第6話「死後転生」《上》

 もう何度目の死なのか、数えることも諦めた。

 死んで目が覚める度に、身の回りの環境が様変わりしている。

 人生をやり直しては死んでいく。


 ある時、車に轢かれて即死だったはずの私は、姿形を変えて別の人間の人生を歩んだ。


 これは自我が確立していない小学生や中学生に移り変わることが多い。


 成人した人間に移り変わったことは一度も無かった。


 自分という存在を認識した人間には移ることは出来ないのかもしれない。


 何度も他人に移り変わる度に、そんな仮説を立てていた。


 私はまた、知らない他人であろう人生で死にかけている。


 通り魔に不意に後ろから刺されたのだ。

 気絶しそうなほど痛いのに、その痛みによって現実に引き戻される。


 どくどくと脈打つ傷口が、どこにあったのかと思う程の血液をこれでもかと吐き出し続けている。


 やり直し先で通り魔に殺されるのは初めてだった。意識が飛びそうだが、直前に引き戻される。この繰り返しだ。


 死ぬに死ねないとはこのことなのだろう。実際には「死んでも死ねない」が正しいが……なんて、皮肉を交えながら私は痛みに苦しんだ。


 通り魔は私の視界の範囲で別の人間に襲いかかっていた。どうにも襲い足りないらしい。


 痛み無く死にたい。


 そんな思いも空しく、激痛で口からも違うものがこみ上げてきて吐きそうになる。


 死ぬなら早く死んでくれ。中学生になりたてのこれからの人生だっただろうに。


 可哀そうなことをしてしまった。いや、そもそも、ここに居るこの子は私であり、元居たこの子は何なのだろう。


 気が付いたら私はこの子になっていた。


 ああ、劇場の幕が、ふっと降ろされるような視界の暗転。


 幕引きというものはいつも素っ気なく、味気なく、つまらない。


 大抵は死ぬ直前に視界が暗転し、数秒の時が止まっているような感覚を覚えることが多い。


 電車に揺られている時の、気が付けば目的地に着いていたというような、あの長いはずの短い時間を死ぬ時に感じるのだ。


 分かってもらえるだろうか。知らぬ間に目的地に着いていたような、そんな感覚を。



 次は幼稚園児からの始まりだった。


 砂場で遊んでいたのか、手元にはスコップを持っている。


 この子の親であろう母親が、手を振りながらこちらへと向かっているのがなんとなく分かる。


 「待たせてごめんね」という母親に、「大丈夫だよ」と言おうとしたが言葉にならなかった。


 小さすぎると身体は動かしづらい上に言葉も私の知っている言葉・記憶は反映されない。


 私が発しようとした言葉は別の形で変換される。多分だが、転生された後、生命的な制限があるのだろう。


 「私」という思念がこの子の体を介す時に、その制限を超えた言動をしようとすると、不具合を起こして奇妙な行動をとってしまう。


 別に泣きたいわけでもないのに泣いてしまったり、人間の暖かみに触れたくなったりしてしまう。


 どこまでが「私」という可動域なのかを、確かめながら行動しなければ、精神科に連れて行かれてしまうことある。


 別の人生で何度か連れて行かれて散々な目にあった。そのおかげ、と言えば皮肉だが、基本的に無茶な行動はしないように心掛けている。



 ――――ああ、私はあと何回、あと何十回、「誰か」の人生を過ごさねばならないのだろう。


 何回も繰り返しているうちに、私は私なりの仮説を立ててみた。


 生まれたての生命とは、心を入れるための器として生まれる。


 そして、物心がついた頃には、私のような思念がその器の中へと入る。だからこそ、赤ちゃんの時の記憶が欠如する。


 ただ、人生を渡り歩いている時にこういった話をすると、決まって相手は気分が悪そうな顔をする。


