かれているのにも関わらず、ループが行く道、もしくは建物全体には温度を感じない。そしてそれは、この廊下に明かりがないからではなかった。
目を瞑り、感覚を鋭く働かせた。兵士の歩く音はしない。きっと、四番大門の件で警備が全部そちらに移動したのだろう。ループはそう理解した。
「ど、どうして……?」
彼女の鼻が追ってきたアーリの匂いが、急に女性物の強烈なフローラルの香水に代わったのだ。それは廊下の奥から漂ってきたのだが、ループはその匂いを今の今まで感知していなかった。
異変の原因を確認しようと、ループは廊下の奥へと目を凝らす。暗闇の中にぼんやりと匂いの輪郭が現れてきては揺らめいてまた消えた。
人型。女性。長い髪。ループには、この匂いの主の顔がはっきりとわかった。
「ベルデガ、出てこい!」
ループの声が冷たい廊下の奥へと響いていき、。
「あらぁ、元飼い主に向かってその口の聞き方はないんじゃなくって?」
女の甲高い声が、廊下を所狭しと反響する。音の波に乗って、強烈な花の芳香を数百種類ごちゃ混ぜにした匂いが、狭い廊下いっぱいを占拠した。
ループにとってその匂いを嗅ぐことは、えげつのないほどの苦行だった。感覚が鈍り、意識さえも揺らぐ気がした。彼女の声を聞くことも同様だった。無意識にループは一歩後ずさる。
「大きくなったじゃないの?」ハイヒールの音がゆっくりと近づいてくる。「メロンちゃん。またオシオキされに帰ってきたの? 悪い子ねぇ、私から逃げ出したりしてねぇ」
水泡の音。毛の焦げる匂い。鞭の音。ループは過去の記憶を振り落とすように頭を強く振った。
何も答えなかった。これ以上この女と関わり合いたくないと思っていたからだった。
毒々しい緑色のメッシュが入った黒髪が、廊下の奥にぼんやりと見えてくる。さらに整った顔立ち、絶世の美女と謳われる彼女の美しさは、暗がりでもその輝きを保っていた。フリルが山ほどあしらわれた、黒いドレスは彼女が歩くたびに、辺りの空気を掻き乱して淀ませた。
「あら……私と話したくないって訳ね、まぁいいわ」女が指をパチンと鳴らす。「じゃあ……この子達とは、仲の良いお友達になれるかしら?」
甲高いクリック音が廊下に反響するのを待たず、左右の壁が吹き飛んだ。爆発かとも思えるその衝撃と共に、二匹の怪物の唸り声が廊下に響き渡る。
その怪物は神話に登場する生物のように、継ぎ接ぎの体を持っていた。
虎のような体と頭部。蠍の黒光りする尻尾。鳥類の白い翼。額に埋め込まれた牛の角のような二本のクリスタル。左の怪物は赤と緑、右の怪物には青と黄の水晶が埋め込まれている。
怪物二匹の呼吸は荒く、強いフローラルの香水の匂いを吸い上げては、生臭い肉と胃袋の匂いを吐き出している。
「どうかしら? マンティ……なんとかって怪物よ。私がデザインしたの。かっこいいでしょ? この子達となら楽しくお遊びできるわねぇ?」
「デザインした……?」
「あら、とっくに知っているのかと思ってたわぁ。口が滑っちゃったみたいね」ベルデガはわざとらしく口の前で人差し指を交差させた。「さ、行きなさい。マンディとゴーディ!」
ループが脚を動かすより早く、怪物達は狼の体を引き千切ろうと飛びかかる。
「くそッ!」
咄嗟に後ろに飛びのくも、怪物の跳躍は鋭く予想を遥かに超えて伸びてきて、ループの顔面をすんでの所で引き裂く。左右の目元を抉られ、傷口からは赤い液体が染み出した。
ループは来た道を引き返そうと、振り返って駆け出す。
怪物の一匹は部屋の壁を壊しながら、一匹はループの真後ろを追いかけてくる。
「逃げるのは得意だったわね! 忘れてたわぁ。さぁ、逃げなさい!」
怪物達の唸り声のさらに後ろから、嫌味な女の声が聞こえ、ハイヒールのゆっくりとした足取りがコツコツと近づいてくる。
「好きなだけ逃げればいいわ! それだけあの小娘を
