第3話

 山の裾野が青く映える秋空の下、視界が開けたサイクリングロードを、詩織はロードバイクで駆ける。

 少し先で待たせている人に追いつき、肩で息をする。

「すみません、又一さんと全然合わせられなくて」

「詩織ちゃんは充分速いよ。俺、何秒も待っていないんだ。もう少し先で休憩しようか。おすすめのパン屋さんがあるんだ」

 それと、と若干言い淀む。

「ぬーちゃん、で、いいよ。俺の苗字、響きが綺麗じゃないっしょ」

 スタートした彼の背中を目で追い、詩織はペダルを踏み込み、心の中で毒づく。

 ちくしょう、なぜこうなった。



 チェーンが外れたばかりなのに、今度はタイヤが割れた。本を見ながら修理しても空気が漏れてしまう。頼りにしていた自転車屋は、電話がつながらない。

 駄目もとで、名刺に書かれていた又一新の番号に電話をかけてアドバイスをもらおうとしたら、彼がアパートまで来てタイヤを見てくれた。

 それがきっかけで、ライドの約束をしてしまったのだ。



 500メートルも走らないうちに、例のパン屋はあった。

 とっくに稲作が終わった寂しい田んぼの真ん中に、カントリー調の建物がこぢんまりと佇んでいる。平日だが昼時ということもあり、駐車場も店内も混雑していた。スーツ姿の男性も多数いる。コンビニ感覚でパンやサンドイッチを買うのかもしれない。

