第58話 和田の追及!峰一郎の危機!

(これまでのあらすじ……)


 遂に住民は上申書を出して旗幟を鮮明にしました。東西のツナギを果たす峰一郎は伊之吉から法整備や国会構想を聞き、興奮冷めやらぬ峰一郎と梅でしたが、いつしか二人を狙う黒い影が近づいていきます。その後、住民総代が郡役所の回答に反駁する再上申をする中で、東村山郡住民の民費撤回運動は次第に住民の中にも広がりを見せます。しかし、郡役所ではようよう手詰まり感に焦燥が募ってきます。


 **********


 住民からの再上申を受けた後、平静を装ってはいても、次席書記の和田徹もまた、内心の苛立ちは押さえようもありません。


 従僕の詰所で、和田は従僕からの報告を受けながらも、つい声を荒げてしまいました。


「まだ、奴等の動きは掴めんのか!」


 和田は従僕たちを総動員して、須川の渡し場に網を張って、高楯村の安達久右衛門と天童村の佐藤伊之吉のツナギに目を光らせていました。特にその繋がりの解明が留守書記からの厳命でもありました。


 一方の最上川の船着き場には天童警察署から派遣された巡査が配置され、県外の民権運動家の潜入も含めての警戒を強めていました。しかし、まだどこからも不審者の報告は上がって来ていません。


 更に、山形警察署では須川と馬見ヶ崎川の渡し場に巡査を配備し、東村山郡と山形との往来への監視態勢も強化していました。それは、東村山郡住民による山形裁判所への提訴を未然に取り締まるためでした。


 しかしながら、このように厳重な警戒のもとでありながら、まるで示し合わせたかのように、山野辺地区から来る安達久右衛門と天童村の佐藤伊之吉は、時間ピッタリに郡役所にやって来ました。


 しかも、改めて再上申書を作成したものまで持参して来ました。これは、あらかじめ両者の綿密な打ち合わせもなく出来ることではありません。


「どのような些細なことでも良い。何か気付いたことはないか?」


 和田の問いかけにしばらく思案した体の従僕の一人が、何事かを思い出したかのように返事をしました。


「そう言えば、伊之吉の娘が、よく、よその小僧とよく逢い引きをしておりました」


「なんだと?」


 一瞬、和田の目が冷たく光りました。


「ませたガキどもで、おとといも真っ昼間っから外で口を吸いあっておりました。父親は必死に動いているのに、娘があの歳であんな淫乱の男狂いでは、伊之吉も気の毒ですな。甘やかして育てたんでしょうが、あのザマは、とてもまともに見られたもんじゃありません」


 和田はすぐに反応します。


「一昨日と言えば9日だな!……ふむ、……その小僧の素性を、急ぎ、調べよ!」


 しかし、従僕の方は和田の反応を意外な面持ちで受け止めました。


「たかが、ガキの逢い引きですが……」


 しかし、現時点で何も掴めていない焦りなのか、それとも藁をも掴みたい気持ちがそうさせるのか、和田は子供の行動にまで過敏に反応をしてしまいます。


「いや、どんな些細なことも見逃してはならぬ。その小僧のことで他に知っていることはないか?」


 その従僕もただ見ていただけではありませんでした。多少なりともその調査は形だけでも行っており、思い出すように情報を披露します。


「渡し守の船頭に聞いたところでは、親が決めた許嫁同士だそうで、渡し賃の払いも良いし、挨拶もちゃんと出来るので、長崎あたりのどこぞの地主の息子じゃないかと言っておりました」


 和田は「長崎の地主」という言葉に少し引っかかったようです。長崎のすぐ先は山野辺地区です。


「長崎の地主か……他には!」


 しばらく考え込んだ後、その従僕は何かを思い出した様子で、慌てたように大声で答えました。


「そ、そうだ!留造だ!留造なら、なんか知っているかもしれません!」


 突然の素っ頓狂な叫びに、和田も釣られて声を挙げてしまいます。


「どういうことだ!分かるように言え!」


「先日、和田様のお供で県庁に行った帰り、あの時も渡し場にガキどもがいました。蛸首のところです!あの時、留造がそのガキのことを、どこかで見覚えのある小僧だと申しておりました!」


(私が県庁に行ったのは、留守様の命で行ったあの時のことだな。あれは確か……)


 それは先月の26日、留守の命で県庁を訪れて高木課長や鬼塚警部と話し合いをした帰りです。蛸の首という須川の湾曲部で舟が揺れた時、確かにあの渡し場に少年がいたのを和田は思い出しました。


 およそ二週間も前のことでしたが、なぜか和田の脳裏にあの時の少年の眼差しが鮮明に浮かび上がったのです。和田を見つめるその瞳は、今思えば、とても深く印象に残る瞳でした。


 あの時、和田はその少年を一瞥しただけでしたが、その時の少年の眼差しを思い出した瞬間、それまで漠然としていた和田の懸念は、急速に確固たる信念へと変わっていったのです。


(奴だ!間違いない、奴が東西のツナギに違いない!)