女の高笑いがループの耳にキンキンと響く。
この状況をなんとかしなければと考えるも、ベルデガに刻まれた過去の苦い思い出と、周囲に充満するフローラルの香りが、ループの次の一手の思考を阻害する。
バレントの顔。アーリの顔。三人で囲んだ食卓の光景が走馬燈のように頭の中をぐるぐると駆け回った。それでもループはバレントに迷惑は掛けまいと、来た道ではなく、階段を駆け降りる事を選んだ。
自分の因縁。それに噛み付いて消せるのは、自分だけだと知っていたからかもしれない。
一匹の怪物は階段の横の壁を壊して、ループの前、階段の下に立ちはだかった。
もう一方も彼女の背後の壁や天井を壊しながら、ループを背後から追い詰める。
「お前らはそれでいいのか? アイツに勝手に作り変えられた体で、何の為に戦うのかもわからない。何を楽しみに生きているのかもわからない。そんなのでいいのか?」
ループの呼びかけに、怪物達はただ低く唸って、鋭い鉤爪を床の石材に食い込ませるだけだった。
戦わなければいけないらしい。
「そうか……」
ループは戦う覚悟を決めた。自分はここで死んでもいいと。バレントがアーリを探し出してくれると信じていた。
ループは全身の体毛一本一本から緑の液体を染み出させた。瞬く間に全身が緑色の毒に浸り、鼻が捻じ曲がるような匂いを周囲に充満させる。そして、染み出した液体が段差を伝って、下の段へと落ちていく。それを見て階下の合成怪物は、野生の本能からか後退りした。
ループは階下に飛び込んで、怪物の顔を狙って切り裂く。爪から染み出した液体が怪物の目に入り、視界を奪う。
目の潰れた怪物は、咆哮を撒き散らしながら、暴れるように爪を振り回す。ナイフのように鋭い爪が狼の耳を切り付ける。緑の液体と赤い血が宙を舞い、べとりと階段に落ちた。
怯むことなくループは怪物の首根っこに噛みつき、牙から毒を大量に分泌させた。緑と赤が混ざったドス黒いものが、階段の踊り場に溜まっていく。
階上の怪物はループに飛びかかる。爪で何度となく、噛み付いているループの体を引き裂いた。
階段は一瞬にして、怪物達が取っ組み合う、闘技場へと化したのだ。
「ぐっ……」
ループに噛み付かれている怪物も何とか引き剥がそうと、長い尻尾の先に付いた針を幾度と刺した。翼をバタバタと羽ばたかせ、ループの体に打ち付ける。
それでもループの顎は力を抜くことはなかった。彼女は階下の怪物の首根っこの肉を噛みちぎっては、また食らいつく。
どの怪物の物だったのか分からない肉片が、床一面を覆う禍々しい液体の上に散乱する。
一分も経たないうちに、毒が回ってきたのか、マンティコア一体の動きが鈍っていく。もう一方も、爪や呼吸からループの毒を取り込んだのか、爪を振るう力が抜けてきたようだ。
二体の獣の動きが静止して、最後に立っていたのはループだった。惨たらしい全身の傷からは、彼女の体から出た毒と赤い血が伝う。全身傷だらけのループが、自身の四本脚で立っているのが不思議なほどだ。
「あらぁ、もう倒しちゃったの? 興醒めねぇ」
ループが上を見上げると、階段の上にベルデガが立っていた。マンティコアの壊した屋根からは、月の光が降り注ぎ、女を不気味に、そして妖艶に照らしている。
息も絶え絶えのまま、ループは声を精一杯張り上げた。
「は、お、教えて、もらおう、か……お前らが怪物を……」
「どうせ死んじゃうし、教えてあげちゃうわ。怪物を作ってるのよ、羨ましいでしょ? アンタも私の玩具にするために作ったの。我ながら惚れ惚れしちゃうほど、綺麗に出来たのにねぇ」女は鼻高々にそう言った。「どうしてって聴きたい顔をしてるわね。それは教えられないわ。怪物のアンタに理解できないでしょ、メロンちゃぁーん?」
ベルデガは勿体ぶってそう言うと、両腕を上げて振り下ろす。ドレスの両袖に仕込まれた鞭が飛び出て、破壊された床をぴしゃりと叩きつけた。
