名前のない景色
あくりちゃんからの連絡は随分と久しぶりだった。
待ち合わせ場所はいつものスタジオ。その赤い扉を開けることを、僕は初めて躊躇している。
あくりちゃんと最後に会ってから、もう一年が過ぎていた。
未満フェスの準備が佳境に入った頃、彼女は東京のスタジオで半ばカンヅメ状態になってしまい、地元に帰ってくることはなくなっていった。
フェスが終わってからの状況はよくわからない。行きつけのスタジオにもバイト先のコンビニにも顔を出すことなく、驚く暇もないほどあっさりとあくりちゃんの姿は消えてしまった。
きっと彼女はこのままプロの世界に入り、僕とは違う世界の住人になるのだろうという漠然とした予感があって、だから僕は、あくりちゃんのいなくなったこの街が少しだけ嫌いになった。
*
意を決して重い防音扉を開く。
床に放り出された擦り傷だらけのテレキャスター。同じく床に捨て置かれたジャガー。中央で倒れたマイクスタンド。弦の切れた薄っペらなサイレントギター。
そして、一番奥に置かれたドラムセット。その足元。
あくりちゃんは、いつかと同じ大の字で転がっていた。
「……音楽、やっぱぜんぜんわかんないな」
半年前、日本中の音楽ファンをほんの少しだけ騒がせた謎の美少女シンガーのなれの果てだった。
「大人になれって言われてさ、考えたんだ。努力もした」
まるで昨日の話の続きだとでも言わんばかりの気軽さで、あくりちゃんは訥々と話し始める。
「けどさあ、わたしにはどうしてもそれがいいことだって思えなかったんだ」
立ち上がり、少しだけバツの悪そうな顔をして、彼女はガシガシと頭を掻いた。
「なあお倫、きっとさ、大体の人はただ子どもでいられなくなっただけなんだよ。大人になろうとしたわけじゃなくてさ」
床に放り出されたテレキャスターを持ち上げ、あくりちゃんは俯く。ストラップを肩にかけ、手癖でチューニングをしながら、どこか気恥ずかしそうに、懐かしむような声で。
「昔な、お倫が言ったんだ。わたしの音楽を聞くと空がダイヤモンドみたいに光るんだって。正直そんなわけねーって思ったけどさ。わたしの音楽が誰かの心を塗りつぶして、空の色さえ変えるんだって、そう思えたことがほんとに嬉しかったんだ」
一息。
「けど、なあお倫、わたしはもっと欲張りで意地悪だったよ!」
足でマイクスタンドを蹴り上げ、あくりちゃんは最高のいたずらを思いついた子供みたいな目で僕の顔を見た。
まるで世界中の全部の色を詰め込んで輝くような鮮やかなその瞳は、いつか見た空の色と同じ、弾けるくらいに眩しい宝石の色だ。
「わたしはわたしが好きな人にわたしの好きな空を見せたかったんだ! 何万人の前で歌っても緊張でゲロ吐きそうになるしミスるのこえーし全然楽しくなんてなかった! やってみて初めてわかったんだ!」
ボロボロのテレキャスターを掻き鳴らす。飛び跳ねる。笑う。埃が舞い、汗が散る。くたくたのパーカーが翻る。低音のどこかでチューニングがズレている。長い髪が踊る。
「同じ場所で同じ空を見てゲラゲラ笑える奴が一人か二人いればそれでよかったんだ! だってそうだろ!」
狭苦しい片田舎の狭苦しいスタジオで、雛目あくりは縦横無尽に暴れまわる。
いつか誰かに言われた言葉を思い出す。あの人にとって音楽は遊びじゃなかった。
ああそうか、簡単なことだ。
「こちとら遊びでやってんだよ!!」
こんな簡単なことに気づくまでに、僕たちは随分と時間を使ってしまった。
華やかなステージ、雑誌やニュース、何万人もの観客、大人がデザインした商品としての雛目あくりを生み出すために用意された巨大な仕組みを全部台無しにしたあくりちゃんは、そんなことを意にも介さず汗だくで笑う。
宝物を見つけたようなその笑顔が、胸が痛むほど羨ましくて。
「……だったら俺も混ぜろよ、クソガキ」
ようやく声になった言葉は、たったそれだけだった。
けれど、僕たちにとってはそれだけあれば十分だった。
その日、世界中の空がダイヤモンドの色に染まって、僕たちの頭上に落ちてきた。
*
カラコロ通りを抜けて駄菓子屋の右へ。
日に焼けて読めなくなった英会話教室のポスターを尻目に少し歩けば、焼鳥屋の排気口から吐き出された香ばしい醤油の匂いが鼻先をくすぐる。
三台しか入らないコインパーキングの隣、ひしゃげた看板を掲げた居酒屋の裏には、何年も前から所構わずステッカーが貼られ続けてド派手になってしまった異様な扉があって、そいつを開いて地下へ続く階段を降りると、ヤニ臭い入り口に辿り着く。
通い慣れたスタジオの見慣れたロビーを通り過ぎ、細い通路を進んだ先にある真っ赤なドアの部屋。僕たちは、いつも決まってそのスタジオを借りていた。
日常はかわらず続いていく。
僕とあくりちゃんは、今日も馬鹿みたいに笑いながら遊んでいる。
そうやって、僕たちは少しだけ大人になった。
宝石の春、歌う鯨 水瀬 @halcana
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