近況ノートの存在を気にしてなかったのであとがきてきなやつはこっちに集約します。これはコピペです。

 はじめましての方ははじめまして。そうでもない方はお久しぶりです。水瀬です。拙作、『雨のすべて』について、せっかく反省会の会場があるので反省会をします。やったね。

雨のすべて
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890465959


 まずは参加の経緯について。
 今回『第一回イトリ川短編小説賞』に一編の短編小説を投稿させて頂きましたが、本企画参加者のドメイン用語であるところの川系小説大賞には二度ほどお世話になっています。
 一度目は『第八回本山川小説大賞』にて恐れ多くも大賞を頂いたこと、二度目は『第一回(事実上の第九回)はるかな川小説大賞』という川系小説大賞を主催させて頂いたことです。
 自分自身の創作活動の主戦場はイラストであるということもあり、それ以降は小説を書くことも賞に関わることもしていません。はるかな川小説大賞が2018年の秋頃開催だったと記憶していますので、約二年ほどブランクがある形になります。今回の『第一回イトリ川短編小説賞』についても、開催情報すら知らない体たらくでしたが、諸事情あって一本小説を書き上げたくなった次第です。
 と言いますのも、つい先日、過去に小説関係で大変お世話になった方と偶然お会いする機会があり(ガチのマジに偶然で死ぬほどびっくりした)、なんやかんや嬉しかったのでもう一作何か書くかと思い立ったからでして、そのタイミングで偶然『第一回イトリ川短編小説賞』が開催されていたからそのレギュレーションで書いたという、しょうもない経緯です。
 その方がこのあとがきを読んでいるかどうかはわかりませんが、あなたのおかげで僕はもう一度小説を書き上げることができました。きっかけをくれて本当にありがとうございます。

 とは言え、作品が生まれた経緯と作品の内容は関係ありませんので、書きたいものを書きたいように書いたらこうなったということで作品の話をします。


『雨のすべて』の全て。
 仮題は『マイ・ファースト・エスケイプ』といいます。その名のとおり、主人公が現実から逃げ出す話です。
 経験則として綿密にプロットを練ると書き上げる前に飽きるとわかっていたので、7割方書き上げるまでオチは何も考えませんでした。
 今回、書き始める時点で決定していた要素は二つで、一つ目はシノグラスという死者とコミュニケーションが可能になるARグラスが存在すること、二つ目はヒロインが死者であることでした。
 前者の設定に関しては掘り下げると無限に考えることがあり(法や文化、倫理の変化から、死者というものの定義まで何もかも)自分の中にいくらか答えはあるもののひとつも説明したくない。何しろ部分的にでも説明してしまうと粗が目立つので、とにかくSFとして扱われたくなかったという意識がありました。そのため、必然的に物語の主軸はヒロインである三門ハナを取り巻く環境を描くことになります。そこでようやく主人公が決まり、大筋として『友達を亡くした主人公がバスに乗って現実逃避しながらその友達と語り合う』という展開が固まります。

 そんなこんなで書き始めたわけですが、考えることが様々出てきます。
 そもそも主人公であるにゃーは何から逃げているのかというと、友達であるハナさんが死んでしまった現実からです。そりゃ友達が死んだら現実逃避したくもなる。けどこの世界には死者と交流できるシノグラスがあるんですよね。つまり、にゃーから見たハナさんの死は僕らが考えるほど重くない。その世界における死は物理的に同じ世界に存在できなくなる現象でしかなくて、その気になればいつでも会えるし話せる。それって画面の向こうにいるTwitterのフォロワーと何が違うんだ? 普通の引越しとどう違うんだ?的な。もちろんショックは受けるでしょう。にゃーはシノグラスが存在しない時代も経験していますし、例え面識のないフォロワーでも自殺したと知れば僕だってショックを受けます。
 でもそれは衝動的に現実逃避したくなって行き先も知らないバスに乗り込むような、そんな鮮烈な悲しみではないはず。第一、彼はハナさんの死から一週間も悩んだ末にシノグラスをかけたのです。このあたり、物語の都合のためにキャラクターの行動を書き換えないという自分ルールもあり、現実逃避というコンセプトを白紙に戻しました。大体二話目の半分まで書いたところです。

