第7話「世界的質量保存の法則」上

 今日も世界は休まずに回っている。

 人が苦しんでいることも知らずに動き続けている。


 苦労の数だけ幸せがあるなんて誰が言ったんだろう。

 苦労の数だけ、心は傷付いていく。


 靴底が磨り減る度に心も一緒に磨り減っていく。

 靴は買い替えられても、削れた心は修理も買い替えることも出来ない。


 地球は大きなおろし器で、きっと人間の心を自分の栄養に変えているに違いない。


 こんなにも大きな世界の中で、私は小さな歯車の一部にしか過ぎない。

 何も変わらない、只の一般人でしかない。


 そう、世界の中で存在しているちっぽけな一欠片に過ぎない。いや、塵も同然の存在だ。


 誰にも見向きもされず、誰の目にも止まることも無く、ただただ平々凡々と誰かの影を歩いているかのように、光の当たらない人生を過ごしてきた。


 昔も今も、誰かが提案したであろう作られたレールの上を、何の感情も抱かないように歩き続けてきた。


 ……もう限界に近いのかもしれない。



 二十八年間、大きな転機も無かった。ただ、周囲にされるがまま生きてきた。


 大学を卒業して就職。ずっと同じ仕事をしている。

 これはとてもつまらない人生、自分でもそう思う。


 分岐点は何処かに必ずあったはずなのに、私は何も出来ないまま、自分を押し殺して、耐え抜いて生きてきた。


 何も出来ない、しない、やらない自分が悪い……。

 そんな事は重々承知だった。


 ただ、変わらない運命の道を変えたいと、そう願い続けることは誰にも迷惑がかからないのだから、それは許してほしい。


 何をどう感じて考えているかは、個人によって異なるのだから、私の考えまで否定して、無かったことになんてしないで欲しい。


「…………」


 誰かに責められている訳でもないのに、頭の中はずっとこんな意味の分からない言い訳を、永遠と繰り返している。


 自己肯定と自己否定の狭間で揺れては、社会というヤスリで精神が削られていく。


「はぁ…………」


 今日の仕事がようやく終わった。


 既に大半の社員は帰って数人が残業している程度だった。


 今、会社に残っているメンバーは、仕事が出来ない居残り組と囁かれているらしい。


 上司の仕事を夕方に頼まれ、終わったと思えばもうこんな時間だ。


 断ると嫌な顔をして、余計に仕事をさせられる。


 断れず、他人の仕事までしているだけなのに、何故そんな陰口を叩かれなければならないのだろう。


 押し付けた人たちは定時前には帰る支度をして小話に口を動かしていた。


 人間が平等だなんて誰が言ったのか。


 優しさだけでは人間社会なんてどうにもならないことを私は思い知らされた。


 人柄が良いだけでは昇進も昇格も無い。

 人柄重視の会社なんて存在しない。

 人間味を重視した会社方針なんて存在しない。


 上に立つのは、いつも誰かを踏み台にした人間だ。


 他人の痛みを理解せず、自分の欲の為だけに生きる。


 そんな生き方、私には出来ない。


 私にとって、この人間社会は生きづらい。


 そう、多分、きっと私は社会不適合者だ。


 人間には適応出来るけれど、会社には適応出来ない。


 会社という環境と人間の感情、複雑な組み合わせが混沌と化していて、私には猛毒のようなものだった。


 人混み、会社、周囲の人間たちが目を瞑っても、嫌悪感に満ちた表情が脳内再生される。


 吐き気がしてたまらない。


 上へと昇りつめる者は、誰かに仕事を振る、そうして自分の時間を作る。そして、新しい仕事に着手する。


 自分がするはずの仕事を他人へと渡して、新しいことをして評価を貰う。


 これを社会では「人を使うのが上手い」なんて言うらしい。


 要は自分の仕事を他人に押し付け、新しい仕事をある程度やってみては、また誰かに放り投げる。


 今の世界の上層部の出来上がりだ。


 面倒事は「部下の責任」、部下の後輩が起こした責任も「部下の責任」。


 誰一人として、自分で自分の責任を背負おうとする者は居なかった。


