第59話 関山の真実~東日本広域インフラ整備計画

(これまでのあらすじ……)


 遂に住民は上申書を出しました。峰一郎は伊之吉から法整備や国会構想を聞いて興奮します。郡役所ではようよう手詰まり感に焦燥が募りますが、和田書記は、伊之吉の周辺に一人の少年の存在に気付き、その少年が住民間の連絡を果たすツナギである事を見破ります。同じ頃、南の栗子隧道工事現場には三島県令の姿がありました。


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 明治11年4月某日、東京府下、帝都内務省の会議室にて……


 重厚な格天井の施された高い天井のもと、1人の痩身に見事なカイゼル髭を蓄えた男が立ち上がって、会議室内にいる面々を前に話しをしています。


「今や、戦乱と創業の激しか時代は終わりを告げもした。こいからは内治を整え民産を興隆せしめる、まさに殖産建設の時代に入りもす」


 既に西南戦争が終結して半年、戦後処理もあらかた終わり、国内は平穏さを取り戻していました。もはや、不平士族をまとめる吸引力のある大物もなく、誰もが『内乱の時代』の終結を実感していました。


「そいには、日本各地に物流の一大拠点ば造り、全国の物流活性化をば促進し、もって産業の興隆を全国規模で推し進めっとでなければないもはん」


 そう話しをしている男は、内務省トップ、内務卿大久保利通でした。そして、この会議室にいる男たちは、前島密内務少輔、松田道之内務大丞、以下、各部局の内務省中枢の首脳陣でありました。


 ここにいるメンバーが事実上の日本国家の最高意思決定機関と言っても過言ではありません。ことほどさように、当時の内務省は日本行政機関の中でも最重要の最強機関でありました。


 形式的には最高執行機関である太政官の下部組織であり、工部省・外務省・陸軍省・海軍省・司法省・宮内省・大蔵省・文部省・開拓使と並ぶ行政機関のひとつではありました。


 しかし、治安維持から地方行政全般を管掌している内務省は、各専門行政に特化した他の省庁に比べ、一般内政全般を司るその権力には絶大なものがありました。


「蝦夷地は別として、奥羽越は本邦において開化のもっとも遅れた地域でありもす。冬の天候は厳寒、土地は痩せ、山岳部が多かもんで産業も育ちもはん、地域の連絡にも不便でありもす」


 参会者はしんとして大久保の話しに聞き入ります。


「しかも、こん地域は、そん立地に鑑み、ロシアに対する北辺防備の重要拠点でもありもす。こいを抜本的に解決すっため、先月、内務省として奥羽越の北辺開発につき、三条公へ伺い書を提出したんは、皆も御承知置きの通りでありもす」


 それは、3月6日付けで内務省より三条実美太政大臣へ提出された『一般殖産および華士族授産の儀』という公文書のことです。


 題名からも類推できますように、殖産興業政策のためのインフラストラクチャーの整備とともに、不平士族対策として、雇用創造と促進を高めることで、士族処遇に資する目的も加味されていました。


 そして、その具体的内容は東日本土木7大プロジェクトとでも言うべき壮大な土木開発事業でした。それは東北および新潟・北関東までをも網羅する広域開発事業でありました。その内容は以下の通りです。


 ①野蒜築港と北上運河開削

 ②新潟港改修

 ③新潟~群馬間の清水峠道路改修

 ④大谷川の運河開削、および北浦~涸沼間の運河開削、これに伴う那珂港との水運連結

 ⑤阿武隈川改修と貞山運河整備による、福島~仙台間の水運連結

 ⑥阿賀野川改修による福島から日本海への水運連結

 ⑦印旛沼と検見川を運河で結び東京までの水路連結、いわゆる印旛用水路建設


 これらの諸工事は内務省サイドで勝手に計画したものではなく、明治9年に行われた明治天皇の東北巡幸の際、各知事から受けた請願を参考にして審議検討され、最終的に集約して内務省が策定したものでした。


 基本事業総工費150万円、現在の価値でおよそ300億円を超える大プロジェクトでした。


 平成28年の日本国家歳入102兆円で考えれば300億円の総工費は0.02%に過ぎません。しかし、国家財政が遥かに貧弱であった明治13年当時、この総工費は、6300万円しかない13年度国家歳入の2%にも達し、国家財政を厳しく締め付ける大事業なのでした。


 中でも、工費35万円と見積もられた①の野蒜築港事業は、七つの事業の中でも、もっとも大規模な事業でした。②の新潟港改修でも予算規模は31万円、他の事業は延べて20万円前後の事業規模でした。


「今後はこの開発方針に基づき、奥羽越各地で大規模な開発工事を実施するための準備に入らねばなりもはん。本日は、まず、宮城県桃生郡野蒜村の築港計画につき、省内での意見調整を行いもす。おはんらの忌憚のない意見ば期待しもす」


 そう言葉を締め括った大久保内務卿は、ゆっくりと着席しました。


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 代わって、大久保の隣席に座を占める若い土木局長が立ち上がります。その名を石井省一郎と言いました。


 元小倉藩士、第二次長州征伐時における小倉戦争において、長州藩との停戦交渉に活躍した経歴を持つ男で、若干35歳の若さでありながら内務省の実務職トップたる土木局を任されていました。


