#41 置かぬ棚をも探せ
衣装ケースの中身をあらためる。畠山桜子が出演した作品の台本がほとんどだった。書き込みがないあたり、姉ではなく母が所有していたものだろう。他には仕事のスケジュール帳とアルバム、筆記用具がいくつか。
底のほうにはスリーブケースに入った日記帳があった。日付は亡くなった年のもので、これだ、と思わず声をあげそうになった。姉と母の足取りを掴めるものを手にしてにわかに汗がにじんだ。
衣装ケースを抱えて階下に降り、祖父母にはケースごと貰っていってもいいかとたずねた。彼らは快諾した。老眼で文字が読みづらく置いていただけになっているから、と、どこかバツが悪そうに言った。
玄関脇に段ボールを置き、ふたたび祖父母の前に座る。祖父は開け放たれた襖の向こう、隣室の仏壇にある母の遺影を見ていた。そして、力なく言った。
「直江が女優さなりてえって言ったとき、無理だダメだって言ったのが悪かったのがもしんねえな」
悔いるような言葉に、祖母も小さく頷いた。「あたしらは田舎で生まれて育ったからね、東京さ出てったあの子が身に着けた世間の常識ってもんが分からなくて、ずいぶん喧嘩してねえ」
それは、例えばどんなものだろう。その意を視線に込めて小さく首をかしげると、祖母は眉を下げた。
「赤ん坊にハチミツをあげちゃいけないとかね。今は当たり前でしょう? ばあちゃんらは田舎もんだから、知らんかったのよ。アレルギーもそう。好き嫌いでなるもんだとばかり思ったから、いっぱい食べれば治ると思ったのさ。さっちゃんは木の実だったから良かったけど、さとくんは卵だったでしょ。お菓子をあげようとしたら直江が袋を取り上げて怒ってね。もらえると思っていたから、さとくんも取り上げられてワアワア泣いてね」
愛称で自分が呼ばれているのに妙なむずがゆさを感じた。26歳になっても孫は孫ということだろう。
姉がアレルギーを持っていたのは初耳だった。木の実とは何を指すのだろうか。ナッツ類全般か、くるみやアーモンドなどの一部か。カシューナッツは大丈夫のはずだ。何せ中華料理店では好んでカシューナッツが入ったものを頼んでいたのだから。
島崎は幼いころは卵アレルギーだった。今では生でも加熱したものでも食べられる。食に関して自身が苦労した記憶はないから、物心つく前には完治したはずだ。幼児のアレルギーは腸の成長によって完治する場合があるとは何かの本で読んだ。だがもしかすると祖父母はまだ自分が卵を食べられないと思っている可能性はある。
自分の近況を話した。仕事は上手くいっていると伝えると祖父母は安心した表情を浮かべた。内容について掘り下げられたが、遺言配達の仕事を詳しく説明するのは骨が折れそうだと思い、相続関係の書類を預かる仕事だと適当な話でつないで、祖父母の暮らしぶりをたずねた。彼らは真に迫ったことを話さない島崎とは対照的に、お隣の住人の家族構成からかかりつけ医の名前までを詳しく話した。
夏目にも話が振られ、彼は大学で社会学を専攻していることや、春先に実母を亡くして一人暮らしをしていることなどを話した。祖母はたいそう彼の身の上に同情し、島崎には夏目が安心して暮らせるように決して給料の未払いなどは起こさないよう言い含めた。
夕暮れ時になり、辞去の姿勢を見せると祖父母はあれやこれやと持たせてくれた。老人二人ではもてあますからとお中元で貰ったというジュースを何本も渡し、野菜や果物を段ボールいっぱいに詰め、さらにファミリーパックの菓子も箱の隙間を埋めるように入れていった。それらを車に積み込んでいる間に祖母は夕飯用のおかずをタッパーに詰め、炊き上がったばかりの炊き込みご飯をパックに入れて持たせてくれた。夏目は精米したばかりの米を祖父から渡され、恐縮しきっていた。いくらなんでも30kgの米は大学生の一人暮らしには荷が重いのではないかと思ったが、何も言わずに車に積み込むのを手伝った。