 責任をとった上司は居たけれど、周囲へのアタリがひどくなった。


 所詮、人間なんて利己主義に固められた生き物でしかない。


 人間なんて、自分自身で精神的負荷をかけることも出来ないろくでもない生き物だ。


 己の報酬と成果に酔いしれ、過去の成績を自慢しては、傲慢の心を増幅させていく。


 他人の為に無償で行う善意なんてものは、この社会には存在しない。


 自我がハッキリとしてから、ずっと人間を見てきたけれど、利他主義で動く人間は一人も居なかった。


 世界は多分、腐ってる。


 心の美しさを求めても、心の安寧を求めても、この世界ではそんなものは必要ないかのように、無機質な物と利己主義の人間に溢れている。


 悲しむ心はもう失った。

 残っているのは、心の虚像だけかもしれない。


 ダメだな……。

 今日は特に精神が参っているせいか、感情の起伏がいつもより激しいように感じる。


 落ち着かなければ……、そう、安静に。

 落ち着いて。大丈夫……。


 顔全体を手で覆い、少しの間精神統一をしなければ、発狂してしまいそうなくらい、負の感情が心を蝕んでいた。


 苛立ち、嫉妬、憎しみ、穢れた気持ちに支配されていく心が、精神が、不憫で仕方が無かった。


 妬みしか生むことの出来ない思考回路が、ひどく気に食わない。


 そうだ、私はこんな私が大嫌いだ。


 自分が悪い。

 そう、言いたいことも言えない自分が悪いんだ。


 いや……落ち着け、落ち着け、大丈夫、まだやれる、まだ生きているのだから……、そう、大丈夫だ……。


 会社からの帰り道、疲れた体を駅までゆっくりと運んでいく。


 足は棒のようで、体を進めるために頭が一生懸命指示を出し、動かそうと肉体的な業務に励んでいる。


 時刻は既に十一時を回っている。


 帰宅ラッシュはとうに過ぎているし、この時間帯なら、まあ座れるだろう。


 改札を通り抜けて、一段ずつやけに高い階段を踏みしめて上がっていく。


 つま先から乗せて、踵を地面に着ける動作が既に苦痛で仕方がない。


 自分の意思で膝を上げているのに、誰かがくいっと、なにか糸のようなもので引っ張っているような感覚を覚える。


 身体の各関節は人間を辞め始めたらしい。


 カクカクと機械的にしか動かない。


 疲れも限界に近付けば、人間の身体も人形のようにしか動けないらしい。


 持久走を走り終えた後の、膝のガクガクとしたあの感覚、あれが体全身にまで行き届いてしまったような感じだ。


 今、もし躓いて転倒でもしたら、頭、肘、膝、綺麗にバラけるかもしれない。


 操り人形を落としてしまった時のあのバラバラに飛び散った瞬間と同じように砕け散りそうだ。


 いっそ、砕けることができれば、どれほど楽なのだろう。


 もう同じような日々の繰り返しで、日付も曜日も分からなくなってしまった。


 携帯を見れば一目で分かるが、ポケットから取り出すことすら面倒で仕方がない。


 働いてから、社会に揉まれてから、時間感覚というものが消失した。


 皮肉な話だが、時間に縛られているのに、時間が分からない。


 明日も明後日も同じ毎日が待っている。起きて、会社に行って仕事をして、気が付けば夜遅くまで残業して……。


 まったく、私はどこで間違ったんだろう。


 生きるということが何故こんなにも辛く厳しいものなのだろう。


 他人の仕事をする、人の分もこなしているのに、その評価は見てはもらえない。


 仕事が出来ないというレッテルだけが貼られ続ける。


 疲労困憊、人間社会に完敗だ。


 上層部を目指すには人を欺かないといけない。それは、私には到底出来ない技術だった。


 一生、誰かの下で働き続けて、誰かの踏み台になり続けるのだろうか……。


 ホームへ上がって数分後、電車がやってきた。


 速度を落としていく電車の窓をなんとなく眺めた。


 中がぎゅうぎゅうに人で埋まっている。


 疲れた体をもたれさせる空間も無さそうだ。


