犬の口伝
どうやら涙の
いや……
こうやって魅力的な話をして手篭めにするのが、きっとこの
「結構よ」
「なんだよ。あの時だって、もっとして欲しそうな顔をしてたから、もう一度見せてやろうとしたのに。いきなり突き飛ばすなんて」
もっとして欲しそうですって⁉
叫びたい気持ちが破裂して声にならない。
見惚れていたのは確かだけれど、自分がそんなに物欲しそうな顔をしていたのかと思うと、心底恥ずかしい。それよりも、この少年は自分のしたことを棚に上げて、一体何を言っているのだ。
確かに泉に突き飛ばしたのは申し訳なかったけれど。
その時、ぐううっと地を這うような音が聞こえた。
「な、何の音⁉」
慌てて辺りを見渡したが、正面から視線を感じた。腹に手を充てがった少年が眉尻を下げてこちらを上目遣いに見ている。
「ま、まさか、わたしを……」
食べに来たのか? 瓢箪に残された匂いでも辿って、追ってきたのだろうか。
ぐううと返事が聞こえた。
「朝からずっと探し回ってたんだ。樹の
樹の
少年は卵型のハンギングチェアの縁に手を滑らせながら、再び身を乗り出してきた。
「なあ、食べさせてくれよ。構わないだろ?」
やっぱり!
それにしても、なんて甘い声なのだろう。その美貌も声も、恐らく
執念なのか、こんなところまで追ってきた。それに捕まってしまったのだから、どの道、もう逃げ場はなさそうだ。
きっと、この美しい姿に魅了された時から、既に決まっていた運命なのだ。
諦めて頷くと、少年は輝くように笑顔になった。
「ずっと食べてみたかったんだ。でも、名前が分からないから……」
ずっと? そんなに前から狙われていたなんて。
そう考える間に飛びつくように抱き留められ、またあの柔らかい感触がする。余程飢えているのか、どこか性急で荒々しさも感じられた。こじ開けるようにして、強引に舌を絡め取られた。
やっぱり、これがあの味見の続きなのだ。はじめは味見だったからこそ、まだ優しさがあっただけ。これから本格的に喰われる。
なんて、短い人生だったのだろう。
ねっとりと深く深く求められ、背筋がゾクリとする。痺れるような感覚が走り、また自分の内側が真っ白なカンヴァスに置き換わったような感覚に陥る。あの時と同じ、青林檎のような甘く爽やかな香りが、心を宥めた。
身体の芯が疼くように心地良く、逃げようという気など、さらさら起こらない。寧ろその快感にずっと浸っていたい気さえした。
それがこの
白いキャンバスには、徐々に鮮やかな光景が描かれていった。
今回は何やら丸い円盤に……どうも見慣れたものであるのは気のせいだろうか。これが走馬灯というものなのか。
この
「なあ。どうだった?」
不意に声がした。どうって……わが人生に悔い無しとでも答えれば満足だろうか。
「おーい。また狸寝入りか?」
腕に抱かれたまま、目を閉じてじっと動かずにいると、舌先でぺろりと唇を舐め上げられた。
間違いない。目の前にいるのは、犬の
朝になって腹を空かせ、まだ夢見心地で
「もう! わかったから!」
たまらず顔を手で押しのけた。ため息が漏れるほど滑らかな肌だった。
「本当か⁉ あの丸い食べ物は何なんだ⁉」
「え? ピザだけど……」
「そうか! あの円盤はピザというのか!」
先程の走馬灯が見せたものを
「どうだ、便利だろ? 俺の
少年は期待の眼差しでこちらを見つめている。
ピザなんて作れないと言えば、自分が喰われるのだろうか。
ぐうう
しゅんとして、再び
「つ、作れるけど……」
そう言うなり、垂れた耳が跳ね上がるように、少年の顔が輝きを取り戻した。
力強く抱擁され、浴びせるように何度も口づけられる。尻尾があれば千切れんばかりに振るのだろう。ただ嬉しいのだという気持ちが伝わってくる。
間違いない。犬だ。
これは感情表現の一種なのだ。
だが納得している場合ではない。藻掻いて必死に少年を押し返した。
「放してったら。そうじゃないと作れないでしょ」
「あ、そうか」
少年は行儀よく座り直した。躾はよく出来ているらしい。