彼女の表情が、弱った生き物に対しての優越感で歪に微笑んだ。
目を瞑るループ。それでも彼女の耳に、女が階段を下りる音が、コツコツと響く。
「盛大に汚してくれたわね、オシオキの時間よ!」
ベルデガは階段に、一歩足を掛けた。
鞭をブンブンと振り、交互に、高速で地面を叩きつけた。石畳がバシバシと打ち付けられて、耳障りの悪い音が響く。
ループが鞭の痛みを覚悟した瞬間、ベルデガとは別の足音が、階段の上から聞こえてきた。
「動くな」
暗がりから月光が落とす光の中に、ショットガンの銃身が飛び込んできた。
静かな脅迫に、ベルデガの表情が歪んだのをループは見た。
「ガードベルのやづめ、ぐぞやぐだだずがぁぁ!」
「……一歩でも動いたら撃つ、後ろも向くな」バレントはゆっくりと光の中に歩み出てくる。「おいロッド、聞いていたか?」
《ああ、噂だけだと思っていたが……信じられんな。怪物は人間の手によって生み出されたってわけか》
「そうらしいな。ハーゲンティ・マレフィキウム、悪魔の悪戯とはよく言ったものだ。オーソリティーは怪物を作り出す悪魔、ってことだな」
ロッドの通信機越しの声を聞いて、ベルデガの顔から美しさや妖艶さが消えた。その代わりに、カエルをグチャグチャにして、酸性の液体に五時間浸したような、苦々しい表情が張り付いていた。
「さあ、話して貰おうか?」
その顔を見られただけでループは心底、満足だった。彼女の首を絞めつけていた見えない首輪が少しずつ緩んでいくのを感じた。今までどれだけの時間を過ごしても、どれだけ美味いものを食べても、頭の片隅で彼女を痛めつけた重苦しい記憶がスッと何処かへ霧散した気がした。
何も答えないベルデガにバレントは更に質問を投げかけた。
「何の為に、そしてどうやって怪物を作っているのか、教えろ」
しばらく唇をわなわなと震わせていたベルデガが、口をゆっくりと開いた。何かを言いかけたのだろうが、彼女の声が発せられることは、今後一切なかった。
代わりに屋上から銃声が一つ生まれた。銃声と呼ぶのも烏滸がましいほどの轟音。
ベルデガの頭は目にも留まらぬ速さで吹き飛び、そのかけら一つ一つが階段の壁に、そして床にベッタリとこびり付いた。
ループは射撃手が月明かりに照らされて、浮かび上がるシルエットを見た。
ロングコートに、シルクハット。変わったデザインの片眼鏡に、長い白髪のポニーテール。それよりも一番、目が引かれたのは、ベルデガを撃ち殺したであろう銃だった。
ハンドガンをベースにしたであろう、その銃全体が青白く発光し、銃口の上下に三角形がくっ付いていた。
唖然としているループとバレントを余所に、男は冷淡な面持ちのまま、彼らの目の前から姿を消した。まるで、最初からそこに居なかったかのように。
彼が姿を消すと同時に、ベルデガの頭のなくなった体は階段を滑り落ちていき、ループの前でさらに大きな血溜まりを作った。
「い、一体……」
「……口封じだろうな」バレントはショットガンを鞄に戻し、階段を降りてくる。「だが、アイツは俺らを殺さなかった。理由は分からないが……今はそんな事を気にしている暇もない。ループ、大丈夫か?」
「先に行け。アーリの場所はわかるな?」
「ああ、ガードベルが教えてくれた」
「なら何故、先にアーリを助けない? そっちに行けば今頃——」
「アーリは生きていると分かるからだ。そもそもすでに殺しているなら、こいつらがわざわざこうして、妨害に出てくる必要もない、だろ? それにアーリを助けて、お前が死んだとわかったら、誰が一番悲しむと思う?」
ループは何も返す言葉が思いつかなかった。静かに頷いて、壁に寄りかかって体の回復に務め始めた。
バレントは無事を確認し、何も言わずに走り出した。
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