第60話 ふたつの隧道

(これまでのあらすじ……)


 住民が上申書を出す一方、峰一郎は伊之吉の構想を聞いて興奮します。郡役所ではようよう手詰まり感に焦燥が募りますが、和田書記は一人の少年の存在に気付きます。同じ頃、南の栗子隧道建設現場に三島県令の姿がありました。三島は栗子の現場に立ち、これまでの苦労に思いを馳せます。


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 内務省の会議室、石井省一郎土木局長の話しが一区切りつき、石井が会議参会者を見回したとき、局長のひとりから発言がありました。


「秋田、山形からの新道連結はよろしいのですが、山岳新道でもあり、積雪の多い奥羽の地にあって、冬期間の交通はどこまで保証されるのでしょうか?山形県令より、隧道建設についての強い要望が出ているやに、耳にいたしましたが?」


 その発言に大久保利通内務卿は憮然とし、石井局長は顔を歪めます。逆に前島密内務少輔が興味深げに眼を輝かせはじめました。


 それはこの計画の最大のネックとなっているところでもありました。ただでさえ膨大な国費を費やす計画に対して、大蔵省を始めとする政府部内からも慎重論の声が聞こえているところです。


 現時点でも野蒜築港の事業本体工費35万円に加えて、山形・秋田からの新道建設も含めた野蒜周辺事業等を合わせて68万円の膨大な金額に予算が膨らんでしまいました。その予算問題は大久保卿らを大いに悩ませているところです。


 そんなところへ、大久保の腹心である三島通庸山形県令からトンネル建設の熱心な運動がありました。それが明治11年4月『当県より宮城県へ通ずる新路線隧道開鑿費御下渡乃儀に付き伺書』と題する三島県令より大久保内務卿へ宛てた要望書でした。


 多額な建設費が明白な三島のトンネル案に対し、大久保は山を削って切り通しを作る街道整備の代案を三島に返答しました。しかし、これでは12月から4月までの冬期間は積雪のために通行が途絶するのが明白です。


 この状況を容認することは、せっかくの東日本広域物流ネットワークの網から山形県だけがこぼれ落ちてしまう結果となります。


「なるほど、切通しの街道案では、冬期間の交通途絶は必死ですな。郵政事業の観点からも、中央との通信確保の点からも、山形県令の申すことは理にかなっております」


 前島が興味をそそられたように疑問を呈します。更には松田道之内務大丞も声を合わせます。


「琉球のごとき遠隔地では、政府の通達に1週間以上かかります。日数の問題だけでなく、政府の違令が届かぬがために先例踏襲をせざるを得ず、沖縄県と名前だけ変えても、未だに地租改正すらできません」


 せっかく新道建設をしても、山形県のみ冬期間は江戸時代さながら北前船航路と最上川舟運に頼らねばならなければ、何のための新道開削か分かりません。


 松田は大久保卿の顔色をうかがいつつ、大久保卿ではなく、石井局長に尋ねます。


「隧道建設となれば、かなりの予算が必要となりますが、石井局長、総事業費の予算の目処は立ちそうですか?」


 それまで苦虫を噛み潰したかのように渋面を隠さなかった石井は、この話題転換に、得たりとばかりに意気揚々と話し始めます。


「隧道建設の可否はともかく、確かに、予算調達は難問です。しかし、大久保卿のご尽力にて、最も高額となっている野蒜築港および周辺事業の総工費68万3千円を、日本初の国内市場向け国債として、起業公債を発行する予定であるとです。現在、大蔵省と調整中とです」


「おお、それは重畳」


 前島と松田は、わざとらしく喜びをあらわにした表情を見せました。結果的に隧道建設問題を巧みに予算調達問題にすりかえた形となりましたが、前島と松田は、殊更に安堵を表明することによって、ここでの隧道討議を打ち切りに持っていきました。


 大久保や石井も隧道建設が正論であることは承知しています。その様子から、前島と松田は、もうしばしの根回しと検討が必要と見て、この会議では隧道建設問題を提起するに留めることが得策と判断したのでした。


