第6話「死後転生」《下》
生きとし生けるもの、全ては平等に朽ち果てていく。いくらその進行を遅らせたとしても、やがては消えていく。時間も平等に分け与えられ生を謳歌する――――
この死後転生という運命の輪を知る前は、そんな当たり前の概念に縛り付けられていた。だが、いざ死んでみたらこの有様だ。
死んでいるのに死ぬということは許されず、喜怒哀楽、混沌に塗れた世界にまた戻され、一から人生を始めなければならない。
死ねば楽になれるなど、人間にそんな安全装置のようなものは存在しなかったということだ。
「自分であり、自分ではない」
そんな生命を始めなければならないのだ。
道端ですれ違う人間も、実は既に死人だったかもしれない。
過去に生きてきた英雄や悪人の魂が、そこには鎮座しているかもしれない。
そう考え始めると、もう何もかもが疑わしく思えて仕方ない。人間は信用に値しない。
だってそうだろう、こうして自分が繰り返し生きているということは、知らない場所で誰かが死んで再び蘇ってきているのかもしれないのだから。
神様という存在が、この行為を平等にしているのなら、悪人が絶えず世界に溢れるのも頷けるというものだ。
そうすれば、「何故、善人が少ないか」なんて、考えなくても答えが出る。
この世界は死後転生、まあ輪廻転生、つまりはやり直しを前提とした世界だとしよう。
魂の練度によって次の段階へと進むことができる世界。つまり、善人が少ないのはそういうことなのだ。
利己主義の枠から外れ、利他主義の精神に生きている者が次の次元へと進める。
まあ、これも勝手に私が考えた仮定だ。実際どうなのか、神様が居るなら是非教えて頂きたい。
そんなことも、その内どうでもよくなるんだろう――――――
生まれ変わりを繰り返す中で、一度だけ、人間以外に生まれ変わったことがあった。それも、生まれて一ヵ月くらいの子犬だった。
私は人間の言葉が理解できる分、飼い主に喜ばれることをするのは造作も無いことだった。
お手もおかわりも、一風変わった芸も、やってみせるとその飼い主は決まって、褒めては頭を撫でて餌を与えてくれた。
ドッグフードやペット用のおやつを食べるのにはかなりの抵抗を感じたが、いざ食べてみるとこれが美味しかった。
犬用に感覚も切り替わっているのか、逆に人間の食べ物の味の濃さと匂いに鼻が折れ曲がりそうになることが多かった。
そして、犬になって一番慣れないことは便所だった。
シーツの上で、外でするという開放感と罪悪感、色々なものがごちゃ混ぜにされ、自分が犬であるということを自覚させられた。
誰かが見ている所で用を足さなければならないという不快感もあり、私はなるべく家族の寝静まった時を見計らって事を済ませていた。
それでも、自分の尻を拭けない感覚と全裸で常に過ごすという感覚は解放感もあれば不愉快さもあり、人間以外の動物に生まれ変わるのはあまり良いものではないことを思い知らされた。
人間も動物も、生きている間は本当の解放感なんて味わうことは出来ないのかもしれない。
この世界に真の解放は存在しえないのだろう。
もし仮に、解放した先に誰も居ないのなら、自分一人としての世界ならば、その時こそ真の解放感に包まれることが可能だろう。
人目を気にすることも無い、誰かに阻まれることも無い、自分の好きなことを好きなだけ出来る。
他人による評価を望まず、己が信念のみを追求する性格の人ならば、それが楽園、理想郷だろう。
「――――おめでとう」
生まれてから十数年が経ち、これで何度目の成人式なのだろうか。
そもそも成人の基準とは何なのだろうか。
年齢で成人したと認めるには、あまりにも人間は未熟すぎる。
人に成ったと認めるだけならば、いつでも成人式をすればいい。
どの世界でも、どこの国でも、人間はあまりにも醜すぎる。
