第八節:ブラッディ・サムを勢い良く飲み干した

◇1920年 ニューヨーク州 マンハッタン


 禁酒法時代はなんてことなく訪れた。施行日の前夜、酒を提供する店は在庫処分の名目で大盤振る舞いして客を大いに喜ばせたが、それが終わると街は日常を取り戻していた。

 変わったことがあるとすれば、それは未知の環境に放り出された人々の中にあるぼんやりとした不安と目に見えない期待感だったが、やはりそういった個々人の感情は社会が生み出す「これまで通りに過ごそう」という暗黙の了解によって覆い隠されてしまうのだ。だから目に見える街の風景はこれまで通りのちぐはぐなスラム街だった。


 僕の店も変わらずハーレムの街で酒を売っていた。正しくは密売になるのだけれど、それは世の中の見方が変わっただけに過ぎない。僕もこの店もそういう変化に対して器用に立場を変えたり、在り方を見直したり、お利口に立ち回ることができないのだ。

 そういう一面は決して僕だけに限った話ではない。誰にだってある。目の前で上品に真っ赤なブラッディ・サムを飲む白人の女にだってあるに違いない。僕はカウンター越しに彼女を眺めながら、彼女が持つ不器用さについて考えた。でもそれは幼児向けの簡単なパズルのようなものだった。答えは視界の中にある。彼女もまた禁酒法時代に酒を飲んでいるのだ。


 その女には既視感があった。ウェーブのかかった明るいブロンドの髪と理知的な重たい二重まぶた。こういうのは決まって自分の器量の良さを自覚している人間だ。尻下がりの眉と相反するナルシシズムと負けん気の強さが表情から感じ取れた。首をゆっくりともたげながら微かな笑みを浮かべる。彼女は僕の視線に気付いた様だった。

「貴方、私とお話したいのなら一つお願いごとを聞いてくれないかしら?ビル・ダレンスバーグという男がこの店で働いているはずよ。彼を呼んで頂戴。」

 僕は黙ったまま彼女の顔を見つめた。

「心配しなくてもチップは弾むわ。」

 僕は別にチップをせがんだ訳ではない。彼女の声を聞いて既視感の正体に気が付いたのだ。英国訛りの鼻につくアクセントに、声のトーンから伝わる人を見下した姿勢。かつて僕を食い物にした正義の味方気取りの新聞記者—―ケイト・マノックモアに違いない。


 グラスについた結露を撫で取り湿った彼女の細い指はテーブルの上にコインを並べ、再びグラスを持ち上げた。

「お久しぶりですね、ミス・マノックモア。」

 僕は嫌味たっぷりに言ってやった。彼女は少し驚いた様子だった。

「あら、随分と逞しくなられたのね。さん。」

 ケイト・マノックモアは一瞬はっとして、思い出したかのようにチップを引き戻そうと白い手を伸ばしたしたが、僕の手の方が早かった。コインは僕の手中に収まった。

「その呼び名はやめていただきたい。嫌な事を思い出すんですよ。」

「あの事故のことはよく覚えているわ。あれは本当に不幸だった。でも貴方の協力のお陰で鉄道会社にはきちんと責任を取らせることができたわ。だから貴方はその名を誇っていいと思うの。」

 この清々しいまでに独善的な精神構造こそケイト・マノックモアの本質なのだ。これではインチキな詐欺師の方がよっぽどマシだ。自分の正義こそがこの世の正義だと思い込んでいるような奴よりも、自分の利益のために他人を蹴落とそうと考えている奴の方が幾分も可愛く思える。人間らしさっていうのはそういうものじゃないのか。

は列車ごとローストされたんですよ。それに旗振り役は誰でも良かったんだ。僕じゃなくたって良かった。それはミス・マノックモア、あなたが一番理解している筈です。」

「そんな悲しいこと言わないで頂戴。少なくとも私は貴方に感謝しているのよ。」

 彼女は微笑んだ。

「サザン鉄道を相手取った大立ち回りで、イースト・コースト・タイムズは民衆の信頼を勝ち取った。そしてあなたもその功績を認められて出世した。」

「随分と嫌味が上手になったのね。」彼女は不服そうに言った。「間違ってはいないわ。新聞社は今でも勢いに乗っているし、女というだけで舐められる職場だけど、私も一目置かれるようになった。でも私が感謝しているのは、貴方が私の利益になったからではないわ。貴方が正義のために力を貸してくれたからよ。」

 その純粋さは、もはや不器用そのものだと思った。


「それで、僕に何の用があって訪ねてきたんですか。」

 ケイト・マノックモアは質問に答える前にもう一杯ブラッディ・サムを注文し、僕はジンとトマトジュースを混ぜた。彼女の前に赤く輝く新しいブラッディ・サムが用意されると、口を開いた。

「もう一度、貴方の名前を貸してほしいのよ。さん。」



 ケイト・マノックモアは頬杖をついて僕の回答を待っていた。僕は十分な説明がなされていないまま回答を求められたが、十分な説明など無くとも答えは決まっていた。ノーだ。

 しかし、彼女がどんな目的で僕の元にやって来たのか気になったので彼女に質問した。

「僕がまた貴方の書く紙面でマスコットキャラクターになるとして、今度は合衆国アンクルサムでも相手取るつもりですか。」

「貴方は私を過大評価しているか、自分自身を過大評価しているかどちらかのようね。」彼女は笑いながら答えた。「私の目的はこのハーレムからスターを生み出して、人とお金を集めること。今、この街はマンハッタンに空いた大きな無法地帯、高級住宅街アップタウンの問題児。政府も企業もハーレムの維持を諦めかけているわ。知っているかしら?マンハッタンで雪かきが最後に回されているのはハーレムなのよ。ビジネスもインフラもいつ見限られてもおかしくないわ。」

 確かにハーレムの街を覆う雪は4月まで残っていることもある。

「それを知った心優しいミス・マノックモアは、ハーレムの人々を哀れに思いの僕を訪ねて来たということですか。」

「貴方は本当に人をからかうのが好きね。私が慈悲と博愛の心に溢れていることに間違いは無いのだけれど、ハーレムに陥落してもらっては困る資本家が大勢いるということが大きな理由かしら。それと、ケイトでいいわ。いちいちミスなんて付けないで頂戴。」

 笑うケイトは可愛らしかった。気取らずにこういう顔をしていればいいのだ。


「事情は分かりました。でも答えはノーです。悪いけど僕は協力できない。今はもうあの時の様に誰かに助けてもらわなくても、自分の力で生きていけるようになったんですよ。」

 ケイトは僕が喋り終わる前にブラッディ・サムを勢い良く飲み干した。そして「とてもいいだったわ。このお店のことを早速記事にしなきゃいけないわね。」と言った。

「君だって飲んでいるじゃないか!」

「飲むことは罪にはならないのよ?」

なんて馬鹿げた法律だ。元より僕に選択肢など無かったのだ。

「わかった、協力するよ。」

「ここのはとても美味しかったわ。また来るわね。詳しい話はその時に。」

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ハーレム・ルネサンス 西谷 田螺 @tanishi24

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