「東北の地に大久保卿の構想さいる物流拠点を作るにあたり、日本海側・太平洋側・内陸部の各都市の地理、河川・平野の状況、北辺防備の対応等の諸条件をば勘案し、土木部としては仙台平野を奥羽越の中心拠点に整備すべきとして、野蒜築港計画を策定した処であるとです」


 何回かの会議と実地調査を経て、肥沃な仙台平野を開発し、そこを軍事・産業・物流の拠点として整備することは、既に内務省としての諒解事項となっていました。


「今般、仙台平野全般の実地調査を経て、野蒜村に奥羽の拠点たる港湾を建設すっとです。ファン・ドールン氏による現地調査は昨年春より開始され……」


 ファン・ドールンとはオランダ人土木技術者で、いわゆる、お雇い外国人のひとりであります。彼は宮城県沿岸部の現地調査を通して、東北における物流拠点に相応しい地域を選定するための報告助言を求められていました。


 まず、築港要望の多かった北上川河口は上流からの堆積土砂の多さが難点であり、女川地区は湾内が狭い上に東に偏在して仙台との連絡が悪い、牡鹿半島西部萩ノ浜は陸上からの交通が不便で、松島湾内石浜地区は波浪は少ないものの島嶼部で陸地から遠いことが指摘されました。


 つまり、以上の各候補地は、いずれもファン・ドールン報告書によって、拠点的港湾建設には不適格と検断されたのでした。


「……しかるに、野蒜地区は、南にある宮戸島のお蔭で外海の波浪が緩和され、西に松島湾へ面し、塩釜まで3里、東は石巻まで5里と近く船便も良い、更に河口の成瀬川改修でその水運利用が可能であり、野蒜築港の有用性は疑うべくもなかとです」


 石井局長は、ファン・ドールンの調査報告書と大久保卿の御意向を最大限に活用して、自らの構想を雄弁に語ります。まさに、内務省内に石井あり、『土木の石井』と言われた手腕を発揮して列席者に疑問を与える隙も見せませんでした。


「……岩手県からは北上川の水運を利用して宮城県との連絡を確保し、福島県からは阿武隈川の水運で仙台・野蒜と連結し、更には新潟の阿賀野水系・安積疎水と繋いで新潟とも連携し、従来の水路を十二分に活用して、東日本全体の河川交通網整備の中核に野蒜をばすっとです」


 東日本を網羅する雄大な構想を得々と述べた石井は、参会者の顔を舐め回すようにゆっくりと見つめます。そして、反応のなさをむしろ自分への信任と受け止めたかのように、更に話しを続けました。


「山形・秋田両県からは奥羽山脈を貫く新道建設で野蒜と陸路連結を図ります。間もなく野蒜築港内務省土木局出張所が開設する運びとなっとで、今後、各地での資材および人夫の調達を進め……」


 そこで、書類の束を置いた石井は、列席者の面々を見渡しつつ、締めくくりとして、以下のように言葉を結びました。


「早ければ一連の工事に先駆けて、7月頃には北上運河建設が始まる予定であるとです」


 現場出張所には、石井局長の腹心で、同じ小倉藩出身でもある気心の知れた早川智寛が、現場主任として着任する手筈になっていました。本日の会議が省内の意見調整とは言いながら、既に現場ではすべての歯車が動き出していたのでした。


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(史実解説)


 会議参加者において、内務卿の次官たる内務大輔が、なぜ、この期間不在だったかの理由は不明です。内務大輔が改めて任命されたのは、大久保遭難後、伊藤博文内務卿の時代になってからの明治12年10月16日、薩摩出身の大山巌が内務大輔に就任してからのこととなります。


 内務少輔の前島密は郵政事業、内務大丞の松田道之は琉球処分事案がそれぞれの専門担当でした。前島は幕臣出身、松田は尊攘派とはいえ鳥取藩士出身で、有能ではありましたが、いずれも内務省内では傍流であったと思われます。以上の状況からも、土木事業については完全に大久保・石井ラインによる事実上の専断でことが進められていたと考えて良いかと思います。


 ちなみに、石井局長が岩手県令に転出した明治17年、石井の後を継いで土木局長に就任したのは、元山形県令の三島痛庸でした。奇縁を感じざるを得ません。


 この東日本7大事業は、当時の感覚では現代の新幹線鉄道網建設事業や本四架橋事業に匹敵するものだったかもしれません。しかし、戦後のそれら事業が半世紀前後もの期間を要したのに比べ、明治の事業がその規模に比べて極めて短期間に行われたことは非常に驚くべきことでありました。しかも、既存の水運を最大限に活用した環境に優しいエコロジーな土木事業である点も、現代社会にとって見習うべきことは多いかもしれません。


 なお、野蒜築港の周辺事業も含めての総額68万3千円という総工費は、後の明治22年に横浜築港工事が始まるまで、日本最大規模の港湾建設事業でありました。


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(おわりに)


 関山新道建設問題に先立つ2年前、明治11年、明治の元勲、大久保利通率いる内務省で東日本広域インフラ整備計画が決定されました。すべての問題はここから始まったのでした。

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