人が人になるためには、数えきれない条件、目に見えない無数の条件が存在する。
規律に秩序、法律、色々な縛りを作らなければ、人は人間に追い詰められてしまう。
それの代表が戦争だ。
領土を奪い、人や人間を殺し、武器で脅す。
相手国の人々を動物以下の存在に格下げする。
数回、戦争地域の場所にも生を受けたことがあるが、あれも思えば悲惨なものだった。
一人で歩けるときには既に銃を持ち、敵国の兵士だろうと一般人だろうと、飢えを凌ぐ為に殺した。
撃った衝撃で血肉や脳みそ、肉片が飛び散る世界、そんな凄惨な場所に送られた時はさすがに神を呪った。
私は、人が人で存在しようとすることが、こんなにも難しいとは思いもしなかった。そこは、日本という国に居た時には考えられない現状だった。
そんな動物とも人間とも区別の付けられないような無意味な戦争世界の終りは、思っていた以上に早かった。
歩いている時に何かカチッという音がしたと思い、足を上げた瞬間には体が飛び散っていた。
即死じゃない分、質が悪い。
失くなったであろう体の部分から大量に血が流れ出てはすぐに眠くなった。
痛みなんてものはもう機能していなかったのだろう。
頭に送るための血は地面に吸い込まれて視界は暗転する。
痛みを感じなかったにしても、さすがにもう爆散して死ぬのは勘弁だ。
分かるかな、あったはずの肩、腕、手、指先を動かそうとしているのに、その神経が断線しているような感覚。
そして思った。
私は人間という生き物が嫌いだと。
人間は人間を、己の自己満足の為に殺すことがある。
子どもだろうが成人していようが、それは関係なく行われる。
己の感情に突き動かされて行動を起こす。
己の制御できない感情に任せて誰かを殴る、蹴る、怒鳴る、殺す。
さあ、動物と何が違うと言えようか。
結局、人間は国に飼われている動物と変わらない。
動物園とは、人間が動物を飼育し、それを見世物に人間を呼び込んで収益を得る。
国は人間に場所を提供して税金を貰う。
旅行なんて言葉は実際には国という動物園の行き来をしているようなものに近いように感じる。
上流階級の人間は貧困地域には目もくれず、己に利益をもたらすものだけを追い求める。
本当に苦しんでいる者に手を差し伸べる者など居ない。
国境を越えて、己の自己満足の為に他人を救う人間たちも、無償で被災地を訪れて支援を行う者も、これでもかという程の支援金をたらふく食べて飲み干しているのだ。
個人としては無償だろうが、団体として動く者には金が流れ込む。
世界は、人間は、汚い所を上手に隠して生きている。それは吐き気がするくらい素晴らしく醜いものだ。
いくら心の清い者たちが利他主義の精神で他人を救おうとも、何処かでその善意は利己主義の悪意に飲み込まれてしまう。
本当に、世界は穢れてしまっていた。
親を殺す、友人を殺す、妻を家族を親戚を、他人を殺す。
己の限界を超えた境地に立たされると、人間は人間らしからぬ行動を起こす。
いや、これが本当の姿なのかもしれないが、私が思う人間とは程遠いように思う。
どのような気持ちになるのか、一度試してみようかと思い、全く知らない人間を襲おうとしたことがあった。
だが、その人間の後ろに立った時に色々な思いが脳裏を過ぎった。
私がもし、この人間を襲った場合に起こるであろう出来事を逆算していく。
殺した後、警察が動く。(完全犯罪もやろうと思えば出来るが、それは今回の知りたい結果とは異なるため、ここはあえて見つかりやすいようにすることが前提条件だ。)
私が犯人として捕まる。知人友人、家族が標的にされ、狼のような、ハイエナのような悪趣味を持つ、他人の行動を知りたがる記者や報道陣が過去を洗いざらい暴こうと躍起になる。
私の周りの人間は精神的に追い詰められていくことだろう。
