第2話「感覚共有―とある患者の日常―」
殺風景な白い部屋に机と椅子が置かれ、ベッドが決められた位置にずっと変わらず佇んでいる。
私は机の上に広げられたノートに一通り目を通した。感情の起伏が激しいのか、文字は流動的なようにさえ感じるくらい歪だった。
椅子に座り、机へと向かってペンを手に、ノートの新しい頁に今日の想いを書き連ねていこうと思う。
人は生まれては死んでいく。色々な人達と出会いと別れを繰り返して、様々な経験を積んでは死んでいく。途中には楽しいことも辛いことも、最愛の者との出会いも待ち受けている。
私は独りだ。
殺風景な部屋の中、不変的な毎日の繰り返しをしていると、自分は同じ日を繰り返しているのではないかと思うことがある。
時間の間隔も日付の感覚も時々消失する。これはつまり、時間に縛られているのではなく、人間社会に縛られているということだろう。
中学生の頃に死というモノを考えたことがある。
心臓が止まる、脳が死ぬ、心が無くなる、体が無くなる、魂が無くなる。
死ぬという行為で自分の積み上げてきたものが無くなる。
死ぬという事はそういう事なのだと考えた。
辛いから死にたい、生きている意味が無い、学校も通う理由が見当たらない。
義務教育というものに縛られている感覚、強制的な環境がとてつもなく不快に感じ、中学二年生の終わりまで、私は学校に行くこともなく、だらだらと家の中で過ごしていた。
平気で遅刻をしては休み、親に嘘をついて家に居座った。
仕事に向かう親から「行きなさい」と言われても、一時を耐え凌げば、家には自分だけしか居なくなるのだから、ここは親が居なくなるのを待つことが最適解だ。
その後は、自分の自由に一日の大半を過ごせる。こんなにも自分に利益が返ってくる我慢比べも中々ないだろう。
ある日、(いや、そもそもずっと感じていたことだったように思うが、)生きている理由が無くなり、マンションのベランダから落ちてみようと思ったことがある。
ベランダへと足を踏み入れると、冷たい風が横から流れた。
左下に見える線路を電車が走り、真下の道路を挟んだ向かいに位置する焼き肉屋は、まだその扉を閉めていた。
鉄の手すりに手をかけて、腕を絡ませた。
ベランダの地べた、コンクリートに埋まっている部分から斜めに伸びる鉄の柱に足をかけ、半身を外へと乗り出した。
ベランダに出るだけとは違い、ベランダに並行して吹いてくる横風が、直接横顔に当たっては吹き抜けていく。
風は冷たく心地良かった。
死ぬ手前、何か手紙を残そうと思い、一度手すりから降りて部屋の中へと戻っていった。
半身を乗り出したことで、思ったよりも死という恐怖が脳と心臓に直接その衝撃を伝えていたらしく、落ちれば死ぬという恐怖が身体全身に伝わっていた。
子どもの落書きにしか見えないだろうが、謝罪文のような遺書をリビングに置いて再びベランダへと向かった。
両足を再び手すりの柱に乗せ、腰から上が完全にマンションの外へと飛び出した状態はとても怖かった。
落ちれば死ぬという恐怖。
痛いのか、すぐに死ねるのか。
死んだ後、救急車や警察が来るのだろうか。
哀れに飛び散った肉片を見て周囲の人は叫ぶだろうか。両親は悲しむだろうか。
様々な事が脳裏を過ぎる。
私はゆっくりと、間違えて身を乗り出してしまわないように部屋の中へと戻り、布団を頭まで被って丸くなった。
私が死ぬということを止めた一番の理由、「誰かの迷惑になる」という考え方。
死ねばどうなるか。遺体を回収して葬式をする、仏壇に添えられ、毎日誰かが拝みに来る。
新聞やニュースは飛び降り自殺などと囃し立てては、家族友人を攻めたてる。
自分一人の死がどれほど周りに迷惑をかけるのか、それを考えただけで怖くなった。
死ぬことすら誰かの迷惑になるというこの感覚、誰か分かってくれるだろうか。
生きていることも誰かの迷惑になるかもしれないのに、死ぬことで更に迷惑をかけてしまう。
