魔女の弟子の密かな企み
悠井すみれ
第1話
青々とした葉を茂らせるマンドラゴラの
茎の根元を、手袋に包まれた手でぐいと掴み、抜く。マンドラゴラは地中で
「────…………!」
遠慮なく引っこ抜くと、マンドラゴラの虚ろな目と彼の目が合い、悪名高い死の絶叫が、振動として彼の手に伝わってきた。地上に引きずり出されてなお、その小ぶりなマンドラゴラは手足をのたくらせて叫び続けているようだったが──構わない。彼は手際よく小刀を振るい、マンドラゴラの喉を掻っ切って手足の腱を断った。もちろんしょせんは根菜だから、大体そのようなところに切れ目を入れた、ということだ。マンドラゴラの収穫のし方、鮮度を保つ締め方について、彼は師からよく躾けられている。
彼の師──つまりは、人里離れた山奥に居を構える魔女に。生来耳の聞こえない彼は、親に捨てられた、らしい。獣の餌になるところを、魔女は拾って育ててくれた。マンドラゴラをはじめとして、耳で聞くことで発動する呪いも多いから、彼のような者でもかえって役に立つのだとか。
魔女が丹精したマンドラゴラ畑は広い。彼は額の汗を拭うと、膝を進めて次の畝に取り掛かった。
魔女の住処に戻ると、師は唇の動きだけでおかえり、と囁いた。もしかしたら実際に発声しているのかもしれないが、彼には聞こえない。彼と師のやりとりは、おもに読唇と手話によって行われる。あるいはもっと単純に、表情とか首を振ったり肩を竦めたりとか、そんな身振りだけで十分な場面も多い。十数年を共に過ごした師弟の間柄だから、気心はよく知れているのだ。
例えば、今も。魔女は首を傾げて首尾は、と尋ね、彼は笑顔で籠を示すことで上々、と答えた。彼が背に負っていた籠は、きっちりと締められたマンドラゴラでいっぱいになっていた。間引いた小ぶりなものとはいえ、薬効は確かな妖草が、こんなにたくさん。
幾つかの株を手に取って間近に眺め、臭いを嗅いで少し舐めて、そうして魔女は満足げに微笑んだ。彼の二の腕を軽く叩く小さな手が、よくやった、と褒めてくれる。小さな手──そう、師は弟子である彼に比べてだいぶ小柄だ。いつの間にやら背丈も見た目の年齢も彼が追い越していた。
緩く波打つ金の髪に空の色の目、丸く柔らかそうな頬。魔女の名には相応しくなく、下手をすると少女──それかいっそ子供、とでも呼んでしまいそうな師が、ひらひらと手を振って彼を庭へと追い出そうとする。白い蝶のようにひらめく指先が、姉を手伝ってやれ、と伝えていた。姉といっても血の繋がりはない、彼よりも幾らか早く拾われて、先に学び始めた娘のことだ。魔女の森に役立たずの子供が捨てられるのはままあることで、要は
庭に出る時、彼はわざと足を強く地面に叩きつけた。彼自身には分からないけれど、足音が高く響くように。それによって、姉に彼の居場所を伝えるように。
ここでも育てられている、種々の薬草や毒草を避けて足を運ぶ。見た目には可憐な花だって、油断できない毒を持っているのが魔女の庭だ。吊るされた獣の骨は毒虫を呼び寄せるためのものだし、人の目を
姉なら、彼の足音に気付かないはずはない。それでも念のために手近な茂みを軽く蹴ると、姉はゆっくりとこちらを振り向いた。真っ直ぐな黒髪がさやさやと零れ、整った顔が彼を見上げる──が、姉の目蓋は閉ざされたままだ。彼と違って、姉は目が見えないのだ。それでも足音によって弟分の居場所を正確に察知したのだろう、姉は彼に向かって手話を繰った。師の小さな手が白い蝶なら、いくらか大きい姉の手は白い小鳥といったところだろうか。聴覚を閉ざされた弟のために、姉は自身では見えない言葉を発してくれる。
──近寄っても、大丈夫。
彼がマンドラゴラの世話をするように、姉は視覚で捉えることで発動する類の材料を取り扱っているのだ。コカトリスとかバジリスクとか。とはいえ、今は彼が見ても危険なものを扱っているのではないらしい。彼は安心して姉の隣に腰を下ろすと、その手を取った。異なる感覚を閉ざされた彼ら姉弟が
──何をしてるの?