そして、御馳走という名の情報を報道すべく、何もかもを暴露し、人々の視線を自分に集めようと必死になる利己主義的なメディア。
私は拘束され、事実と異なることを幾ら彼らに述べられようと、反論する余地も場所も与えられない。
世界とは、利益を求める者が、純粋な欲望を渇望する者が、上に立ち人々を先導し扇動する。
生きることにあまり意味を持てない人生が何度も続いているが、生きること自体が危ぶまれるのは、後処理が面倒になるからやりたくないのだ。
死ねば死後転生出来るが、牢屋に閉じ込められれば単純に時間の無駄になってしまう。
社会も会社も人間もそうだ。どこの世界でも出る杭は叩かれて折られる。
権力の養分を得られる者はどんどん肥大化していく。
彼らは成長せず、ただ肥え太るだけで何の意味も成さない。何も成してはくれない。
考えずに生きてきた能天気な思考回路をそこで掃き出し、危険を顧みずに他人を巻き込んでは負の連鎖をもたらす。
全てがそういう人間というわけではないが、自己中心的な人間の欲深さは計り知れないのだ。
人は人間に食い潰されていく。
特にやりたいことが無かったため、自分以外の人の為に我が身を捧げてみようという思いで生きてみたことがある。
親の為、兄弟の為、友人の為、会社の為、困りごとがある人を見過ごさずにどうしたのかと尋ね続けた。
何に困っているのか、何をすれば解決するのか。目的、目標、達成の為の条件を考えて提案していった。
人から得たものは感謝の気持ち、人間から得たのは金銭。
どうだろう、こんなにも世界は汚れてしまっている。
何の為に私はこの善意を続けているのだろうかと悲しくなり、自分から声を掛けることを辞めた。
人を自分から助けに行くことを辞めた。
人は独りで成長するが、人間は複数でしか成長できない。
考えることを放棄した人間は尚更質が悪かった。まき散らした害悪は、その周りに居た人々に負の感情を与える。
さて、助ける意味が何処にあるのだろうか。
「よくがんばったね」
さあ、大学も無事に卒業し、これから何回も経験した社会人生活が始まる。どこの会社だろうと、入社式は単純でつまらないものばかりだ。
最初から話をされる「我が社の教訓」や「道程」、そして最後には「貴方たちがこの会社の資産の一つとして」、というようなありふれた言葉で締めくくる。
会社に骨を鎮めたい人間がこの会場に居るかは甚だ疑問だ。
作り飾られた言葉よりも、最初の壁を壊していくことの方が重要なように思う。
ただの学生が会社で、社会で働くその周囲との実力差は明らかに違う。それを真っ向から否定する者や一緒に頑張ろうと奮闘する者、目立った者は陰口を叩かれる。
家柄や自己能力が高ければ高いほど、光に集まる虫のように、その人間に寄ってたかる虫が湧く。人生とは、無難が一番なのかもしれない。
裕福で恵まれた人間にたかる者、嫉妬に奮闘する者、出鼻を挫く者、見ていて溜め息が漏れてしまう。
全てにおいて一歩引いて生きる人生は、平凡であり気楽だ。
何かを追い求める労力も、誰かと競い合うこともせず、ただ常に第三者として、自分すらも他人として生きる生き方は、案外つまらないものでもない。
一生懸命に生きることも、誰かに負けたくないという人間特有の底力のようなものが無限の可能性を秘めていることは私も知っている。
ただ、私にはそんな意地・根性は最初から持ちえなかった。
ここまで人生を繰り返しているうちに、自分から求めることも次第にしなくなり、競争することもせず、諦めるという最高の回答に行き着いた。
いや、諦めるというのには語弊があるかもしれない。他人と比べることの愚かさと、競い合うという無駄な、馬のむち打ちのような行為を思うと、どうでもよくなってしまうのだ。
自分で定めた目標の上げ下げと結果からの反省、今後の進め方などを独りで考慮している方が楽しかった。
