第2話
アスファルトで舗装された道路が、秋深い山に向かって伸びてゆく。
信号機もない田舎道。いつもロードバイクで駆け上がる坂道を、今日は自家用車で走る。
山道を車で走ること三十分。古民家風の建物が見えてきた。工芸体験施設「日野の里」だ。詩織は駐車場に車を駐めた。
アパートを出るときは晴れていたのに、いつの間にか空は薄雲におおわれていた。
思った以上に肌寒く、ノーカラージャケットをかき合わせてしまった。久々に、ボルドーカラーの綺麗めブラウスとブラックのストレートパンツを着用した。
先程買ったばかりの菓子折を持ち、閑散とした「日野の里」の敷地に入る。一番手前の建物には「事務所」と書かれた木の看板がかけられていた。
引き戸を開け、失礼します、と中に入ると、灯油ストーブのにおいと温もりに包まれた。
又一新さんはいらっしゃいますか、と事務所の人に訊ねると、陶芸工房にいるよ、と教えてくれた。
事務所を出る直前、会話が聞こえた。
「綺麗な子だけど、営業の子かな」
「又一さんの彼女じゃないですか?」
「ぬーちゃん、今は彼女なしって言ってたよ」
陶芸工房は、事務所の斜め前にあった。
「陶芸工房 ヌーちゃん」と横書きに書かれた木の看板が入り口にかけられている。「又一」という字は片仮名の「ヌー」に見えなくもない。
引き戸のガラス越しに、工房の中が見えた。
あの彼が、ろくろを回している。ただの塊だった粘土は繊細な手つきに因り、みるみるうちに鶴首の花瓶へと変化する。粘土を見つめる真剣な眼差しに、詩織が釘づけになってしまった。
どれくらいの時間、作陶を見つめていたのか、わからない。いきなり引き戸を開けられ、詩織は我に返った。思わず数歩下がり、とっさに言葉が出ず、反射的に頭を下げる。
「あのときの子だよね。怪我はもういいの?」
「いいえ! あ、はい!」
子、と言われたことに否定し、怪我に対しては肯定した。
「あのときは、ありがとうございました!」
「急に車に乗せてしまったから、怖がらせてしまったと思ったんだけど」
「そんなこと、ないです。これ、気持ちです」
菓子折を紙袋から出し、彼に差し出す。
「和菓子です。お煎餅も羊羹もあります。何がお好きなのか、わからなかったので、とりあえず詰め合わせを」
男の人は菓子類が苦手、というのが詩織の認識だ。あの男がそうだったから。まるで自分が男の筆頭であるかのように、あの男は熱弁を振るった。
――男というものは、総じて菓子が苦手なものなんだよ。普通、子どもでも知ってるよ。
思い出したくないあの男の、言葉が脳裏をよぎる。
嫌だな。もう空回りしたくない。
詩織は目を伏せた。菓子折を持つ手が引かれ、思わず顔を上げる。
「ありがとう。俺、お菓子大好きなんだ」
急に目頭が熱くなる。それでも、涙はこらえる。
――泣くなんてものは、女を売りにする最低な行為だよ。
あの男の言葉が頭から離れない。もう半年も、あの男の言葉にとらわれている。
「ちょっと待って。その辺の椅子でも使って」
彼は工房を出て、すぐに戻ってくる。手に持っているのは、ペットボトルのほうじ茶だ。敷地内に自動販売機があったから、そこで買ったのだろう。
「どうぞ」
ペットボトルを差し出され、詩織は受け取る。温かいお茶なんてしばらく飲んでいない。最後に飲んだのは、半年前だった。ペットボトルに口はつけず、両手を温める。
彼は椅子を引き、詩織の近くに座った。
「実は、何度かきみの姿を見かけたことがあるんだ」
彼のよく通る声が、静かな工房に響く。
「思いつめたようにライドしているから、何かあったのかと思った」
一昨日坂道で転んだあの時間帯は、いつも詩織がロードバイクで坂道を駆け上がる時間だ。彼の出勤時間と重なるのだろう。
「本当に、怪我は平気なのか」
「はい。平気です。今朝も乗ってきました。別のルートですけど」
「もう乗ったの? 復活が早いな」
「それだけが私の取り柄ですから」
軽やかに言葉がはずむ。それだけのことなのに、気づいたら口元が綻んでいる。
「でも、怪我には本当に気をつけて。俺は肩の骨を折ってボルトで固定しているから。ヒルクライムの前日に乗って骨折して、肝心なヒルクライムは欠場。あれは、まずかった」
「レースの前は乗っちゃ駄目だって言われません?」
「言われる。めちゃくちゃ言われた」
彼は自分の失敗を楽しそうに語る。詩織もつられて笑ってしまう。
「やっぱり、又一さんもロードバイクをなさるんですね」
「やるよ。タイムは出ないし、タイヤはパンクするし、苦しいのはわかっているのに、乗りたくなっちゃう。俺は、根っからの坂バカみたいなんだ」
彼は気さくに笑う。この人は本当にロードバイクが好きなんだな、と詩織は思った。
「すみません、そろそろおいとまします。お茶、頂きますね」
お邪魔しました、と言おうとして振り返ると、彼と目が合った。顔を伺わず頭を下げ、工房を出た。
車に乗り、咽が渇いていたことを思い出し、ペットボトルを開栓する。
一昨日のお詫びをしに訪ねただけなのに、少しだけ会話をして楽しんだ気になってしまった。相手の気も知らずにひとりで勝手に盛り上がって、相手に嫌われる行動をしてしまう。半年前だって、そうだった。
「坂バカ」を自称する彼の笑顔を思い出し、彼のためにも自分は関わらないようにしようと、詩織は固く誓った。
誓ったのに。
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