 しかし、窮屈でも乗って帰らなければ休めない。


 この時間はラッシュも終わっているはずなのに、今日はどうしたんだろうか。


 次の電車で座るか早く帰って睡眠を優先するか。


 考えている間に電車はホームへと、車体の横付けを完了させていた。


 少しでも体を休ませておかないと、仕事なんて出来やしない。遅くなって睡眠をとれなければ、身体を壊してしまうかもしれない。


 つまり、家に早く帰るのが、私にとって賢明なのだ。会社の為にせざるをえない選択なのだ。


 私は「私の為に早く帰りたい」という名目なのに、実は「会社の為」にこう考えさせられていると思うと、自然と溜め息が漏れる。


 休ませたいのは自分の身体、休みたい理由は会社の為。


 こう考えるだけで生きている価値を見失いそうになる。


 会社の歯車として、居なくなっても困らないはずのこの体は、もう既に私のものではないのかもしれない。


 入社という契約で体の自由を奪われ、精神は日々、病んでいく。


 周囲の人に気を遣いながら生きている分、肉体的疲労も、精神的疲労もかなり限界に近付いている。


「…………」


 いや、きっと疲れているからこんな考え方をしてしまうんだ。早く帰って休もう。休めば気持ちもリセット出来る。また明日、同じように仕事をする。ただそれだけ。


 窮屈な電車の中、女性も男性も一緒に箱詰めにされ、加齢臭と誰かの香水が混ざり合い、ひどく不愉快な匂いが辺りに漂う。


 リュックを背負ったままの男性が、その背中のリュックで押し潰されそうになっている女性のことなど全く気にもせず携帯をいじっている。


 警察署には牢屋がある。ならここは多分、社会の牢屋だ。


 揺れる電車の中で、所々から似たような会話が聞こえてくる。


「あの人の話は人生について考えさせられるよね」

「うん、自分の道はきちんと自分で決めなきゃなって思ったよ」


 今日は近くで何かあったのだろうか。


 講演かなにか、有名人による、人生のタメになるような話がされていたみたいだ。


 まあ私には関係のないことか……。


 会社という社会には根付いているのに、こうして、近隣で行われている行事からは無関係の如く切り離されている。


 社会と町は別の世界を歩んでいるのかもしれない。いや、そもそも、私自身が社会から切り離されているのか。


 根付いたと思っていたのは鉢植えかもしれない。


 使えなくなれば捨てられる、代替えの利く鉢植え。

 案外、これは的を射てるかもしれない。


「しがらみ駅、しがらみ駅です。お降りの際は――――――」


 考えている間に、降りる駅はあと二駅に迫っていた。


 もう十二時前、仕事の日は朝の五時には家を出る。


 これから、帰ってご飯を食べて風呂に入り、小用を済ましてから寝るにしてもあまり睡眠時間がとれない。


 本当に……本当に私は、何の為に生きているんだろう。


 家族とも離れて一人暮らし、大切な人も居なければ彼女も居ない。


 友達も地元から離れた結果、疎遠になった。時々来る親からの連絡には、疲れていることもあって適当にしか返事をしていない。


 私が消えた所で周囲は何も変わらないのなら、いっその事、楽になった方が得策かもしれないとさえ思う。


 しかし、何度も何度も辞めようとしたけれど、社会の圧に負けてしまう自分が居る。


 仕事を辞めた後、自分がしていた仕事を誰かが背負わなければならない。

 自分が居なくなることで周囲はどう思うか。


 「責任」の二文字が心に刻み付けられてしまった私は、もう辞めること自体を諦めていた。


 「責任」という烙印は身体ではなく心に刻み込まれ、その印を取るには精神的苦痛を伴う。


 社会が発明したであろう「責任」は最強の恐怖支配でしかなかった。

 それは言ってしまえば現代に残る奴隷制度……。


 もし、責任から逃げるとしたら、人生自体を辞めるしかないとさえ考えてしまう。

 それほどに、「社会の責任」は個人に重くのしかかる。


 死ねば本当に楽になれるんだろうか。