「今度は泊まりにおいで」
「うん、また時間見つけてくるから。元気でね」
「働き過ぎには気をつけろよ」
「分かった。じいちゃんも無理しないでね。まだまだ暑いから」
「お邪魔しました。色々ありがとうございました」
ゆっくりと敷地を出る。年老いた祖父母が手を振っているのをバックミラーで見ながらハンドルをきった。夏目は律儀に窓を開け、彼らが見えなくなるまで手を振っていた。
*****
東京の事務所には8時過ぎに着いた。夏目を自宅に送り届ける前に、先に衣装ケースを自室に運び入れる。野菜や果物を二等分し、適当なビニール袋に夏目の分を詰めてやった。
リビングでアイスコーヒーを二人分淹れ、一息つく。運転の疲れもあったが、好奇心が勝って衣装ケースに手をかけた。夏目も興味津々といったふうに横に座って見ている。
スケジュール帳はA5サイズの市販品で、会合の予定やロケの入り時間が細かに書かれている。事故があった日も、報じられている通りの日時・場所が書き留められていた。ざっと目を通すが、特に不審な点は見当たらなかった。
夏目は台本を一つ一つ手に取って開いていたが、こちらも気になるようなものは何もなかったようで、閉じるなり肩をすくめてみせた。
「となると、やっぱコレかあ」
紺色のスリーブケースを手に取る。今どき珍しく、母は三方背のスリーブケースに入った日記帳を愛用していた。4カ月ごとに1冊、計3冊が1つの箱に入っている。1日1ぺージごとに日記を綴るようになっていて、さほど厚みはない。タイトルもなく無地のシンプルなものだった。大きさは市販のノートと同じサイズだが、万年筆で書かれているのにインクの裏うつりがないのを見ると、それなりに上質な紙が使われているようだ。
日記は、スリーブケースと同じ紺色のインクで書かれている。やや丸みを帯びた丁寧な字で書かれたそれは、必ず「おやすみ」と締められていた。
ざっと中身を読む。夏目は手を出さず、他の書類を順繰りに見ている。
仕事の話が大半だ。誰それとどこに行った。今日は何をした。どんな天気で、聡美の様子はどうだった。日記というよりは事実の羅列に近い。合間に少しばかり、話した人間への印象が短く――「気の利く人だと思った」「少しなれなれしく感じた」「愛想がいい人だった」程度に――描写されている。要所を読み飛ばすも、母が何かについて深く言及している点はなかった。
登場するのは姉と事務所の人間ばかり。よく出てくるのはともに畠山桜子のマネージャーを務めていた島田という女性、それと重役の小松、浅田。会食の日はこの4人と他の誰かというパターンが多かったようだ。
日常の描写の他には姉の仕事ぶりの評価にやや行を割いている。「長丁場だったが疲れるそぶりを見せなかった」や「今日は簡単なセリフで何度かつまずいていて、本人も調子が悪そうだった」など。けれども、この日記を深く読み進めたところで母や姉について何か新しい事実を発見するような予感はしなかった。それほどに母の日記は簡素で、日記以外の何物でもなかった。
「夏目くん、そっちは?」
日記に視線を落としたまま問う。
「こっちは育児していたころの日記ですね。お姉さんのと、島崎さんのも」
彼は何冊かのキャンパスノートを取りだした。ぱらぱらとめくっていくのを見やる。島崎が生まれて間もなくの日付で、ときどき写真が貼ってある。
「アルバムと、ビデオをDVDに落としたやつもありました」
いかにもベビーアルバムですといったような、可愛らしいタッチの赤ん坊のイラストが表紙になっている二冊のアルバム。一冊はピンク、一冊は黄色。そして何枚かのDVD。盤面にマジックペンで記された日付は、島崎家がまだ4人家族だった頃のものだった。
「わざわざダビングしてたとは……いてっ」
手を伸ばした刹那、指先に痛みが走った。
「大丈夫ですか?」
「平気。紙で切った」