丸い空間から外に出ると、卵型のハンギングチェアに興味を示したらしく、少年が中に潜り込んだ。
発酵し終えた生地を伸ばし、トマトソースをたっぷりと全体に塗って、薄切りにしたモッツァレラチーズを乗せ、摘んだばかりのフレッシュバジルを散らした。もう一枚には四種類のチーズを贅沢に乗せ、最後に二枚のピザの縁にオリーブオイルを回しかけた。あとは焼くだけだ。
「へえ、これが炉か」
いつの間に入ってきたのだろう。まるで気配が無かった。少年は興味深げに火の点いたピザ窯を覗き込んでいる。
「ちょっと、厨房には……」
「いいじゃないか。固いこと言うなよ」
窯に滑り込ませたピザが焼けていく様を、少年は飽きもせずに眺めている。
まあ、いいか……そう言えば、ハーブ入りのソーセージもあったはず……
「なあ。こっちの樽には何が入っているんだ?」
「それは蜜酒だけど、あなたは駄目よ。まだ子供なんだから」
少年はきょとんとした後、くすくすと笑い出した。
「子供だって? それはお前だろ」
そうだった。目の前にいるのは
「なあ。飲んでみてもいいだろ?」
あまりに興味津々なので、グラスに蜜酒を注いで渡してやった。するとその場でコクコクと飲み干してしまった。目がもっとくれと言っている。
もう一杯も、同じようにして、あっという間に飲み干してしまった。
「ねえ。ジュースじゃないんだからね?」
声を掛けてみたものの、次の一杯を要求されるばかりだ。
焼けたピザを取り出し、入れ替わりにソーセージと一口大にカットした皮付きのじゃがいもを入れた耐熱容器を窯の中に押し込んだ。
焼き立てのピザを乗せた皿を両手に持って運ぶと、少年も蜜酒が入ったグラスを片手についてきた。余程蜜酒が気に入ったらしく、もう何杯も飲んでいる。
店内のテーブルに皿を並べ、タバスコの瓶と蜂蜜を入れた片口の器を添えた。
「これがピザかあ!」
ソファに身体を沈ませた少年は目を輝かせている。
「タバスコはこっちのトマトソースの方に、蜂蜜はチーズの方に。お好みでかけて」
そう言ってその場を離れようとすると、すかさず腕を掴まれた。
「なあ、一緒に食べるだろ?」
上目遣いでこちらを見ている。そんな顔で見ないでほしい。そりゃあ、自分が喰われるよりは、一緒に食事した方がマシだけれど。
「わ、わかったから。わたしも飲み物を……」
厨房で自分のグラスに蜜酒を注ぎ、窯から器を取り出した。ソーセージとじゃがいもに良い焼き色が付き、じうじうと音を立てている。
できるだけこの妖少年の腹を満たしてやった方が、自分は喰われずに済むだろう。
器に粒マスタードを添えて、少年の元へ戻った。
いつまでも伸びるチーズや滴る蜂蜜と格闘しながら、たらふく食べ、満腹になったらしい少年はくったりと眠ってしまった。とりあえず危機は脱した、と思う。
一体何が起こっているのだろう。
それに、眠ってしまったこの少年を一体どうしたら……皿を片付けようにも、少年がしがみついたまま眠っている。やはり逃さないということなのか。
眠る前に「おやすみ」と言って口づけられたけれど、いつの間にか、そういった少年の行動を受け入れている自分が居る。それどころか……
そう思い至って、頬が熱を帯びたのがわかった。随分と蜜酒を飲んでいた少年よりも赤い自信がある。
『もっとして欲しそうな顔してたから……』
少年の言葉が脳裏に
一体、自分はどうしてしまったのだろう。
***
生暖かい風に吹かれる中、不意に身体がビクリとなった。
卵型のハンギングチェアが揺れ、思わず縁を掴む。うたた寝をしている間にすっかり日が暮れようとしていた。
どこか夢だと自覚しながらも、リアルな感覚だった。行動に意識が伴っていたように思う。何より、今も身体が感触を覚えている。
あの少年の温もりと、心地よさを……
もしかすると、夢で視ることは、幻ではないのだろうか。
翡翠の森 蒼翠琥珀 @aomidori589
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