──ご飯の支度。魚を呼んで捕まえたところ。
確かに水辺には
──捌く?
──そうね、お願い。
──煮るの? 焼くの?
──ハーブでぱりっと焼くわ。
──スープの方が好き。
──お師様は焼いた方が好き。諦めなさい。
お互いの手を取って掌をなぞり合っているのだから、ふたりの距離は近い。掌に触れる姉の指も、彼の髪を揺らす姉の吐息もくすぐったい。師と姉だったら、声を使って語り合うところも彼は毎日のように見るのだが。唇を見れば、何を言っているのか、ついて行くことはできるのだが。彼だけがふたりの声を知らないのだと思うと、仲間外れのような気分になることもある。
柔らかそうな唇は、いったいどんな笑い声を紡ぐのか──埒もない思いを振り切って、彼はまた指を動かした。
──マンドラゴラ採って来たんだ。
──そう。では隠し味に使いましょう。
姉は指先でそう綴ると、手を離してしまった。鱒の処理にかかれ、ということなのだろう。彼女自身は立ち上がって、恐らくは厨房へ足を向ける。隅々まで知った魔女の住処なら、彼女は些細な風の流れと物音でまるで見えているかのように振る舞うことができるのだ。でも、背を向けられてしまっては、彼の方から話しかける術はもうない。
別に、不満というほどの不満ではないけれど。師も姉も時に厳しく時に優しく、教えられる知識も技も興味深い。人里にいては彼はこの年まで生きられるかも分からなかったし。彼は十分幸せなのだ。
自分には聞こえない溜息を小さく溢すと、彼はマンドラゴラを締めた短刀で魚の腹を裂き始めた。
魔女の書庫で勉強していた彼は、手元に影が落ちたことで人が近づいてきたことを知った。師も姉も、声を掛けずとも彼が驚かなくて済むように気遣ってくれるのが常だった。今来たのは──姉の方だ。師よりも影が少し大きく、纏う香りも少し違う。
見えない姉が書庫に来るのは珍しいが、指先で
──用があるなら書いて。
手に持っていた羽根ペンで、姉の手の甲を撫でる。彼の意図は伝わっただろうに、でも、姉はゆるゆると首を振った。本やインク瓶が並んだ机上を手探りして、姉は彼の手を探り出して、捕らえる。彼女の指先が彼に囁く。
──書いたものを残したくないの。
──お師様に見られないように。内緒話よ。
姉の指にいつもより力が篭っているのを感じて、彼は読んでいた本を閉じた。片手間に
──呪いを学んでいて気付いたことがあるの。
──命を奪うだけでない、身体の一部を奪うこともできる。
──お師様なら、簡単なこと。
──おかしいと思わない? 私の目と貴方の耳。
──魔女の森に捨てられていた子供に、都合よく違う感覚が欠けていたなんて。
姉が言わんとするところを悟って、彼の掌にじんわりと汗がにじんだ。姉がペンを受け取らなかった理由がよく分かる。たとえすぐに燃やすとしても、こんな疑いを紙に書いて残すのは憚られたのだろう。
目蓋を閉ざした姉が、小首を傾げて彼の反応を窺っている。答えを綴るための彼の指先は、微かに震えた。
──役立たずだから捨てられたんだろう。不思議じゃない。
彼の躊躇いとは裏腹に、姉の反駁は素早かった。白い指が軽やかに彼の掌で踊って、捲し立てる。そうとしか形容できない早さと勢いで、見えない文字が綴られる。
──お師様は私たちが協力するのを恐れている。
──ずっと一緒にいるのに、話もできないなんて。
掌に文字を書き合う
──どうしたいの?
