第一章7話 『恩人以上』

「なんで俺の名前知ってんの」


 先ほどまでは覇気のなかったアセビの目がほんの少し何かを孕んで俺を見据える。それは警戒の念か、はたまた殺意か。汗が吹き出し、毛が逆立つ。俺は蛇に睨まれたかのように身が竦んでししまう。


「君はここで何をしようとしていた」


 そんなナズナを他所にモンクシュットは腰の剣に右手を掛けて臨戦態勢に入る。その姿は一部の隙もなく、口調はいたって冷静。いつアセビが間合いに入ってきてもいいように神経を尖らせながらアセビに問いかける。


 今俺が何をしても、モンクシュットの邪魔になってしまうのだと、直感がそう告げている。そこに恐怖心が付与された結果、俺が選んだのは沈黙。それを通す。


「言う必要あります?この手に持ったもの見て」


 そう言って、ナイフを人差し指と親指でつまみ、顔の前で遊ばせる。モンクシュットの問答に真面目に答えるつもりは無く、さらには挑発をするような態度をとる。


「そうか、愚問だったな」


 しかし、モンクシュットはいたって冷静に、会話を進める。騎士であればこの手の挑発をするような悪党を相手にすることも多かったのだろう。


「武器を捨て、両の手を頭の後ろに組め」


 モンクシュットがアセビに対して降伏を要求する。戦闘が無ければナズナにとってもベストだ。しかし、アセビがこの要求を呑むとは到底思えない。


「嫌ですよ。捕まりたくないですもん」


 両手をひらひらとさせながらモンクシュットへの挑発を続けるアセビ。やはり、降伏する気はないらしい。しかし、モンクシュットの表情は変わらず、感情が波立っている気配もない。ただただ冷たい目をアセビに向け続けている。


「はあ......じゃあ俺は」


 大きくため息をついてから、アセビが膝を曲げる。顎をあげて上を見る。追いつめているのは確実にこちらだというのに何をする気なのだろうか。


「逃げるとしますか」


 高く飛んだ。ナズナの中にある身体能力に対する常識、ひいては地球に住む人類の持つ常識ではありえないほどの跳躍を見せて、屋敷の屋根へと着地した。その行動は完全に俺の裏をかき、反応が遅れた。その跳躍は、モンクシュットの間合いにも入っておらず、モンクシュットですら虚を突かれる。その間にアセビは屋敷の屋根の上を走り、少しずつ遠ざかっていく。


「どうすれば......」


 もちろんナズナには2階建ての屋敷の屋根にほんの一瞬で登れるような跳躍力はないし、地面を走って追いつく脚力もない。ナズナの持ち得るものでは、アセビを追うための策がない。どうすればいいのか。思考を巡らせる。


「僕が追おう」


 ナズナとは違い、咄嗟に、屋根の上を逃げるアセビに対しての対抗手段を講じるモンクシュットの声に、はっとする。今の自分は1人ではないと思い知らされる。


「ナズナは中の安全確認を。それが済んだらすぐに追ってくれ。僕があいつに追い付いたら魔法で合図を送ろう」


 わかったと答えるよりも早く、モンクシュットが屋根へと飛び乗る。当然だが、こちらもものすごい身体能力だ。屋根の上を走るモンクシュットに言葉なきエールを送り、俺は屋敷の扉に向かう。扉に手を掛けようとしたとき、自分の手がひどく震えていることに気が付いた。思い起こされるのはあの時の光景。血にまみれた惨状。あの時とは何もかもが違う。第一、アセビの持っていたナイフに血はついていなかった。アイリスは無事だ。大丈夫だ、と自分自身に言い聞かせながら、一つ大きく息を吐いて扉に手をかける。


「頼むから、無事でいてくれ」


 ナズナが恐る恐る扉を開くと、そこには一人の少女が居た。大きな口を開け、手で口元を抑える少女が居た。金髪に翡翠の瞳。間違いなく、アイリスの姿だった。




「ア......」


「どうかされましたか?」


「アイリス!」


「はい、アイリスですが、あなたは?」


 アイリスが無事であるという事実を確認したナズナの声に、アイリスは驚きと疑問の心で問いかける。一度もあったことのない人物は、なぜ自分の名前を知っているのか、この人は果たして何者なんだろうか。そして、なぜ泣いているのか。