この世界は、本当は死ぬことすら許されない状況だと気付いたのは、大人になってからだった。
飛び降りることを止めた理由はもう一つ。
死ねば「無になる」ということを直前で感じたためだった。
こうして考えている脳、手すりに手をかけた時の感触や震え、こうして苦しんでいる自分、悩む自分、今こうしているこの存在。この全てが無くなってしまう。
中学、まだ子どもといえども、考えることは辞めなかった。
もし、あの時に何も考えず楽になれるというだけの考え方をしていたなら、私は生きていないだろう。
死にたいという気持ちは当時中学生だった私からゆっくりと消え去っていった。
これまでまともに勉強をしてこなかった中学生最後の一年間、勉強もろくに出来なかった私を両親は心配し、家庭教師を雇い、週三回程の個人勉強をして辛うじて公立の高校へと合格することが出来た。
受かった時には私自身も大層喜んだが、これも親の力があってのことだと振り返り、自分一人では何も成しえなかったのだと知る。
そうして私は、独りで生きているのだという、愚かで身勝手な妄想をすることを辞めた。
死と生の境目を感じた時、無になるということがどれ程恐ろしいかを考えた。
自分の存在意義は利他的であるべきだと考えた。
自分という存在が今はこの世にまだ残っている。
体がある、心がある、考え方や価値観、感覚、器官、全ては唯一無二のものであり、二度と作り直すことは出来ない。しかし、死ねば消えるだけだ。
消えればどうなるか。周囲は悲しむだろう、泣くだろう。ましてや、自殺なんて質の悪い死に方をすれば、家族が一番非難されるだろう。
当の本人は死んで消えているのに、繋がりのある人たちの記憶から、死に至るまでの道筋が、勝手に報道陣や記者の手によって書き変えられていく。
そんなこと当たり前だろうと、誰かが言うかもしれない。考えなくても分かると言うかもしれない。
でも、自分で考えてみなければ、実際にやらなければ分からないこともある。
ベランダから外へと顔を出した時の横風の強さ、視界の左下にある線路を走る電車に、右下にある公園で遊ぶ子どもたち、甲高い音で悲鳴を上げるブランコ。
目に見えるもの、聞こえてくるもの、感触、五感が全て無くなるのだということ、考えたことがあるだろうか。
完全な体験は出来ないが、疑似体験なら出来る。
耳を塞いで周りを見る。
目を閉じて外の世界をどれ程歩けるのか検証する。
痺れた体の部分を触ってみる。
聞こえない見えない感じない、これだけでも試しにしてみると、恐怖に値することだと感じるだろう。
恐怖は身近に存在し過ぎているせいで、人間はそれを忘れてしまう。
幼い頃、私は紙パックを小さなカッターを使い、切って遊んでいた。
カッターが物に刺さるというよりは沈み込んでいく。
横にスライドさせれば切れるというよりは裂けていく。
カッターが紙と接した部分がどういう訳なのか、切り口を広げていく。
それは破いた時の汚い断面図などではなく、元々そうであったのではないかと思わせるほど綺麗な切り口になる。
唯一失敗したことは、小さい頃の私は手に持つそれがどれ程危険なものか分かっていなかったということ。
理解出来ていなかったと言った方が多分正しい。
遊んでいた私は紙パックを左手で押さえてカッターを当てた。
そうして遊んでいる最中、押しても引いても動かなくなってしまった。
抜こうとしても中々動いてくれない。
もやもやした気分に駆られて私は無理矢理、突き刺さってしまったそれを勢いよく引っこ抜いた。
サッと左手の甲が数センチ、刃物の通った跡がゆっくりと裂けていく。
ぱっくりと開いた左手の傷口を、私はまじまじと見つめていた。
溶岩のようなどろっとした液体、白い何かが「緊急事態だ」と言わんばかりに直ぐにその傷口へと大量の血を運んできた。
痛みは無かった。それよりも衝撃の方が勝ってしまうのが人間なのだろう。
カッターで自分を裂いたなんて中々あることではない。