自分の範囲で生きるのは肩身が狭いと、視野が狭くなると言うけれど、それも認識の価値観の押し付けだろう。
自分がやりたいことをとことん突き詰めた者は探求者から探究者になる。
針一つで岩をも砕くことが出来る。
そうだな……、これは諦めるというものではなく、別の道から目的地を目指すという認識に近いかもしれない。
とある人生の中で、たまには勉強してみようと思い、長い長い人生の記憶を頼りにしつつ、常に勉強に打ち込んでみた。
結果的に同じ学年で私よりも上に立てる者は居なかった。
それもそうだろう。多少の記憶の抜け落ちはあれども、生きてきた時間と得てきた知識の差があまりにも乖離しているのだから。
同じ学年の人間が知ったら私は集団で暴力を振るわれ、挙句の果てに首を切られて殺されるだろう。
それでも、死後転生の輪からは逃げられないのだから皮肉な話だ。
殺したいのに殺せないのだから、嫉妬深い人間が知ったら追いかけ回されてしまう。
ただ、私は結局其処止まりだった。
勉強して一番だろうと、それは時間差が生んだだけの代物で、一つの研究に打ち込む人の思いと情熱というものには勝てる気がしなかった。
同じ下積みをしても、私には到底追い求めることの出来ない世界。
一つに打ち込むという労力、気力、体力、それを持たない私にとって、それを持つ者には完敗の二文字しかない。
一芸を極める者はなんちゃらと、昔からよく言うが、本当にその通りだった。
幾度かの人生を過ごしている中で、自分が好きなものは何なのかを考えた。
読書、映画、音楽、漫画、ゲーム、色々なものをやってはみたけれど、どれもこれも誰よりも一番になろうと思うこともなく、飽きればそのまま自然と趣味は疎遠になっていく。
何かが得意ということもなく、全てにおいて平均の能力は、生きるためには苦労しないが、何かを追い求めるにはかなり不自由な想いをしてしまう。
やろうと思えば出来るのだろうが、私は自分に甘く、他人にも甘くの精神なので、嫌と言えば嫌、好きと言えば好き。
やるかやらないかは本人の自由意思に任せる所存なのだ。
私は精神的な自由が好きであり、平等が好きだった。けれど、人間の世界は様々なことを不自由にさせ、人間はその中で生きている。
不平等を嘆きながらも、時々見受けられる催事や行事などで息抜きをし、趣味の世界に没頭しながらその社会的精神負荷を軽減して生きている。
私も生きるために、お金を貰うために心と感情の切り替えを常にしていた。その結果、他人といる時の自分と、こうして内側に居る自分が生まれたのかもしれない。
こうなると、私は二重人格なのかもしれないが、どちらも私という自覚を持って行動しているのだから、どちらもしっかりと私なのだろう。
こんなにも死後転生を繰り返していたら仕方がないというものだ。
誰に本心を打ち明ければいいのか、信頼できる者も居ないこの世界でどうすればいいのか、私にはその答えを見つけることは出来ないだろう。
「よく、ここまでがんばったね……」
病院で、親戚たちがそう言った。
また再び人生が終わりを迎えようとしている。
紛争地域や動物に比べれば天国のような人生だった。
人生の底辺を味わっている分、平凡なことも幸福に思える。
何も無いことが幸せであり、それが幸福と呼べる。
人間は死ぬときの感覚を知っているのだろうか。いや、死ぬと言うと私の思念が消えていないのだから死ぬという言葉は相応しくない。
消えるというのもまた違う。
私という思念を別の体に送り、もう一度人生を迎えさせるこれは……。
「思念送迎」
とでも名付けようか。
この人生の中で得たものはきっとこれだろう。
では、心と魂は別物かどうか。次の人生ではこれを命題に考えてみるとしよう――――――
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