 それでも三島県令の上申内容はもっともなことでしたし、かといって予算問題は公債発行とはいえデリケートな状態にあります。隧建設問題をどうするか、この時点ではまだ大久保も考えあぐねていたのです。


 なお、時の大蔵卿は肥前藩出身の大隈重信で、薩長とは犬猿之仲と思われがちですが、意外にも大久保との関係性は良好でありました。大久保は膨大に膨らむ予算問題で大隈と相談を重ね、大隈からの公債募集案に一も二もなく飛び付いたのでした。


 これは、まだ未熟な日本経済としてはどれだけの公債応募が集まるか微妙でもありましたが、国際的信用がいまだ未知数で外債が期待できないこの時代、やむを得ない選択でした。


 しかし、錬金術にも見えるこのウルトラCの大隈の提案には、大久保にとっても渡りに舟でした。これにより、山形から野蒜港に繋げる新道整備もこの起業基金土木事業として決定することになります。


 それでも、大久保は優秀な内務官僚たる子飼いの三島に対し、隧道建設についてはなかなか首を縦に振りませんでした。


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 その後、事態は急転します。


 この、会議のわずか1か月後の明治11年5月14日、馬車で皇居へ向かう途中の大久保卿は、紀尾井坂付近の清水谷にて6人の不平士族に襲撃され落命します。まだ47歳の働き盛りでした。


 その後、大久保の後を継いで伊藤博文が内務卿に就くと、先に述べましたように、改めて三島は猛烈に隧道建設の陳情運動を展開します。その結果、住民までをも駆使した三島の運動は実をむすび、隧道建設費用は国庫から支出されることになります。


 しかし、野蒜築港関連事業の特別公債の枠は、既に大久保内務卿と大隈大藏卿の間で細かく詰められています。今更、やり直すわけにもまいりません。


 そこで、当初、想定されていた新道建設費をすべてトンネル建設に充てることといたしました。では、新道建設費はどこから捻出するか?最終的に玉突きの玉が止まったのは、住民の所だったのでした。


 かくして、関山新道建設問題は住民を巻き込んだ大騒動に発展したのでした。


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「閣下!閣下!」


 栗子山を前にして、これまでの苦労を思い起こして感慨にふける三島通庸に、何度も背後から声がかけられました。そこは、関山よりも更に南へ直線距離で20里以上離れた、関山とは別のもうひとつのトンネル、山形県と福島県を繋ぐ栗子隧道の工事現場でした。


「おお、すまんすまん、ちいっと考えこつしとったでな」


 そこにいたのは高木秀明県土木課長でした。時は明治13年10月17日、既に1週間も三島県令は工事現場の人足小屋で寝泊まりしていたのです。


「程々にしていただかぬと、周りの者が迷惑いたします。中村技士がこぼしておりました。絵図を引いてる間中、閣下が傍でじっと見られているから休む間もない。閣下から一服しろと言われて煙草を吸いに外に行って帰ったら、閣下が手ずから罫を引かれていて困ったと」


 中村技士とは、栗子隧道建設工事を担当していた中村章重測量技士のことです。三島は酒だけでなく、煙草も吸いません。まさに仕事の虫でした。


「何ばゆうちょる。あやつは、こん前も、おいがしつこく、どうかどうかと聞くっとで、まだ五十間もあっとに、適当に『三十間位じゃ』とおいを騙しおった。あっはっはっはっ!」


 そう言いながらも三島は笑って、中村技士に対していささかも不満そうには見えませんでした。三島はどこまでも現場の人間で、人々が汗を流して働く姿が大好きでした。気付くと、三島はいつもその中に飛び込んで、自らも得物を担いで汗を流していました。


