坂バカ女子に困難《のぼりざか》は、つきものです!
紺藤 香純
第1話
チェーンの外れる感覚は、失恋に似ていた。
こんなときに限って、あの男のあの言葉が脳裏をよぎる。
――俺、好きじゃなくなったんだ。詩織も、ロードバイクも。
雨上がりの上り坂。アスファルトに貼りついた落ち葉にタイヤをとられ、詩織はロードバイクごと転倒した。
秋深まるこの時分、連なる山々は赤や黄色に美しく粧(よそお)う。そんな紅葉が、今の詩織には腹立たしい。
ちくしょう。なんで、こんな日に。
詩織は心の中で毒づき、ヘルメットを外した。
奇しくも今日は、詩織の二十九歳の誕生日だ。朝のルーティンワークで、出勤前にロードバイクで山道を一時間ほど走る。今日は夜勤で十六時から業務の予定だから帰宅したらひと眠りしよう、なんて浮かれていたのが馬鹿だった。
道路の端に移動しようとしたが、足に痛みが走って立つことができない。
車なんてほとんど通らない田舎道だが、たまに通過する車は、自転車なんかお構いなしにスピードを上げて追い越してゆく。今そんな車に出くわしたら、倒れたロードバイクごと撥ね飛ばされてしまう。そんなことを考えていたら、車のエンジン音が耳に入った。坂を上ってこちらに近づいている。
車のハザードランプが点灯し、詩織の手前で止まった。運転席から人が下りてくる。
「大丈夫ですか?」
颯爽と運転席から下りてきたのは、いくらか年上に見える男性だった。イケメンだが軽さはない、古風な顔立ち。ダークグレーのセーターに黒色のジーンズというカジュアルな服装。こんな状況なのに、詩織は男性をまじまじと見つめてしまった。
「すみません」
詩織は顔をそむけ、立ち上がろうと試みる。
男性は詩織に歩み寄り、濡れた落ち葉に膝をついた。
「怪我していますよね」
男性に言われて、詩織は気づいた。ひりひり痛む足にまとわりつくウエアには、血がべっとり貼りついている。
男性に肩を貸してもらい、詩織はやっと立ち上がる。男性は背が高く体が大きい。肩の高さが合わず、詩織は申し訳なく思った。
「乗って。病院で見てもらった方が良い」
「平気です。平気です。本当に」
断ったものの、とっさのことで上手い言い回しが思いつかず、詩織は車の助手席に乗せられ、シートベルトも締められてしまった。
男性は後部座席のシートを倒し、詩織のロードバイクを慣れたように車に積む。
誘拐。そんなフレーズが頭に浮かんだ。
男性は、よく通る声でどこかに電話をかける。スピーカーモードになっていたスマートフォンの電話の向こうから、市内の病院の名と医療現場のような騒音が、詩織にも聞こえた。
市内の病院で、救急外来のレントゲンも怪我の処置も早くに終わり、診察も時間がかからなかった。
あの男性は、救急外来のロビーで待ってくれていた。
「大丈夫だった?」
「はい。擦り傷が大きいけど、骨は折れていないそうです。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
「とんでもない。俺もあんな転び方をしたことがあったから、きみを放っておけなかった」
男性は名刺を取り出した。
「申し遅れました。自分は、こういう者です」
詩織は名刺を受け取る。
『又一 新
工芸体験施設 日野の里
陶芸工房管理者』
「マタイチ、シンさん? アラタさん?」
「マタイチアラタといいます」
「陶芸家さんなんですね」
「はい。端くれですが」
男性は照れくさそうに笑う。
「日野の里」は、市内の山奥にある工芸体験施設だ。詩織がロードバイクごと転んだあの道を、もっと上った場所にあると記憶している。記憶しているだけで、実際に訪ねたことはない。詩織はいつもその手前で折り返しているから。
「格好良いなあ、陶芸家さん」
思わず感心してしまい、詩織は気づいた。
格好良い陶芸家の目の前で、自分は女を捨てている。
髪はヘルメットをかぶったときに邪魔にならない程度のボブカット。汗で化粧が流れるのが嫌だから、あえてのノーメイク。洒落っ気のないウエア。
最悪だ。詩織は自分に絶望した。自分はこんなだから、きっと一方的に嫌われてしまう。
結局、詩織は自宅アパートまで送ってもらい、ロードバイクの外れたチェーンも直してもらった。
翌日の午前中に介護施設の夜勤業務を終え、帰宅して入浴と昼寝。夕方に一時間ロードバイクで走ってきた。
お詫びしなくちゃ。
ふと思いついたのは、就寝の直前だった。
又一新。本名なのか陶芸家としてのペンネームみたいなものか、わからない。でも、格好良いと思ってしまった。雰囲気とか、佇まいが。
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