 死の向こう側に平穏があるのなら、ぜひ渡ってみたいが、責任の鎖はこの世界から離れることを良しとしてくれない。


「…………」


 鬱蒼とした考えが頭を巡っている最中、突如鳴り響く警笛にドキッとした。


 車両が何かを踏んづけたのか、車内は異様な揺れに襲われた。


 降りる一駅前のホームで扉が開いたと同時、アナウンスが流れる。


「本日は○○線をご利用頂きまして誠にありがとうございます。ご乗車中のお客様にお知らせを致します。前方車両にて人身事故が発生致しました。この電車は暫くの間、運転の見合わせを行います。なお、復旧の目途はたっておりません。皆さまにはご迷惑をおかけいたしますこと、大変申し訳ありません。お急ぎの方は、他の交通機関をご利用ください。つきましては――」


 放送が終わるよりも先に、乗員たちが次々と降りていく。


 気が付けば私も車内から押し流され、ホームに立ち尽くしていた。


 ああ、最悪だ……。


 あと一駅なのにその手前で降ろされるなんて……。


 世界はどこまで私を苦しめれば気が済んでくれるのだろう。


 私が何をしたというんだろうか。

 人に迷惑を掛けないように必死に耐えて、頼み事は全て受け入れてきた。争いも好まないし仕事に集中して一生懸命頑張ってきた。


 いや……、こんなことを自分で言ってしまう時点で言い訳でしかない。


 自分で自分を守る言い訳ほど、見苦しいことはない。


 上司に対する媚びへつらいや、部下に対するストレスの当てつけ、そういった底辺の人間と同じにはなりたくない。


 自分のミスは自分でカバーする。

 今までもこれからも、そうして生きていくと決めたんだ。


 誰のせいにもしないことが、一番穏やかなのだから。それでいい。


 生きることは自己責任であり、他人に責任はない。


 どう楽に生きるか――――この世界はそうやって出来ている。


 悲しいことに、働き蟻は死ぬまで働き蟻だ。


 血生臭いレバーのような鉄の匂いが辺り一面に広がっている。


 人身事故の現場に居合わせたのは初めてだった。


 駅員たちもかなり慌てているが、やはり身体はバラバラになったのだろうか。


 後方の車両に乗っていたおかげで現場を見ずには済んだが、事故の様子を思い浮かべると吐き気がした。


 色々な感情が入り混じった溜め息を吐き出すと、心の余裕も風船のようにしぼんで縮んでいくのを感じる。


 「溜め息を吐くと幸せが逃げる」とよく耳にする。


 実際にそうなのかもしれないが、本当の所は、身体の中が圧縮されていくと心も圧縮されていくような、幸せが逃げるんじゃなくて、心の余裕の中で見える幸せを感じることが出来なくなる、というのが正しい言い方なのかもしれない。


 暗いことばかりを考えてしまうと、自分の胸の中にある小さなブラックホールが、心を吸い込んで私を殺そうとする。


 楽しい記憶は会社の書類の記憶で埋め尽くされて、もう何処にしまってあるのか見当もつかない。


「はぁ……」


 本当に今日は散々な一日だ。


 小さい頃からいつもこうなる……。


 急ごうが、余裕をもって行動しようが、トラブルに巻き込まれる。


 自分の運の悪さには自信があったが、疲れ切っている時にその不運に襲われると精神的に追い込まれてしまう。


 今日は特に、これ以上続いたら気が狂ってしまいそうだ……。


 心の苛立ち、崩壊を無理矢理思考で押さえつける度に、人として大切な何かが欠けていく。パキッと折れるような割れるような音がする。


 身体は元気なのに、心が荒んでいく。

 心は何処まで磨り減っていくのだろうか。


 ガラス細工で形作られた人の心は、社会と人間のヤスリでどんどん削られていく。


 本体の周りに散らばった細かな心の粒子が、多分、人として大切な何かだったものだろう。


 もう一度、その全てを高温で混ぜ合わせなければ、多分元の大きさに戻ることはない。


 そして、同じ形に戻ることは二度とない。

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