「ところで、おはん、こんなとこまで、何しに来っとじゃ?」


「何を言われます。閣下が全部ほっぽり投げて栗子に居られるから、県庁の政務が滞って皆が困っております」


「そんなん、おはんと鬼塚とで適当にやっちょけばよか」


 三島はつまらんとでも言いたげに、ソッポを向いて答えました。しかし、そんな三島には構わずに高木は報告を続けます。


「それと、昨日、山形新聞の早坂於菟司編集長に、新聞記事内容について、県令讒謗の罪で、山形裁判所が罰金15円の有罪判決を出しました」


「ほう!」


 途端に三島は、少しは興をそそられたかのように、高木に顔を向けます。高木は無表情のまま、淡々と話を続けます。


「その後、昨夜のうちに山形新聞側とは話をつけてきました。まだ、はねっ返りも出るかもしれませんが、もう、住民上申に記者は同行しませんし、記事の論調も変わるでしょう」


 三島は、頷いて聞き終えると、噛みしめるように高木に言いました。


「うむ、ようやった。おやっとさぁじゃったな……」


 三島は、目の前の栗子の隧道を見つめながら、満足そうに何度も頷きました。


 そのトンネルの入口では多くの人夫が出入りして、掘削した土砂を搬出していました。中村技士の測量通りであれば、福島側と山形側からの坑道がつながるまで、もう、間もなくと思われています。


 宮城県から太平洋航路へと繋ぐ関山隧道、そして、福島県から東京へと繋ぐ栗子隧道、このふたつのトンネルが、山形県の未来への発展に繋がっていることに揺るぎない信念を持つ三島と高木でした。


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(史実解説)


 大隈重信は薩長から嫌われていたという説は根強いものがあります。しかし、なぜか大久保とは良好な関係を保っていたという記録もあります。大警視川路利良がどうにも苦手で嫌いだという大隈の話しを聞き、大久保が大隈と川路の仲を取り持ち、以後、二人は親睦を重ねたというエピソードがあります。また、大久保遭難に際し、大隈の衝撃と嘆きを語った大隈夫人の記録や大隈自身の大久保談も残っています。薩長嫌いの大隈という図式は分かりやすいものの、内務卿として大蔵卿との関係に配慮した可能性はあります。青年時代、精忠組の一員でありながら、憎んでも憎み切れない島津久光に取り入り薩摩藩中枢に食い込んだ、大久保のマキャベリズムとも言える政治的バランスの素晴らしさが明治政府でも発揮されていたかもしれません。


 栗子での「五十間」「三十間」のやりとりは、実際は三島県令と高木課長の会話として記録に残ります。しかし、本編では、筋立ての上で、敢えて中村技師とのやりとりとしました。三島は自由民権運動弾圧の経歴で、暴虐な内務官僚とのイメージが強いものの、実は天真爛漫で明るい薩摩っぽの側面もあり、非常に人間臭い魅力的人物だったと見受けられます。


 しかし、それとは真逆に新聞弾圧は厳しいものでした。それは、讒謗律への抵触として裁判で言論封殺するものでした。明治13年だけで本編にある山形新聞のみならず、東北新報・扶桑新誌・近事評論・江湖新聞の各紙が軒並み有罪・罰金刑を受け、翌14年3月には朝野新聞が有罪・罰金刑を受けます。すべてが県令批判記事で、土木事業関連での県民の苦境について述べた記事でした。なお、この讒謗律という法律は、前にも解説しましたが、保護対象は皇室と官吏で、記事内容の真偽は問いません。つまり、記事内容がすべて真実でも官吏批判はすべて有罪となるのです。


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(おわりに)


 明治11年、内務省での東北7大工事を受けて決定した関山新道計画でしたが、そこに隧道建設を組み入れる事に三島県令は苦心惨憺しながらようやく栗子隧道貫通まであとひと息と迫りました。現場で感慨にふける三島のもとに高木課長が現れ新聞対策の報告をします。それは峰一郎たち東村山郡住民にも大いに関係する事でもありました。

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大杉の誓い~外交官 安達峰一郎 青春譜~ 清十郎 @mayuya

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