「よかった......無事で」


 涙が溢れてくる。正直アセビとこの屋敷の前で遭遇してしまったときは一貫の終わりかと思ったが、アイリスはこうして、五体満足の状態で立っている。アイリスを殺させないという目的は達成した。しかし、作戦が成功したわけではない。涙を差でで拭い、真剣な顔を作り直す。


「あの、外が騒がしいみたいでしたが何かあったのでしょうか?」


「ああ、これから大事なことを伝える。信じられないかもしれないけど、全部本当のことなんだ」


 一つ、咳ばらいをして心の平静を取り戻す。前回のように信じて貰えなかったらなんて考えている暇はないのだ。ナズナがアイリスを見つめると、アイリスもまた真剣な目でナズナを見ていた。


「君は命を狙われている。誰の差し金かもわからないし、目的も分からない。それを突き止めに俺は今から実行犯を捕まえに行く。絶対にいい知らせを持ってくるから、君はここで待っていてほしい」


 言いきった。アイリスは言葉を発することなく、何かを考えるようにしてうつむいている。無理もない、急に命の危険を知らされたら誰だって困惑する。


 アイリスは10秒ほど考え込んで、信じる、とうなずいた。次の瞬間。


「雪......?」


 アイリスが外を見ながら呟いた言葉に疑問を持つ。昼間の王都は暖かく、季節は夏、もしくは春のどちらかだと思っていた。ナズナが慌てて振り向くと、貴族街から離れた場所、大通りよりも商業街よりも向こう。恐らく貧民街であろう場所に現れた、空を突きささんばかりに上へと伸びた氷の柱が見えた。


 氷の魔法で作られた氷の柱。モンクシュットは追い付いたら魔法を使って何かしら合図を送るから、それに向かってきてほしいと言っていた。そして、モンクシュットは氷の魔法を使うと、ここに来る道中で言っていた。それらを加味すると、王都に突如として現れた氷の柱は、モンクシュットが俺に向けて送った合図、そして道しるべと考えていいだろう。


「俺、行かなきゃ」


「待って!」


 氷の柱へ向けて走り出そうというナズナのジャージの上着の裾をつかんで引き留める。


「なんで、ここまでしてくれるの?私はあなたの名前も知らないし、あなただって私と会うのは初めてのはず。それなのに」


 初めて会ったという認識は、今回の世界においては適切な回答だ。だがそれ以前、ナズナの記憶の中にしか残らない世界では、もうすでに命を救われている。例え、誰も知らなくても。誰の記憶に残っていなくても。


「君は、俺の恩人だからさ」


 笑みを浮かべてそう言うナズナの言葉にあっけにとられた表情を浮かべるアイリスを置いて、ナズナは体を翻し、貧民街へ向けて走り出す。


 知識も、戦闘能力も皆無の俺に何ができるのかは俺自身が一番わからない。それでも、俺自身の目で事の顛末を見届けなければならない。


 様々な種族がごった返す大通り。種族は違えど、今とっている行動は同じ。突如現れた氷の柱に目を奪われて立ち止まっている。大通りと全く同じ状況の商業街を抜けて、貧民街へと突入する。


 ナズナの目に入ったのは、地面に突き刺さった氷柱のようなものや、冷気を帯びた草木、家やテントまでもが氷漬けになっている。また、モンクシュットにはじかれたであろうアセビのものと思われるナイフも散乱していた。その中心に佇む2人。そのほかに人の気配はない。


 両者ともに武器を構えており、今は一種の膠着状態ともとれる。だが、


「お疲れじゃないっすか」


 2人が浮かべている表情には差があるように見える。アセビは幾分か余裕のある表情を浮かべている、だが、その一方でモンクシュットの表情はどこか険しい表情にも見えた。

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