 和田は怒気をはらんだような大声で叫びました。


「留造を連れてこい!どんなことをしても構わん!身体に聞かせても良い!無理にでも留蔵に思い出させるのだ!」


 **********


 東村山郡役所で住民側の再上申が行われたこの同じ日、明治13年10月11日、三島通庸山形県令の姿は、東村山郡の遥か南、福島県との県境に近い栗子山の隧道建設工事現場にありました。


 三島は、栗子山の隧道が完成しなければ、そこをわが墳墓とする覚悟で事業を推進しており、掘削工事貫通間近と思われていたこの時期、西口工事小屋にて工事人夫たちと起居を共にし、人夫を激励しながら貫通の一瞬を待っていました。


「貞吉!どうじゃ!工事の具合は!」


 三島県令は、現場で仲良くなった人夫へ気さくに声を掛けます。


「県令さんもせっかちじゃの、偉いさんなんじゃから、俺ださ任せで、小屋ん中で、でんと構えでれ!」


 人夫たちも慣れてしまったようで、県令相手でありながら、まるで親戚の親爺にでも言うかのようにぞんざいに答えています。


「はははは!薩摩もんはぼっけもんでの!じっとしておれんがじゃ!」


「県令さんが持ってきてくれた機械がすげぇだで、俺だのノミ掘りの50人分の働きだ!」


 実際、当初は手掘りのみで隧道建設工事をしていた人夫にとっては、信じられないほどのスピードでした。現場当事者にとっては、まさに神業に見えたものだったのでしょう。


 これは当時、英国に1台、米国に2台のみ、まだ世界に三台しかないと言われていたもので、インガソール鑿岩機械株式会社製「三脚付き蒸気力圧搾空気鑿岩機」と言います。


 このインガソール式削岩機は、明治9年にワシントン産業博物館で開催された、アメリカ独立百周年記念万国博覧会に出品されたのでした。その後、三島と同じ薩摩出身で、当時、工部大輔・宮内省御用掛をしていた吉井友實から、この機械の存在を三島が教えられたのでした。


 明治10年8月10日、三島の命を受けて上京した高木秀明課長は、工部省工作局長であった大鳥圭介のもとへ赴き、インガソール削岩機の輸入購入に尽力をお願いします。


 そして、1年以上経った明治11年10月28日、大鳥局長よりインガソール削岩機が米国より横浜に到着したとの知らせを受け、三島県令は高木課長に即日上京を命じました。いかに、この削岩機を三島県令が渇望していたかが分かります。


 11月10日、赤羽工作局に保管してあったこのインガソール削岩機を高木課長自身が種々試験の上、栗子隧道工事への導入について検討しました。そして、実際の運用にあたって、様々の付属部品の追加製造調達を英国インガソール社に発注したのでした。


 諸般の準備を整えて、11月29日、削岩機本体は品川より鳳昌丸で宮城県下に陸揚げされ、栗子の工事現場に削岩機がようやく到着したのは、更に1ヶ月も過ぎた12月21日でした。そして、極寒吹雪の中、深夜突貫で組立て作業が行われたのでした。


 そのように苦労に苦労を重ねて調達した舶来の最新削岩機でしたので、三島県令にとっては実の我が子以上に思い入れの強い機械でした。その機械を現場の人夫から掛け値なしに賞賛された三島県令としては、手放しで大喜びしたのは言うまでもありません。


「50人か!50人力は良かど!あっはっはっはっ!」


 費用に関係なく、実際の機械の恩恵というのは現場の人間が一番分かるものです。


「ほいだげでね、勢いえぐ砕いっだなさ、塵もでねがら息も苦すぐね、楽でしぇえ!県令さんのお蔭だべな!」


 従来の坑道掘削では、もともと換気が難しい環境の中だけに、削岩に伴う粉塵混じりの空気汚染問題が意外に大きな懸案となっており、中長期的には人夫の健康問題にもかかわる重大事案でした。


 しかし、このインガソール削岩機は、蒸気力による圧搾空気の力を以って穿坑器を運転させ、黒色火薬で発破の穴を穿つものでした。その圧搾空気は器械を運転させて坑道内に充満し、結果的に坑道内には常に新鮮な空気が送り込まれる状態となっていました。


「そいは良か!空気がうまかか!はっはっはっはっ!おやっとさぁじゃが、皆々、いまひといき、頑張ってくいやんせ!雪が来る前にの!」


 栗子の秋晴れの空に、三島県令の明るい笑い声が大きく響いていました。


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(史実解説)


 蛇足ですが、ダイナマイト使用は、明治17年に隧道竣工を見た柳ケ瀬隧道工事からで、栗子隧道工事では黒色火薬を使用したと言われています。しかし、一説には、栗子工事でもダイナマイトが使用されたとの諸説があります。


 また、米国の売却元より削岩機運転要員派遣の申出もありましたが、既に実地で機械運転に習熟した高木課長や松井篤介技師の学習能力の高さにより、純粋な日本人チームのみで掘削作業は進められました。先に御紹介したお雇い外国人のエッセルは、実際のインガソール削岩機が現場に到着する前の明治10年9月24日~29日、栗子工事事務所において、三島山形県令・山吉福島県令・中村弘教工部省少書記官との四者協議で、工事推進方針の確認をした後は、山形に来ることはありませんでした。つまり、エッセルはインガソール削岩機の導入使用の検討段階については関与していましたが、実際の工事運用には一切関知しておりませんでした。つまり、欧米でもまだ本格的な山岳隧道建設が端緒についたばかりのこの時期、栗子隧道工事は完全な日本人の手によって遂行された世界的な壮挙であったと言えます。


 **********


(おわりに)


 佐藤伊之吉の監視をしていた従僕に、現状報告を求める和田書記でしたが、そこに一人の少年の影が浮かんできました。和田はその少年が天童と山野辺の連絡を果たすツナギである事を見破ります。ちょうどその同じ日、遥か南の栗子隧道工事現場には三島県令の姿があったのでした。

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