指先でそう尋ねた瞬間、彼は間違えた、と思った。師は、彼ら姉弟を拾って育ててくれた。今の生活は幸せなのだ。姉の考えは思い違いだと窘めるべきだったのに。──なのに、姉は彼に訂正する隙を与えなかった。
──解呪薬を作れるかもしれない。でも、私だけでは材料を集められない。
──よく育ったマンドラゴラを、お願い。一株で良いの。
か弱いはずの姉の指は、彼が頷くまで──承諾の文字を綴るまで──、彼の手をしっかりと握って離さなかった。
彼がマンドラゴラ畑に発つ時、たまたま師と姉がその場にいた。先日間引いた後、マンドラゴラは順調に育っている。師は、彼にそろそろ収穫を命じていた。手話によって、だから、姉には
──マンドラゴラも育っているだろう。気をつけなさい。
──聞こえないから大丈夫ですよ。
──そうだったな。人の子はどうもひ弱に見えて、困る。
今や彼よりも年下に見える師が、苦笑して目を伏せる。その近くでは、姉がつまらなそうに横を向いているが。彼と師が手話で話す間、姉にとっては不自然な沈黙が続くことになるのだろう。彼が姉たちの会話の声を聞くことができないのと同様に──三人でいても、三人で話すことはできない。
──もう大人です。結構使いものになってきたでしょ?
──私から見ればまだ子供だ。危なっかしくてたまらない。
その言葉を、師は手話と同時に声に出しても言ったようだった。その証拠に、師に応えて姉の唇が動く。
──そんなことはありません。私たちも成長しています。
師の過保護ぶりに抗議するにしては、笑みが強張っているのは、釘を刺されたように思ったからだろう。師が本当に何も気づいていないのか、姉も不安なのだ。
──それでも、人は弱いものだ。多少の術を覚えたからといって慢心しないように。ふたりとも、扱うものの危うさを決して忘れてはならない。
師の青い目に気圧されて、彼は慌てて頷いた。師の声も、眼差しと同じ厳しさだったのだろう、姉も笑みを凍り付かせている。師の前で、姉の手を取ることは今はできないが──あえて伝える必要もないだろう。姉も彼と同じことを察したはずだ。
師は、弟子たちの疑いにも企みにも気付いている。
間引いた分、株同士の間隔は開いたから、マンドラゴラは地中に大きく手足を伸ばしていることだろう。そもそも成長してもいることだし、引っこ抜くには先日よりも力が要る。
「────…………!」
マンドラゴラの死の絶叫を、肌に伝わる振動としてだけ
師が弟子たちに呪いをかけたのは、雑用を命じる召使が欲しいから、ではないだろう。それだけで人の子供をふたりも育てるのは手間暇がかかりすぎる。師は、彼にも姉にもある程度の情はあるはず。あくまでもこの森で人が暮らすにあたっての用心として、彼は耳を、姉は目を封じられたはず。その点は、彼は師を信じている。
でも、それでも。師のやり方は間違っているはずだ。たとえ愛が理由だとしても、鳥の羽を切って閉じ込めるような扱いは、嫌だ。だから──魔女の怒りを買うとしても、彼は姉にこそ従おう。考えた末に、彼はそう決めていた。
覚悟によって彼の手には力が篭り、マンドラゴラの根が切れるぷつぷつという感覚が地中から伝わってきていた。きっと、聞く者を狂わせ死をもたらす絶叫も、辺りには響き渡っているのだろう。でも、それが聞こえないのを喜ぶ気には、もはやなれない。
師に見つからないように隠し持つため、
──これで材料は揃ったわ。早く作ってしまいましょう。
師は、今日は住処にはいない。この時期にしか咲かない花を採りに、山を越えたところにある湖に出かけているのだ。品よく
乾燥させたマンドラゴラに、コカトリスの
──呪いを殺すには、それだけ強い毒でなくてはならないのよ。
姉の言葉に従って出来上がった解呪薬は、材料の禍々しさの割に透き通った薄桃色の液体に仕上がった。薬の見た目を掌に綴った文字で教えられて、姉は口元を綻ばせる。
──毒効が相殺されている。成功ね。
杯に半分ずつ薬を満たし、けれど彼はすぐに口に運ぶことができない。薬の効果を疑い恐れる思いもあるが──呪いを解くのが、本当に正しいことなのか、この期に及んでも迷いが拭えなかった。戻った時に、弟子たちの裏切りを知ったら師は何と思うだろう。怒るか嘆くか──彼と姉に、いったいどんな顔をして、何を言い渡すのだろう。
──怖いの?