 まあ、元居るはずの今の自分が、小さい頃に別の器に乗り移っていた思念だと言われれば、複雑な気持ちになるのも無理はない。


 いや、そもそもの話、子どもの幼少期にこの「私」のような思念が存在するのかということも調べなければならない。


 彼らの魂は何処に行くのか――――――



 私のように別の人間の器に入ってしまった者が他に居ないか、時々気になるのだが私には探す術がない。


 それに、それを成し遂げようと大人になる頃には、人生に重きを置いてしまうため、その行為をしようという気が起きないのが今までの現状だ。


「家に着いたよ」


 母親の家に着き、これからまた別の人生が始まる。


 何時間、何日、何年、何十年と、この身で再び人生を歩き出す。


 全く無関係の場所から、もう一度人生を始めなければならないというのは、中々気が進まないものだ。


 リスタート、「あの時ああしていれば……」なんて、もう全部やり直した。


 実際の所、結果的に人生に正解など無かった。


 何をしたって間違いは起きる。人間に完璧は存在しない。良好な人間関係、会社の成績、多種多様な人生を歩んでいるせいで、ある程度の業種も対人関係も制覇してしまった。


 結果、「人間には深く関わらない」というのが、人として人間として、一番正しい生き方だった。


 誰かと居ると心苦しくなる。私の好き嫌いは直接相手に届くが、相手の好き嫌いは私ではなく器にしか届かない。


 誰も私を私とは認識できないのだから仕方がない。だが、それはとても寂しく虚しいことだと知った。


 なぜなら、器は「私」であって「私」ではないのだから。彼らの目には「器」が映り、その中に盛られた「私」という魂を知らない。


 誰も、元の「私」を知ることは出来ない。



 こうなってからというもの、死ぬということが全くもって分からなくなってしまった。


 人間は心臓が止まれば死ぬ、体が消えれば死ぬものだと思っていた。


 一番最初(と言っても一番最初に死んだ自分ですら、こうなった今では本当の自分かも分からなくなってしまっているが)、私が最初に「死んだ」と思う死も、突然と言えば突然だった。


 視界は暗転し、体の自由が利かずに道端にゆっくりと倒れていった。


 暗転しながらも少し斜めに崩れていく感覚が今でも記憶に残っていて、絶叫の、ジェットコースターを乗った時の、一番上から降りる瞬間の心臓がくっとなるような、あの感覚に近いかもしれない。


 ハッと目を開いた瞬間、気が付いた時には、既に私は見知らぬ子どもになっていた。


 最初は喜んだものの、今までと全く異なる環境で過ごすというのは、もはや自分ではないことに気が付き、あまり気分の良いものではなかった。


 そうして、また幕が閉じたあと、次の私は小学生となっていた。


 自分ではない体を動かしては、何度も何度も人生をやり直さなければならない。


 何か達成しなければならない目標があったわけでもなく、誰かから、人生の中で達成しなければならない課題を与えられたわけでもない。


 本当に、私という存在は、私になにをさせたいのだろう。



 私が元の私だった頃、時々は死というものについて考えることは確かにあった。


 死んだ後、体は消失しようとも、魂というものが残ると思っていた。


 「心」「魂」「記憶」、人間の三種の神器は存在するのだと信じていた。


 だからといって学者でもなければ、心理カウンセラーのような仕事をしていたわけではない。


 私は単に独りで考えることが多かった。


 私は孤独だった。


 独りで心の深層に入り込もうとする癖があり、誰かと居ても、どこか自分は別の空間に存在しているような、そんな感覚を抱いていた。


 もし、身体的な死を死と言わず、精神的な死を死というのなら、本当の死というものは存在しないのかもしれない。自分がこういう立場にあるのだから尚更、死という実感が遠のいていく。



