「お前が誰か」の調教を、「僕が何者か」の意志が超える

 貧しくて暑い気候の国では冬季競技が根付かないといわれるが、この物語はアフリカのサバンナ出身でありながらフィギュアスケーターになるまでの、数奇な流転体験記である。

 どうして主人公カンパラは、出自はサバンナにもかかわらずフィギュアスケートに興味を持ったのか。それは、外の文明が義父ヤンカによって強制的に村にもたらされた(曰く「キンダイカ」された)副産に因る。それまではおじいのように植物採取生活の責任者になろうと思っていたのだ。

 文明的な生活を享受している人間からみれば、特に考えなしに自分たちの生活水準の方が優越であるからして、人の生き方の質も優越であるものと思いがちになる。
 ある意味ではそうだ。カンパラによれば、病人は村の呪術師に頼んでそれでも治せないなら医者でもダメに違いない、と思い込んでいるが、それは外の文明から再帰的に村を観察しなおす視点を持てていないからに過ぎない。カンパラの暮らす村は、人々が限定された空間に事実上拘束されたなかで衣食住・労働・余暇が重層的に関わり合いながら生活するという共同体である。その中で生きていると、共同体の外に出ようとする発想も殆ど出ないので、共同体の中で生きる人間にとっての世界認識は共同体=世界のようなものになる。また、ヤンカに強制的に勉強されるまでリテラシーが無かった以上、文字によって共同体を対象化しヴァーチャルな意味でも外に出ることが出来なかっただろう。一方のヤンカは実業家で、当然リテラシーがあり、外と村とを比較することが出来た。だから村を非文明的だと判断したのである。文明開化によって病に対する不安を従来よりも覚えなくともよい生活を送れるようになるなら、生活の質も向上することになる。
 だが、生き方が「文明的」なほうが優越であるかまでは誰でも無条件に保証づけられない。藤子・F・不二雄の『ミノタウロスの皿』のような例は極端だろうが、村の中や外から見て、様々な生き方を知ったうえで植物採取生活をとり幸せな生き方だと思いなしたなら、それがいい生き方だといえる。村の外のような生活こそ人間の生き方によき幸せをもたらしうるものとするなら、事業に失敗したり人間関係が希薄過ぎて孤独死したりする可能性に目を向けているのだろうか。ましてや、自分の思いこそ無欠に善いものと決め他者に全売りする行為を始めれば、意思汲伝もなにもあったものではない、差別的行動に陥る。差別を排するのが文明的だろうに文明人が差別を始めると皮肉にしかならない。

 幸福を感じるのは主観的なものだ。何を以って幸福とするかはその人の満足による。ところが、SNSを使うほど幸福度が低下するそうだ。TVやインターネットを通じて、他国の経済や生活水準、さらには自分より幸福そうな人々の暮らし様(得てしてそれは他人に見せびらかすために演出された生活だ)がリアルタイムで流れるのを目の当たりにするや、満足度の妥協点はもっと上方にあったはずだと見做し現在の自分が下に在ることに不幸を感じるようになる。カンパラの場合、ヤンカに村の暮らしを「貧しい」とレッテル張りされたことで泣き始めている。この時点で、カンパラは村に幸せな生き方を見出す思惑を捨てたのだ。恐らくヤンカも誰よりも現在の自分を幸福とは思っていないだろう。リテラシーがあり外の世界を知っている資本主義者ヤンカだからこそ、満足度の妥協点は村人よりもはるか上に位置付けられているはずだのだ。

 外の世界に触れ村に幸せを見出さなくなったカンパラは、いよいよ偶然知った憧れのフィギュアスケートの世界に焦点を絞った。だがこのときのカンパラは、自分が何者かについての社会的承認が無かった。ある体験時の、自己完結する身体レベルの実感を「体感」、他者を必要とする自分の社会的ポジショニングを「意味」とし、二つが合わさって生まれる自己了解を「物語」と言おう。追上選手のようなフィギュアスケーターになりたいという意志は「体感」で、これはわりと長続きする。社会的評価ではなく自分の想いだからだ。一方、ヤンカ式貧困からリッチへ事業は「意味」の分類だろう。仏教では物に対する執着、すなわち他者・「意味」への執着は餓鬼化すると考えたが、物質や他者からの評価というのは続かないので飽くなく求めざるを得ないからだ。カンパラにとっては悪いことに、自身の「体感」の理解者がどこにも居ない。アイデンティティ形成のためには「自分の設定する〈自己〉」と「他者が設定する「カンパラの〈自己〉」」とのすり合わせが要るが、他者の解釈の方が多くの場合ほかの他者によっても承認されているので、マイノリティとなった自分の設定する〈自己〉は変更を余儀なくされてしまうのだ。もしカンパラに自分の意思を貫く決意があればもっと違う人生だったかもしれないが、フィギュアスケーターの道は心にしまったままになった。
 それは、襲撃してきた過激派によって補強される。洗脳は、身体的・精神的苦痛を与えて個人の従来の信念を崩し、虚脱した個人の新たな信念や情報を注入し、周囲の人間の支持により新たに形成させた信念・アイデンティティを強化させ定着させる、という手法の三段階説をわりと目にし易い。苫米地英人『テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方』によれば、心理的な面において人間が快適に生活できる情報空間環境の幅を「コンフォートゾーン」と見做した。他者によって「意味」付けされた「お前は他人に都合のいい人間だ」というコンフォートゾーン調教に、カンパラは暫く翻弄される。

 コンフォートゾーンは、どうすれば移動できるのか。苫米地は、①暫定的ゴールを1つ設定し、②ゴールを満たした未来をリアルに思い浮かべ、③自分は現在どうすればいいかを考える、というプロセスが有効とした。他の少年兵とは違い、奇跡的にカンパラはこのプロセスを全て満たした。①フィギュアスケーターになりたくて、②隠れて演技の真似をしていて、③追上選手によって洗脳から完全に離脱して自立的行動を執る、に持って行けた。他者の「意味」に、村当時から自分の未来に価値を見出していた「体感」が勝ったのだ。
 もし現状に満足している人間であれば、その満足の根拠が実際は他者の価値観の刷り込みに因るものだったとしても気づかないまま、自分の考えた内容として受け売ってしまっただろう。その意味では、ヤンカは幸不幸はさておき夢を持って生きていた自立した人間だったと言えよう。カンパラも、辛うじてだが夢を維持し続け、かつヤンカに強いられリテラシーを獲得し物事を客観視する能力を有していたからこそ、それが自らの人生を好転的に拓く武器になった。そしてカンパラは、遂に結晶化した「物語」に行き着いたのである。

 自分の望ましい生き方を執るためにはどうすればいいのか。他者の価値観に知らずとマインドコントロールされないためにはどうしたほうがいいのか。カンパラを通して、我々読者の内面を考えさせてくれる。