と、姉が手探りに彼の頬を掌で包み、唇の動きだけで囁いた。視覚以外の感覚を研ぎ澄ませている彼女のこと、彼の上がった体温も、乱れた呼吸も早い鼓動も感じ取るか聞き取っているのだろう。彼の恐れも躊躇いも、姉には我がことのように分かるはず。でも、それでも彼女の唇は迷いなく動き、自らの意思を彼に伝える。
──でも、私は見たいのよ。
何を、とは聞くまでもない。きつく寄せられた細い眉に、頬に感じる指先の力の入り方。それらが姉の想いを伝えてくれるし、彼も同じ思いだった。だから彼は頬を包む姉の手をそっと剥がし、掌に囁く。
──俺も聞きたい。
笑い合って──姉は彼の吐息を感じることで聞いたはずだ──、軽く抱擁を交わせば、もう覚悟は定まった。呪いを負ったままで生きることの不自由と不自然さと理不尽に気付いてしまった以上は、もう
彼は姉と軽く杯を合わせると、ひと息に薬を呑み干した。
口内に甘苦い味が広がるのを感じて彼は目を覚ました。そう、彼はいつの間にか眠っていたのだ。
解呪薬の効果はどうだったのだろう。脳の神経を刺激するような頭痛がするのは、失敗だったのか副作用だったのか──甘く苦い何かしらの液体を呑み込みながら、彼は目蓋を持ち上げた。最初はゆっくりと──だが、目の前に迫る師の顔の近さに、大きく目を瞠ることになる。
「無謀な真似をしたものだ。自ら毒を呷ったようなものじゃないか。私が帰るのが少しでも遅くなったらどうなっていたか……!」
師の紅く愛らしい唇が動くのを読んで、彼は叱られているのだと知った。いつも通りだ。だが、頭に突き刺さる刺激は、彼が知らないものだ。刺さるというか揺らすというか──師の唇の動きと連動して、伝わってきている気がするけれど。
「でも、成功ですわ。呪いはちゃんと解けたのだから……!」
と、彼の視界に姉の顔が割って入った。彼のベッドの両脇を挟んで、師と姉に覗き込まれている格好らしい。姉の唇も、師のそれに劣らず紅くふっくらとして彼が常に見つめてきたもの。でも──やはり馴染みのない刺激が彼の脳を揺らす。それに、姉が目を開けているところを彼は初めて見た。髪の色と同じ、艶やかな黒。待て、姉は呪いが解けたと言っていた。確かに姉の目は師の幼い顔をまっすぐに捉えて焦点を結んでいる。それなら、彼の頭を揺らすこの刺激は、音──声、というやつなのか。
「そうだな。ちょうど良かったかもしれない。不出来な上に盗みを働く弟子は要らないが、五体満足なら追い出しても野垂れ死ぬこともないだろう」
そうと分かると、慣れない刺激は途端に愛おしいものに変わった。姉の、それに師の声だ。耳で聞くより、まだ唇で
──待ってください。出てはいかない。俺も、姉さんも。追い出されたりなんかさせない。
腹筋で慌てて起き上がりながら、手を繰って師に訴える。起き上がったはずみに師に頭突きを食らわせてしまったが、それにも構っていられない。声の出し方なんてまだ分からないから、全身を使って訴える。頭を抑えて
──怒っているなら、解毒剤なんか飲ませなければ良かったでしょう。口移ししてまで!
「そ、それは──」
頬を染めてそっぽを向いた師を見て、彼は自分の考えが当たっていたことを知る。目覚めに呑み下した甘苦い液体は、落ち着いて考えれば薬の味だ。材料を言い当てることもできる。不完全な解呪薬で昏倒した姉弟を、師は見捨てることなく助けてくれたのだ。
──拾ったんだから最後まで面倒を見てください。今さら人里に返すとか言われても困るんです!
「弟の言う通りです。どうせ、私たちに恨まれているとでも思っていたんでしょう」
「どうせとは何だ、師に向かって……!」
彼にも姉にも詰め寄られて、師の顔がますます赤くなった。青い目にうっすらと滲んだ涙を恥じてもいるのだろうが、拭うことは彼と姉が許さない。ふたりして、師の小さな身体を抱き締めているからだ。身動きできないようにした上で、彼と姉とでかわるがわる師に囁く。彼は唇で、姉は声で。
──違いますか? だって、
「恨みごとを聞かされる前に、さっさと追い出そうとしたんでしょう?」
──呪いをかけて閉じ込めていて悪かったとか、そんなことを考えてません?