 人間とは、自分で確認出来るものしか承認することが出来ない。


 私がいくら「あの時の事故で死んだ○○だ」といった所で、何も証明にはならないだろう。


 それに、大元の記憶は確かにあるのだけれど、大半の記憶は切除されているのか、断片的にしか思い出せないのだ。

 ただ、大半の記憶が無いとは言っても、時々思い出すトラウマはしっかりと魂に刻み付けられている。


 輪廻転生。


 人間は死に、再びこの世に生を受けては、その循環を繰り返す。


 日本の宗教か仏教か、詳しくは興味がないため分からないが、そういった考え方だ。


 ただ、今の私の状況を文字通りにするならば、「輪廻転生」ではなく「死後転生」と言えるだろう。


 魂、心の価値を測り、次の段階へと進めた時に輪廻から解放される。


 生と死、両方からの解放とも言えるだろう。


 憶測だが、誰かが死んだ時、本人価値を何者かが定めているのかもしれない。


 それが何者なのかは分からない。


 それは自分自身なのかも知れない。


 全くの無意識の中で眠ったままの自分が、死んだ時の反動で目覚め、その時までの自分を遡り、経験を感じ、思考を読み取り、溢れる感情を全て飲み込む。


 そうして得た情報から次の段階へと進めるか、それとも、人間をもう一度やり直すかを選択する。


 ただ、無意識の自分が居るとするなら、そもそもこうして居る自分は何なのかという疑問を生んでしまう。


 考えた所で何も変わらないのは分かっているが、深く掘り下げていくと辿り着きそうで辿り着かない、真理のようなものを身近に感じることが出来る。


 そもそも、人間の真理に辿り着けるのなら、こんな暇つぶしのような、人生ゲームのような人生の繰り返しからもうとっくの昔に抜け出せていただろう。


 最後の詰めが甘いことは自分の難点でもある。



 こんな形で人生を何度も過ごしているせいか、自分には二つの思考方法が生まれた


 大きく分けて「人といる時」「人といない時」の二つ。


 前者は人間としての作法を身に着けていて、後者は人間としてではなく人として存在する。


 人間と人とを使い分けるのには個人的な理由がある。


 人間は「人の間」と書いて人間としている。つまりは、人と人という点をそれぞれの言語能力などで線にして繋いでいる状態だ。


 これが幾重にも重なって社会が出来る。人間とは、ある意味複数形のような状態に近い。


 反対に、「人」は個を成立させるもの。個である証のようなもの。


 だから私は人間であり人でもある。


 これを両立させるのが最も人生を上手く生きる方法だったような気がする。


 人間であるときの私は他人との距離感に重要性を求めた。


 人間社会は一度嫌われてしまうとどうしても修復するのが難しいからだ。


 反対に、人である時の私にとっては明確な評価基準があり、他人の評価が最初の段階で幾ら低くても、その後の行動で評価が変動しやすい。


 二人の自分を確立させることで、感情の波もある程度、自分の思いのままに操ることが出来た。


 人をもって人間を制することは素晴らしいことである。だが、人間をもって人を制することがあってはならない。


 人間による支配は争いを生むが、人による支配はそもそも成立せず存在しない。


 人は個であり、群れとはならないからだ。


 人間は群れて、その大きさによって自分たちの生きる場所を増やそうとする。だから争いが生まれる。だから奪い合う。


 自分たちが生きるために他者を追い詰める。


 人は美しく、人間は醜い。



 人間は様々な物事に関して固定することが好きなようで、これはこうだと決めつけやすい。

 そこに集団意識も混じってくれば、それはもうさながら一つの正解であるが如く、多数決のような、浅はかな終幕を迎える。


 右を向けと言われれば右を向き、上を向けと言われれば上を向く。


 それが一番楽な道であり、他人との比較を生まないように平和に過ごせるからだろう。


 誰かと一緒の行動をしていれば、自分が独りではないのだと、不安にならずに済む。


 そして、人間とは、自分たちと違う行動をする人を忌み嫌う。


 自分が出来ないことをやり遂げる人を嫌うのだ。


 自分が納得できないことを、人間は否定する。


 それは愚劣な感情であり、矛盾を孕んだ情緒。


 ――――――とても不愉快だ。


 しかし、人間の私は従順だ。


 何故なら、否定さえしなければ周囲に荒波を立てることがないの。だから、私は否定をしない。拒否をしない。


 肯定することが最大の利益であり、否定をする理由がないのだ。


 仮にやらなかった場合、指摘を受けて説教というとてつもなく無駄な時間を過ごすことになってしまう。


 死後、すぐに転生してしまう私が「時間の無駄」というのは皮肉だが、自分と他者の二人分の時間、加えてはそれを見届けるか、終わるまで待たなければならない周囲の時間の無駄なのだ。


 物事は効率よく行わなければならない。


 何が必要で何を切り捨てれば最善なのか。


 それさえ考えていれば、ある程度の人生は平穏に終わりを迎えていく。


 これは要領よく生きる為、私が見つけた人生の最善策だ。

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