 ということで仮題が『マイ・ファースト・エスケイプ』から『雨のすべて』に変わりました。これは単に語感によって選ばれ、ハナさんのたとえ話の中でディティールを掴めたのでそのままになりました。
 しかし、物語の骨格はよくわかりません。わからないまま、にゃーとハナさんの会話は続き、車窓の向こうにはどこか寂しげな景色が現れ始めます。
 そこでなんかわかっちゃったんですけど、やっぱりそこにいるべき人がいないこと、いなくなってしまったことは悲しいことなんです。変わらず隣にいるはずだった人の姿がレンズの向こうにしかいないこと、眼鏡を外せば消えてしまうような遠い存在に変わってしまったこと。死の形は変わっても、それがある種の別れであることに変わりはないというか。ハナさんは死にそうにない人だったから特に。
 だから、にゃーの目的は逃避なんかじゃない。彼はハナさんのことを知りたくて、彼女と二人で長々と話ができるような、郊外に向かうバスに乗ったんだ。ということで物語のコンセプトは再構築できました。あとはハナさんについての話です。

 いじめを苦にしての自殺。悲しいかな、よく聞く話です。彼女の身に起きたことについて、僕もまぁ大体そんな感じの解像度でしか捉えていません。ただ、その世界の自殺は僕らの常識とはちょっと違う。物理的な苦しみから逃げるための最後のソリューションとして、良くも悪くも身近にあるもののはずです。
 けれど、人の価値観はそう簡単には変わりません。少なくとも数年程度で世の中の一般的な死生観がアップデートされるわけがない。ハナさんやにゃーが生きているのは、そういう微妙な時代なんですね。過渡期ってやつ。
 だからきっとハナさんだって考えて考えて、最後の手段として死を選んだはず。そこに至るまでの生きづらさは何も変わらない。
 このあたり、米津玄師の『Bremen』ってアルバムに入ってる『ホープランド』と『Blue Jasmine』って曲を聞きながら考えてました。

 ところで、『雨のすべて』には生きている人間があまり登場しません。バスの乗客は実際には大半が死人ですし、街中にも公園にも人の気配はありません。それどころか見ず知らずの街に死を感じるほど、その世界には死が充満しています。
 あまり厳密に設定していませんが、多分シノグラスが存在する世界はそういう世界です。死は身近になり、人が人として暮らすための街はどんどん不要になっていく。何しろ死人には物理的実体がありませんからね。極論、衣食住に困っても死ねば解決してしまう。だから、きっとこれからも死人は増え続けるでしょう。
 何十年かしたら、彼らの死の定義は『自意識の喪失』になるはずです。その方法があるかどうかは別として。

 もうちょっと怖い話をしましょう。この世界における生者は、言い換えると世界に物理的に干渉できる人間です。死人にはそれができません。つまり、死人の実態はシノグラスの中にしかありません。もし死人の実態が何らかの形で現実に存在したとして、彼らが物理世界の影響を受けないのであれば、バスどころか地球の自転と公転についていけず振り落とされて終わりです。つまり、シノグラスの『向こう側』にいるように見える死人は、実のところシノグラスの『中』にいるのです。
 あと死人はシノグラスをかけることができないですよね。物理的に干渉できないから。ってことは死人同士のコミュニケーションは成り立たないかも。っていうかまさか死人の鼓膜って振動しないのか? 視覚もそうか。眼球で光を感知できないのでは?
 こういうことに説明をつけたくないからあえて言及しなかったんですけど、改めて考えてみると結構怖いですよね。なんかいい感じのこじつけ思いつきたいですね。

 そんなところだろうか。他に書きたいこと思いついたら続きます。
 思いつかなければここで終わりです。ありがとうございました。