落ちる空を見ていた

「こんないい話、そうそうないだろ」

 そのオフィスビルの屋上は小さな休憩スペースになっていて、その片隅に設置された喫煙所で、僕はアキトさんと向かい合っていた。

「それはわかりますよ。わかるけど……」

 話しながら口ごもる。

 視線を逸らすと、やや離れた場所にある自販機の前で何事かを考えているあくりちゃんの姿が見えた。その向こう、ガラスフェンスの向こうに広がる空は、灰色の雲に覆われている。

「……まあ、倫太郎が言いたいこともわかるよ」

 煙を吸い込み、吐く。タバコの先端でチラチラとオレンジ色の光が揺れる。

「販売戦略の立案に楽曲提供。聞こえはいいが、あの人が欲しがってるのは無名の新人が鮮烈なデビューを飾るって筋書きのドラマであって、雛目の音楽じゃない」

 そうだ。赤木氏はただの一度もあくりちゃんの曲や歌詞を認めなかった。視聴者に受け入れられるルックスと話題性、それさえあれば誰だっていいんじゃないか。

「けどそれが何だってんだ?」

 と、強い口調でアキトさんは続ける。

「少なくとも雛目はそういうドラマの主役を張れるくらいには評価されたんだ。それで十分じゃないか。……ありのままの自分が全部認められるようなご都合主義を期待するほど子供じゃないだろ、俺達は」

 自販機が缶ジュースを吐き出す音がやけに大きく響いた。両手に二本の缶を持ったあくりちゃんがこちらへ歩いてくる。

 その様子を見るともなしに眺めていたアキトさんは、まるでそれが眩しいものであるかのように眉間にしわをよせ、吐き捨てるように呟いた。

「遊びじゃないってのは、要するにそういうことだと思うぜ」

 もう名前も思い出せない誰かに浴びせかけられた言葉を思い出す。遊びじゃないなんてことくらい、わかっているつもりだった。

 短くなった吸い殻を灰皿に投げ込んで、アキトさんは僕の肩を叩く。

「大人になれよ、倫太郎」

 そう言って、彼は喫煙所を後にした。

 こちらへ向かってくるあくりちゃんと無言ですれ違い、屋内へと消えていくアキトさんの背中に、僕は何も答えることができなかった。


「……ああいうの、丸くなったってやつ?」

 ため息混じりに呟くあくりちゃんが差し出した缶コーヒーを受け取る。

「お倫、わたしはどっちでもいいよ。どっちがいいかなんてわかんないんだ。わたしにはさ」

 ともすれば無責任とも受け取れるような台詞。けれど、それはきっと嘘だ。

「どっちでもよくなんかないだろ」

 だって、そうだろう。

 あくりちゃんの空は四年前のあの日からずっと真っ赤なままなのだ。ただ折れてしまった僕とは違う。彼女はあれからも、スタジオでのたうちまわりながら這い上がるチャンスをずっと探していたじゃないか。

「あくりちゃん、やろう」

 だから、僕は思うのだ。

「この話、受けよう」

 あくりちゃんだけは、きっと報われていい。

「俺はさ、あくりちゃん。あくりちゃんの音楽以上に、あくりちゃん自身が認められてほしいんだ」

 風が吹く。

 あくりちゃんの長い髪が微かに揺れる。

「わかった。お倫が言うならやろう」

 そう、彼女は答えた。



 数カ月後、大々的に開催された未満フェスは巨大な熱狂と爆発的なヒットをいくつも生み出し、成功裏に幕を閉じた。三日に分けて配信されたライブは合計五十万人以上の視聴者数を記録したという。

 雛目あくりは、二日目のステージに立った。

 そこにいたのは当然ビビッドのフロントマンなどではなく、正体不明の新人シンガー、雛目あくりだ。

 メロディアスなピアノの旋律に寄り添うように響く透明な歌声。聞き入るように静まり返った客席を突如としてノイジーなギターサウンドがぶん殴り、重厚な楽器隊とともに疾走する。


『で、誰?』『知らない』『かわええ』『誰?』『上手くね?』『見たことある気がする』『声きれい』『♥♥♥♥♥』『このライブアーカイブ残る?』『えっすごい』『ググってもわからないです』『初めて見るけど有名な人?』『最高』『CD買える?』『IM FREAKING OUT I LOVE THIS』『知らない』『無名フェスやばい』『てかめっちゃかわいいな』『初めて聞く』『ほんとに誰?』『ビビった』『これ新人なん?』


 ものすごい速さで流れる大量のコメントを横目に、僕はあくりちゃんの輝かしいデビュー戦を食い入るように見守った。

 全六曲のパフォーマンスは瞬く間に終わり、万雷の拍手に見送られながら彼女はステージ袖に消えていく。

 それは圧巻のステージだった。きっとこれが今のあくりちゃんにできる最高の表現なんだろう。何万人、もしかしたら何十万人という観客が今この瞬間あくりちゃんの音楽に打ちのめされているのかと思うと少しだけ気分が良くなる。

 僕はヘッドフォンを外し、大きく伸びをしてから窓の外に目をやった。

 そこには、ただただ青い空が広がっていた。



 衝撃的なデビューを飾った謎の新人シンガー雛目あくりは、音楽ファンの間でたちまち噂になった。過去の経歴や素性は一切不明。それらしい人物の活動を見たことがあるという人もほとんどいない正体不明の超大型新人。

 いくつかのニュースメディアが彼女の存在を取り上げ、一時はワイドショーでも取り沙汰されたほどだ。もちろん、その全てにおいて雛目あくりの正体は謎のままだった。


 そうして、半年近い月日が流れる。

 近い内に華々しくデビューするだろうという多くの人々の期待は見事に裏切られ、コアなコミュニティ以外で彼女の存在が話題になることもなくなった。


 雛目あくりは、それ以来どこにも現れることはなかったのだ。


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