大人になってもその記憶はきちんと引き出しの中に残っている。
私が今、カッターで何かを切る時に、何処まで深く入っているのか、どの角度で切り、どう動かせばスッと切れるのか、指先からその先へと感覚を引き延ばすことが出来るようになったのはこの時のお陰なのかもしれない。
感覚の共有、伝達、引き延ばし、人は指先から更に持った物へと感覚を延長させることが出来る。
そんなことは出来ないと言うのは、俗に言う不器用だから……なのかもしれない。
では器用と不器用の差、何故一人が出来てもう一人は出来ないのか。
確かに、世の中には人間が何十億人と居て、その中の一部が優れた才能で頂点へと登っていく。
底辺はそのまま地面を見つめては日々の生活に愚痴を零し、頂点への尊敬と畏怖、嫉妬を抱く。
「何故あいつだけ……」
「何故私だけ……」
「なんでこんなことに……」
「こんなはずじゃなかった……」
生きている限り、人はそれぞれ十人十色の生き方を歩いてきたはず。
全く同じ道など一つも無い。
目指したい場所、目標は一緒かもしれないが過程が必ず違う。
どの家で生まれ、どこで育ち、どうやって人生を歩いて来たのか。
色々な出来事を通して成長してきたその道程に完璧な一致など存在しない。
少し話がズレてしまったので本流に戻ろう。
私が中学生の頃、皮膚の病気を患い、あまり肌を露出したくなかったことがある。
夏場で暑かろうと、常に長袖を着ていた時期があった。
誰かに見られることが恥ずかしい、怖い、嫌われるかもしれない。
人と違うという恐怖は今でも継続して私の思考に影響し続けている。幼い頃のトラウマはそうそう消えるものではないということだ。
何故長袖を着ているのか。知らない人からすれば単純に気になることだ。まして小さい子どもなら、自分たちと違う服装をしている子どもが居れば気になってしまうのが性だ。
同じ組、同じ学年に一人でも居れば、それはどこかで必ずと言っていいほどに誰かがその話をする。
でも、それはただの表面上の噂で収まる話、本人からすればまだ安全圏なのだ。
一番知られたくないのは、その下に隠されている乾燥し、ひび割れ傷だらけの皮膚なのだから。
抗うことの出来ない痒みの衝動に、自分自身で傷付けては血を流した。
気にしないよ、大丈夫だよと、優しい言葉だけ聞こえてくれば、どれほど楽だっただろうか。
それは天国、理想郷だけの話であり、世間は冷たい。
人間は醜いものを見た時に本性が暴かれる。
私は誰かと話す時、よく相手を見ていた。人見知りなので一瞬しか見れないが、その一瞬でも大抵のことは読み取れる。
一瞬の顔の歪みから、何を思ったのか、そこまでなら大体想像がついてしまう。
誰でも相手の顔を見ていれば分かることだ。
分からない人は自分が好きで、自分のことを話したい欲求に駆られていることが多いと思われる。いや、私の自論は今回頭の隅に置いておこう。
普段、一欠片の関りさえない人々に「うわ」とか「ああ」と言われる感覚が分かるだろうか。
言葉に発さなくても、憐れみや蔑みの視線を感じるその辛苦の気持ちが分かるだろうか。
その短い言葉、行動に隠されているのは差別と偏見なのだ。
言葉に含まれた中身は「そんな体で可哀そう」「私なら無理だ」「自分じゃなくて良かった」、そういった内容が含まれるのだ。
「勝手な妄想だ」と「勝手に自分を卑下しているだけだろう」と言われるだろうし、そう言われ続けてきた。
大丈夫かどうかなんて、実際の相手の立場に立てない者には分からない。妄想や思い込みは一個人として真実になる。
宗教を信じる人間が居る。周囲がそれを信じていなくとも、それを個人が信じているのなら、その人間にとっては真実になる。
言葉が武器になるとはこういうこともまた含まれるのだろう。
言葉は争いも生めば金も生むし、平和もまた生むことが出来る。
武器は争いも金も平和も生むことが出来る。
さあ、戦争に使われる武器と言葉に何の違いがあるというのだろうか?
