第七節:カッティングコンテスト
◇1920年 ニューヨーク州 マンハッタン
ほの暗い地下のダンスクラブに
僕は他の演奏家たちと同様にステージのただ一点を見つめ、他の演奏家たちと同様に彼の演奏が始まるのを待った。
その刹那、ざわつく会場は静かに燃える炎のように熱だけを残して静寂に包まれた。そして、初めの和音を皮切りに、なだれ込むような音の波が一気に会場中を満たした。
カッティングコンテスト。それはストライドピアノの奏者が集まって自慢の腕前を競い合うイベントであり、ニューヨークのピアノジャズの最先端だった。
同じフレーズを小気味良く繰り返す右手と、右手のメロディに対応する低音のルートを叩く左手。その左手は次の瞬間には目にも留まらぬ速さでコードを叩いていた。右手のメロディは素早いピッチとは対照的に伸びやかささえ感じる。
僕は今この場所でジャズの新たな可能性の萌芽を目の当たりにしているのだと直感した。
コードが存在することで音に立体感が生まれている。まるでラグタイムをやる時の様な、ピアノのメロディが前面に出て圧倒的な吸引力でリズムセクションやその他のメロディパートを引き擦り込む様な弾き方。しかし彼が演奏しているのは、紛れもなくジャズだ。ラグタイムの時とは異なり、完全な即興の中で完璧なメロディを創り出し、対応する最適なコードを叩き出している。そして恐ろしく速い。ルートとコードの間を行ったり来たりする左手は野兎のように身軽で、馬のように力強かった。
彼の演奏は実に楽しげな響きを含んでいた。子供がたくさんのおもちゃを目の前にして、何から手を付けようかと目を輝かせるその瞬間を切り取ったような、そんな高揚感があった。聞き手はその音に自分を重ねて、目の前のピアニストが次にどんな音を鍵盤から取り出すのか、期待に胸を膨らませる。それは客のために用意された据え膳のような音楽では無く、明らかにピアニスト自身の音楽的探求心に基づく音楽で、芸術と呼ぶに相応しいものだった。彼のとっておきの瞬間を見るためにオーディエンスである僕たちは自ら彼の世界に飛び込んでいかなければならなかった。
演奏を終えると客席が沸いた。それはもう大いに沸いた。歓喜と嫉妬と競争心が入り混じり、沸騰していたのだ。
熱狂の中ステージを降り客席に戻る小柄で丸顔、味噌っ歯のピアニストの名は、ダニエル・ダフタウン――僕たちのバンドのピアニストだ。
「これがストライドピアノ。」
ダニーは僕たちの元に戻ると、そう言った。彼は自分の演奏に概ね満足しているようだった。彼がこれほど高度な技法を身に付けていたことに対して、僕を含めたメンバー全員が驚嘆したことは言うまでもない。
その後もそれぞれのピアニストによる個性が前面に押し出された創造的な演奏が続き、それは従来のアンサンブルの形式とはかけ離れた、個の世界を表現するステージとなっていた。ある者は誰よりも速く弾き、ある者は羽毛のように軽いタッチで聴衆を魅了した。
彼らは「サイダー」、「バークアウト」、「ローストナッツ」といったように、互いの演奏スタイルにあだ名を付けて好戦的な態度で競い合っていた。迸るパッションが会場に充満して、異様な熱気に満ちていた。ダニーは「ラビット」と呼ばれていた。当人は気に入っているようだ。
「なあ、俺たちはもっと自由に演奏しても良いんじゃないか。」
ダニーはステージのピアニストに視線を向けたまま語りかけてきた。
「こういうアンサンブル度返しのソロプレイを他のパートでもやってみたら良いんじゃないか。」
「それをやってジャズという音楽を保てるかが問題だな。」
僕は素直な感想を言った。正直、自信が無かった。
しかし、ドラムスのキッド・スペイバーンは違った反応を見せた。
「それをやってのけるバンドが生き残るのさ。客が乗って来るかは置いておいて、僕たち小編成のバンドならそれは可能だね。社交界で仕事を取るビッグバンドとの違いになるんじゃないかな。」
「こう言っては何だけど、今の時代はどんな音楽でも客は来る。普段ジャズに触れない人も酒を飲みに店に来てる。だったら、客のことをアレコレ考えずに演奏しても問題無いんじゃないと、私は思う。」
トロンボーンのジョージ・ダルユーインが話に決着を付けた。反対する者は誰もいなかった。それは普段のセッションで味わう、互いのイメージがぴたりと合って自然と身体が動き出すような心地いい感覚だった。かくしてビル・ダレンスバーグ・ジャズバンドの面々は即興的なソロ演奏を試してみることになったのだ。
その夜、僕たちがここで出会ったのは顔の見えない誰かの演奏では無く、代えの効かないただ一人の演奏だった。だからこそメンバー全員の心に響いたのだ。この会場にいるミュージシャンは誰もが思ったことだろう「こんな自由な演奏がしてみたい。」と。僕たちの進むべき道はすぐ近くにあった。シカゴやD.C.に行く必要なんて何処にも無い。最先端のジャズは今この瞬間、ハーレムで生まれている。今度は僕たちがそれを創り出すんだ。
僕たちはカッティングコンテストが終わると急いでラグハウスに戻り、早速セッションに取り掛かった。
ダニーにはアンサンブルを意識せずに演奏するように言った。僕たちが彼に追いつかなくてはいけない。しかしストライドピアノと合わせるのは想像よりもずっと難しかった。ドラムスのキッドは完全にリズムの下支えに集中しなければいけなかったし、ピアノが低音を弾くことでジョージのトロンボーンの音とぶつかるようになった。
当然その日のセッションでは、あるべき形には至らなかった。正確には、あるべき姿が何なのかを探り当てることが出来なかった。このままストライドピアノをステージに持っていけば演奏が破綻することは目に見えていた。結果的にダニーの実験的試みは今こそバンド全体の成長が必要だという事実を僕たちに認識させるに留まった。しかし、その事実を認識する機会こそ、僕たちのバンドにとって最も価値のあるものだった。
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