 詩織は店に入る勇気がない。ライドの格好だもの。

「買ってこようか? 何がいい?」

 彼が助け船を出してくれた。断ろうと思ったが、それも失礼なので、お任せする。

 店の外でロードバイクの見張りをしつつ、雲ひとつない空を眺める。鼻先は冷たく、頬は熱い。咽が渇いていた。スタートから水分補給をしていない。

「お待たせ。サンドイッチと、塩パンと、あんパン。どれがいい?」

「すみません。じゃあ、塩パンで」

「紅茶もどうぞ」

「ありがとうございます」

 詩織は、パンの包みと紙パックの紅茶を受け取った。

 屋外で立ったままのランチタイムが始まる。

 ライドの途中で飲食をするのは、初めてだ。

「ごめんな。何が好きかも聞かずに買ってしまって」

「平気です。何でも食べられますから」

 彼に倣い、詩織はパンの包みを開ける。塩の匂いが鼻をくすぐる。

 嗅覚は記憶を呼び起こすものだよ、と言ったのは、あの男だったか。今日のライドの最中は忘れていた記憶が、よみがえる。

「何か変だった?」

 訊かれ、詩織は、いいえと否定した。だが、食べられない。塩の良い匂いが胃袋を刺激するのに、脳が食事を拒否している。

「ライドの途中で食べるの、初めてなんです」

「いつも食べていないの? そういえば、途中で休憩入れなかったけど、水分補給もしていないんじゃないのか」

「平気です」

 心配してくれるのか信じられないのか、早口になる彼を遮り、心配ない旨伝えるつもりでいた。

「いつも、こんな感じですから」

 休憩なし。飲食なし。それが、詩織にとってのロードバイクなのだ。

「俺は無理だな。こんな図体をしているけど、すぐにハンガーノックを起こしてまうし、熱中症にもなりやすいし」

 それから彼は言葉を閉ざし、あんパンを綺麗に食べる。包みは丁寧に畳んで小さく結んだ。

「なぜロードバイクをやろうと思ったの?」

 詩織は塩パンを見つめたまま答える。

「以前つき合っていた男の人に誘われたんです」



 同い年のあの男と出会ったのは、街コンのビュッフェパーティーだった。

 ――ロードバイク始めたんだ。一緒にやろうよ。

 初対面で目を輝かせて言われ、断れなかった。それまで詩織は恋愛経験がなく、生まれて初めての交際になるかもしれない、と浮かれてしまった節があった。

 詩織は介護系の大学で介護福祉士の資格を取得し、ずっと介護職として働いていた。収入も貯蓄も、同年代の中で一番少ないと自負している。

 お金がない、と伝えても、そんなに散財しているのか、と怒られ、定期預金を解約し、ロードバイクを購入した。

 ただでさえ少ない貯蓄が減ってしまったのは痛手だが、詩織はロードバイクの魅力に取り憑かれてしまった。

 ランニングよりスピードを出して走ることができる。坂を登り切ると達成感がある。そして、そこから眺める風景が美しい。

 ライドは、あの男とだけ行った。あの男は、詩織がひとりで走るのも現地で他の人と話すのも嫌がった。ヒルクライムは、論外。知らない人と話す可能性があるから。

 極めつけは、飲食も渋ることだった。

 ――人が食事する姿が嫌いなんだよね。絶対に俺のいないところでも飲み食いしないでよ。詩織の冷蔵庫、中身を片づけておくね。

 あの男は、悪く言えば、我が儘。良く言えば、自由気ままだった。悪口を言われても、きらきら輝く目を見てしまったら、他意は無いのだと納得させられてしまった。

 自分はあの男と結婚するのだろうな、と詩織は漠然と考えていた。あの男が転勤の話を持ち出すまでは。

 プロポーズされるのだと思い込んでいた。しかし、あの男の口から出たのは、思いもよらない言葉だった。

 ――俺、好きじゃなくなったんだ。詩織も、ロードバイクも。詩織の態度のせいで嫌いになったんだよ。責任とってよ。

 そう言うものの、明確な別れ話にはならなかった。遠回しに別れたい雰囲気は出すが、あの男は自分から別れを切り出さず、詩織の欠点を蕩々と語る。詩織に言質を取らせてたかったらしい。話を中断することも後日に再開することも許されず、2時間ぶっ続けで欠点を聞かされ、詩織は我慢の限界だった。

 詩織が、別れようと言うと、あの男はあっさり引き下がった。お前が別れようって言ったんだからな、と吐き捨てて。

 あの男と別れた後も、詩織はひとりでロードバイクを続けた。普段の食事は最低限のプロテインのみ。歯を劣化させないために、あたりめとガムをたまに噛む。

 もうあの男とは関わらないのだから、そこまでやることはないのに、呪いのようにやめられない。

 ロードバイクで坂を上りまくり、あの男を思い出すたびに、自分に毒づく。

 ちくしょう、と。



「空回りして、嫌われて、失敗している。自分が、訳わかんないです」

 冬の足音が近づく空はどこまでも青く澄んでいる。

「それなのに、こんな気持ち良い空気の中を走りたくて、うずうずする自分がいるんです」

 彼は、紙パックの牛乳をすすりながら詩織の話に耳を傾ける。牛乳を飲み終えると、紙パックを小さく畳んだ。

「俺は好きだけどな」

 遠くの空に、一羽の鳥が小さく見えた。

「美味しそうに飲み食いする様子も、挑戦する姿も、初対面の人と楽しそうに会話を交わすところも、こんなに気持ち良い空気の中をライドすることも、頑張ることも」

 にわかに彼の手が伸ばされる。その手が、詩織の頭を優しく撫でる。

「普通って、案外わからないものだよ」

 雲ひとつない空を、名も知らぬ鳥が滑空する。刈り取られた寂しい田んぼに降り立った鳥は、くちばしで土をつつく。食べ物を探すかのように。

 詩織は塩パンの包みを開け、パリッとした端っこにかじりついた。塩とバターの味が、じわりと舌に染み込む。焦りながら、時間をかけずに塩パンを咀嚼する。彼の顔を見られなかった。何かしないと間が持たないと思った。頭を撫でられた瞬間から、心臓が早鐘を打って止まらなかった。

「ごちそうさまです。行けます」

 ちらりと彼を見上げる。彼は、目を細めて微笑んだ。

「じゃあ、出発しようか。ここから折り返して帰るからな」

「はい!」

 詩織もつられて、にやけてしまった。

 ヘルメットをかぶり直し、ロードバイクにまたがる。ペダルを踏み込むと、軽い車体はぐんと前に進んだ。澄んだ空気の中を滑るように駆け抜ける。鼻先が冷たい。しかし、血が騒ぐように体が熱い。前のめりになって、このままどこまでも行ける気がした。

 彼の後について走りながらおぼえた感覚は、高揚感。苦しいのに、苦しさが悪くない。

 低空飛行する鳥を追い越し、詩織はハンドルに力を入れる。

 今、楽しんでいる。頑張っている。この瞬間が好きだ。でも、自分には、ロードバイクを好きでいる資格があるのだろうか。

 青く映える山の尾根も、寂しい田んぼも、澄んだ空も、美しく感じられた。

 ライドが終わるのが惜しいのに、その時機は容赦なくやってくる。

 彼は詩織の自宅アパートまで送ってくれた。

「今日はありがとう。俺の我が儘につき合ってくれて」

「こちらこそ、ありがとうございました。下らない話も聞いてくれて」

 ヘルメットをかぶったまま、ぺこりと頭を下げる。ぽんぽんと肩を叩かれ、労ってもらった気がした。

「あの」

 今なら言える。

「好きでいてもいいですか?」

 ロードバイクを好きでいてもいいですか。

 彼はしばし目を見開いて固まり、やがて目を細めて微笑んだ。

「もちろん」

 それだけのことなのに、また、あのときのように気持ちがあふれそうだった。

 紙パックの紅茶は、ウエアのポケットに入れたままだった。ライド後の水分補給に紅茶を口にする。また塩パンが食べたいと思った。

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