「まさか、私とこの子が愛し合っているんじゃないかとか……お似合いだから、とか」
弟子たちの指摘が図星を突いていたのは、師の反応から明らかだった。小さな唇から漏れる悲鳴を彼はうっとりと聞いたし、ぷるぷると震える華奢な体躯を、姉はうっとりと眺めただろう。師は往生際悪く首を振って、弟子の主張を退けようと無駄に足掻く。
「違う……のか……? それこそ、まさか──」
──拾って、育ててもらったのに恨むはずがないでしょう。
「私たちは、悔しかったんです。お師様に、見くびられていたから」
呪いをかけられていたと知って、彼は確かに師に憤った。でも、それはあるべき感覚を奪われていたからでは決してない。彼も姉も、師がそうした理由を多分ほぼ正確に察していた。
人の子が育てば、魔女の森から出たがるだろうとこの人は信じ込んでいたのだ。それを寂しく耐え難く思うからこそ、目や耳を奪って枷にした。でも一方でそれを後ろめたく思っていたから、人は人の世界で生きるべきだと思っていたから、彼らの悪だくみを見過ごしたのだ。調薬に失敗した際にはすぐに助けられるように、出かけたふりで傍で見守ってまで!
──家族なのに、揃って話もできないのはおかしいでしょ。
「今までも楽しくて幸せだったけれど。これからはもっと──ねえ、追い出したりしませんよね?」
彼と姉の腕の中で、師はまた激しく首を振った。とはいえ彼らの願いを受け入れてくれたのかどうか、まだまだ油断はできなかった。小さいとはいえ、握った拳に胸を叩かれると痛かったし、いやいやをするように暴れる身体を抑えておくのも大変だった。何より、今や師の目からは大粒の涙が零れ落ちている。
「だ……って! 人間は、すぐに死ぬだろうに。お前たち、もっ! すぐそんなに大きくなって……置いていかれるっ、くらい、なら……!」
──だから、頑張って勉強しますから。不老の術くらい覚えられるように。
「私たち、まだまだ未熟なんですもの。お師様がいないと……ね?」
師が泣き止んで、そして今度こそ弟子たちの存在を認めてもらえるまでに、しばらく彼と姉とで宥めなければならなかった。彼の認識は新しく増えた聴覚によって氾濫しそうだったし、生まれて初めて視覚を得た姉の混乱と疲労はなおさらだっただろう。でも、それも大したことではない。彼も姉も、望みのものを手に入れたのだから。彼は、師と姉と語らうための耳。姉は、師と彼を見るための目。まどろっこしい手話や筆談に頼らなくても、これからは家族三人での団欒を満喫することができるのだ。
「────…………!」
マンドラゴラを引き抜いた瞬間、形容しがたい絶叫が彼の耳をつんざいた。耳を塞ぐための風の術に、どうやら不備があったらしい。未熟と不徳のいたすところだ。致死の音波をまともに浴びて、彼の視界が暗くなる──
「まったく、何をやっている!」
が、飛ぶように跳ねてきた師に頭をはたかれて、抜けかけた魂は無事に彼の器に戻った。どういう技かは分からないが、魔女はそういう強引なこともできるらしい。マンドラゴラの絶叫と師の一撃で、彼の足元は怪しくふらつく。しかし、地面に膝をつく必要はなかった。
「大丈夫だった? まったく、まだ聞こえないつもりでいるんじゃなくて?」
師と同じく彼を見守っていたらしい姉が、素早く駆け寄って彼を支えてくれたからだ。目が開いてからというもの、姉は彼や師の後をついて回るようになった。今まで家で留守番していたのは、よほど不満だったらしい。
「うん、大丈夫……ごめん、油断してたみたい」
そして彼の方だって。声を使って瞬時に思いを伝えられるのは便利なものだ。ようやく聞くことにも、自分の声を操ることにも慣れてきて、師と姉にこんなにおしゃべりだったとは知らなかった、と揶揄われるまでになっている。姉はともかく、師の目には後ろめたさの影が
「まだ気を抜くな。そいつを締めて、この畝ぜんぶ収穫するんだ。術もかけなおせ」
「はい、お師様。すみません」
薄い胸を張って命じる師は、威厳を保とうと苦労している節があるようにも見える。成功しているか否かは──まあ、言わぬが花というものだろう。
彼は低く呪文を唱えて聴覚を塞ぐと、マンドラゴラの茂った葉に手をかけた。死をもたらす絶叫も、
魔女の弟子の密かな企み 悠井すみれ @Veilchen
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます