第4話
ちくしょう。自分の馬鹿。
彩度を落とし秋から冬に変わりつつある山を、詩織はロードバイクで駆け上がる。
頭にあるのは、後悔。言葉が足りず、勘違いさせてしまったのではないかと悔やんでしまう。
――好きでいてもいいですか?
又一新に訊ねたその一言は、まるで彼を好きになる許可を求めたようなものだ。彼の解釈次第では、その返事の「もちろん」の意味が異なる。
いつか派手に転んだ坂道。彼に助けられたあのポイントを越え、いつも折り返す地点では物足りず、苦しいのにその先までロードバイクで上る。
やがて見えてきたのは、工芸体験施設「日野の里」。彼が陶芸工房を構える場所だ。
詩織はロードバイクごと「日野の里」の敷地に入ってしまった。咽が渇いた。確か、売店の前に自動販売機があったはず。
自動販売機の前に男性の姿を認め、ばくばくと脈打つ心臓が、破裂せんばかりに跳ねた。
ぬーちゃんでいいよ。そう言われたものの、一度も呼べたことはない。それに、今この状況で彼に声をかけることは、怖くてとてもできない。
「やり直そうって、言ってるじゃん! うちら、もう35なんだよ。これが最後のチャンスなんだよ。私はこの先の人生、『ぬー』と一緒にいたい」
切実に訴える女性と裏腹に、彼は腕を組んで眉をひそめる。
「きみは結婚したんだろう」
「そうよ。結婚したよ。でも、離婚する。旦那より、ぬーの方が大切だから」
「あいにく、俺はきみと添い遂げる気も、きみを大切にする気も、無い」
彼はまばたきをして、女性の向こうの詩織に気づいた。ばつが悪そうに、一度下を向き、また女性に向き直る。
「別れるときに、お前言ったよな。商社マンだったのに30歳目前になって陶芸なんて格好悪いことを、って」
「陶芸なんかで儲かるとは思ってなかったし」
「儲かってない。好きだから頑張りたいだけ」
それに、と続ける。
「陶芸を格好良いと言ってくれた子がいた。その子は好きなことを頑張れずに苦しんでいた。俺は、その子のことを好きになりたい」
酷い、と女性は声を荒げた。
「今日は時間がないからここまでにしといてあげるけど、また話し合いに来るからね!」
女性は踵を返して彼に背を向ける。詩織とすれ違ったが、見向きもされなかった。
山から冷たい風が吹く。汗が引き、詩織は急に寒さを感じた。
彼は詩織に歩み寄り、苦笑する。
「見苦しいところを見せてしまったね」
詩織は慌てて首を横に振り、否定した。
「今日も乗ってるんだね」
「はい。休日なので」
「ちょっと待って。渡したいものがあるんだ」
彼は工房の方に行ってしまう。詩織はその間にヘルメットを外し、自動販売機でホットティーを買い、かじかむ手を温めた。
「お待たせ。ポケットには……入らないか」
彼が両手で持ってきたのは、陶器の器だった。薄手で広口のマグカップだが、緩衝材で外を覆っても、ウエアのポケットに入る大きさではない。
「頂けません! 陶芸って、お高いですよね」
「この前、一緒にライドしてくれたお礼だよ。遅めの誕生日プレゼント。倒れてしまわないように、ちゃんと栄養補給して、ね」
マグカップと一緒に手渡されるのは、個包装のフルーツグラノーラ。
「俺も、好きなことを頑張るから」
大きな手に頭を撫でられ、目の前で微笑まれ、詩織は固まってしまった。
転んだ、どころではない。ガードレールを突き破って転落した気分だ。
ウエアのポケットには、飲みかけのペットボトルとフルーツグラノーラ。
マグカップは夕方に彼がアパートまで持ってきてくれることになった。それまでに、やりたいことがたくさんある。
牛乳かヨーグルトを買いに行かなくては。部屋の掃除も、洗濯物の片づけも。お洒落な服があったかな。肌が荒れているけど、化粧したらどうにかなるかな。
――陶芸を格好良いと言ってくれた子がいた。その子は好きなことを頑張れずに苦しんでいた。俺は、その子のことを好きになりたい。
――俺も、好きなことを頑張るから。
彼のあの言葉は、どういう意味なのだろう。
猛スピードで坂道を上りながら、冷たい鼻先を風にさらし、詩織は責任転嫁する。
ちくしょう。ぬーちゃんの馬鹿。
一旦逃げればいいのに、逃げないで立ち向かおうとして、事柄を困難にしてしまう。
坂バカ女子に
心の中で毒づいても、好きなことを頑張りたいから。
【「坂バカ女子に
坂バカ女子に困難《のぼりざか》は、つきものです! 紺藤 香純 @21109123
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