「死ね」という言葉の重みは、言った本人には言葉の意味を理解していないからなのか、いざ、自分が言われても思考できないためなのか軽くしか受け止めない。
なら、死を含む言葉にどれ程深い意味があるのか考えてみようか。
お前は今この場に要らない、生きている意味が無い、消えろ、存在が邪魔、居なくなればいい……。
「死ね」
漢字と平仮名のたった二文字、たったの二文字でこれほどまでに相手を傷つけることが出来る。
「死ね」という言葉は、高層ビルの屋上から突き落とす行為、銃口を相手に突き付ける行為、刃物を相手に突き刺す行為と同義だ。
相手を捲し立てる言葉は要らない。人間はたったの二文字で人間を殺せてしまう。簡潔に、分かりやすい言葉が相手に一番突き刺さるのだ。
相手を言い包めようとする人間が時々居る。
出来事の真相を自分視点で話し、結末まで自分を被害者にして相手の賛同を得ようとする。
自分一人では心細い、誰かを味方につけて自分の証言を伝えていれば、言われた相手にとってそれは事実となる。
信用してしまいやすい人間ほど、最初に聞いた話が真実と思ってしまう。
ライオンという動物を知らない人間が居たとして、猫のような生き物だと誰かが伝えれば、知らない人間からすれば名前の違う猫に似た生き物だと思ってしまう。
実際は猛獣なのにも関わらずだ。
言われた側からすれば、もしかすると猫と同じ感覚で「飼っている人が多そう」と思いこんでしまうかもしれない。
人間の言葉の刷り込みほど怖いものは無い。
加えて人間の勝手な想像は空想世界から現実に書き換えられてしまうことが多い。
被害者側の証言を聞いた後に、加害者側とする者の証言を聞いてみると、内容の不一致が起こることがよくある。
相手と同じ感覚を共有していないのだから当然と言えば当然のことだ。
自分にとってはこうであり、相手にとってはこうだという半ば決めつけのような前提条件を人間は根底に持ったまま話す。
自分は止まっていて相手が動いている、車で事故をした時の言い訳みたいだが、つまりはそういうことと同じ内容だ。
例え話をした方が分かりやすいかもしれない。
Aは店員で会計をしている。そこにBが会計をしに並んだ。
お金を払う際にAはお金を投げつけられたように感じたとしよう。
Bはお金を出す際に急いでいたため手元から滑ってしまったとする。
Aは態度の悪い客だと感じ、少し不愛想になる。
Bはやってしまったと感じるとともにAの接客態度に違和感を覚える。
言葉を交わさない限り、この二人の記憶は、相手の事を不快に感じる印象で終わってしまう。
それぞれの価値観が、感情が、感覚が、それぞれに不快な想いを与えてしまう。
感覚の共有が行われれば、AはBを理解し、BもまたAに対しての謝辞があったかもしれない。
もし、他者の……、例えば楽器を演奏する行為の感覚を共有することが出来れば、それを脳に記憶させ、素晴らしい演奏家を量産できるかもしれない。
電子媒体、DNAにその感覚を書き込められれば、欠点を見つけてより良い性能の演奏家を作り上げることが出来るかもしれない。
生活が孤独な人間が居たとして、孤独の感覚共有を行えば、それはもう孤独ではなくなる上に、他者理解度を上げることが出来る。
他人を理解することは現代の、心の貧しい国では必要な措置かもしれない。
他者を理解し、自分を理解する。存在というものを自覚し認識し、周囲との調和を図ることが出来れば、一人の人間による心の暴走、感情の衝動を抑制させることが出来るかもしれない。
電子的感覚共有は世界に平和をもたらしてくれるだろう。
「…………よし、ここまででいいだろう」
そろそろいつもの時間になる。
私はノートに書いたこの文章の部分だけを引きちぎりポケットの中へと忍ばせた。
引きこもりの私に会いに来てくれるのは先生だけであり、私が話したいと思うのもまた先生しか居なかった。
人間と関わることが煩わしくなり、仕事を辞めてからは人見知りに拍車がかかっていったように感じる。
誰も信じられない。
誰にも心を明かしたくない。
すれ違う人間、視線をこちらへと向ける人間、相手の気持ちを理解できるようになってからというもの、もう人間を相手に話すことが嫌になってしまった。
こちらの言葉を相手がどう理解しどう感じるのかまで解ってしまうと、人間とは一生仲良く出来ないと確定してしまったから。
相互理解し合える人間など存在しない。
相手を一人と認められる者は人間ではなく人なのだから。
情緒が不安定な人間と話すことほど精神を削る作業は中々ない。
先生は人間ではなく、私が人だと認めた者だ。
先生の表情、言動は読めない。ある程度の事は推測できても、私の考える角度とは違う角度から正解を導き出してくれる。
考え方の幅を広げてくれる人だ。今日もまた感覚的な話から心の機微、様々なことを話してもらえるだろうか。
部屋の明かりを消して、私はデスクトップパソコンから伸びるケーブルへと手を伸ばした。手首に付けられた電子制御端子にケーブルの先を突き刺す。
この世界で引きこもりの私が家を出ないまま先生に会える。この電子制御装置を生み出した人には感謝しなければならない。
時間を告げるアラーム音が頭の中に聞こえ、私は首筋にあるスイッチを押した。視界の切り替えと同時に、私は誰も居ないカフェの椅子に腰かけ、先生を待つことにした。
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