手にしていた日記帳で切ってしまったようだった。左手の人差し指に赤い横線ができている。小口の部分と皮膚がこすれて切れたらしい。夏目はすばやくテーブルの上にあったティッシュをこちらに寄越した。礼を言い、数枚引き抜いて切った箇所をおさえる。
「ずいぶん鋭利な日記帳ですね。ほかのノートはほら、こんなに紙がへたれてるのに」
夏目が育児日記のほうをひらひらと揺すってみせた。
「そりゃ、そっちのほうが明らかに古いし――……」
そちらに目をやり、はたと島崎は動きを止めた。夏目が怪訝な顔をする。
彼がいま振ってみせたノートと、自分が手を切ったノートを見比べる。
「……サイズが違うな」
「へ?」
「それ、A4でしょ? こっちのもA4っぽいけど、ちょっと小さい気がする」
読んでいた日記を彼の前にスライドさせると、夏目は手にしていたノートと合わせた。高さは一致するが、横幅は島崎が手にしていたほうが3cmほど短かった。
「ちょっと幅が合わないですね」
「だよな」
夏目は両方のノートを開き、見比べてから顔を上げた。
「島崎さん、これ、裁断されてません?」
彼はノートの小口側を指し示した。「罫線が不自然に切れてます。普通のノートはこっちみたいに、一番外側の5mmくらいは空白になってる」
育児日記のほうは普通のキャンパスノートで、夏目の言う通りに罫線がページ内におさまっており、小口は真っ白になっている。いっぽう、島崎が手を切ったほうは罫線が途中で不自然に途切れており、小口には罫線のラインが出てしまっている。
よくよく小さいほうのノートを見る。裁断の線はきれいで、ハサミで切ったものとは考えづらい。それに日記は途中で途切れてもいない。すでに裁断されているノートに日記を書いていたことになる。
夏目は衣装ケースをひっかきまわし、同じスリーブケースに入った日記を見つけだした。日付は裁断されているものより2年ほど前だが、ノートはきっちりとA4サイズだった。
「これ、どういうことでしょう」
「どういうことだと思う?」
島崎は無意識に問い返した。脳裏には二つの可能性が浮かんでいた。
「裁断した部分に何か重大なことが書かれていた、とか?」
「そうかもな。あるいは」島崎は傍らにあったものを手に取る。「箱のほうに仕込みがある」
紺のスリーブケースを取り、裁断されたノートを入れてみる。ぴったりとはまり、見た目には何もおかしいところはない。
とすればだ、と島崎はケースに手を突っ込んだ。裁断されているのにぴったりはまるということは、ケースが底上げされている。厚み2cmほどの空洞に手を入れると、すぐに中指が行き止まりにあたる。試しに手を左右に振り、ケースごと揺らす。何の音もしない。
爪で周囲を引っ掻いてみる。きちんと加工されているようで、取っ掛かりになるようなものは見当たらない。
「夏目くん、寝室のデスクの上に黒いペンスタンドがある。3段目にカッターがあるから取ってきてくれない?」
夏目はすぐに立ち上がり、ほどなくして青色のカッターを手に戻ってきた。受け取り、箱をなるべく傷つけないよう、背面に刃を差し込む。ゆっくりと刃を動かし、5cmほど切り込みを入れてから、真横にも1cmほどの切り込みをつける。
心臓がいつの間にかうるさいほどに高鳴っていた。夏目もしゃがみこみ、島崎の手元を凝視している。切り込みを入れた角に指をかけ、めくりあげる。
背面部分は素材が厚く少し力が必要だったが、びり、という音とともに厚紙が剥がれてゆく。ゆっくりと、中ほどまで破ってから島崎は息を飲んだ。夏目も「あっ」と声をあげた。
スリーブケースの内側は裁断した分が底上げされていた。内面と同じ素材で傍目には分からないようになっていたその空間には、1本のUSBメモリがテープで固定されていた。
デリバリーウィル 須永 光 @sunasunaga
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