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その女を店から呼んで、待たされることはなかった。客がそれほどつかぬらしかった。媚びはしない。それを私は気に入った。心を失うためにする悪行だから。
細い首から、痛ましいほど薄い胸元にかけて、儚げに白いのも二人は同じだった。その肌の上に、銀色の花の透明な光が咲く。汗の粒が浮かび、すっと夜の空に星が降るように流れはじめ、白い肌へほのかにあかみが差す。森深い湖の波のゆるやかさで、肌は染まり、しずまる。
音の少ないホテルの一室に、タイマーの電子音が鋭く鳴り響く。事務的な手つきで、荷物を鞄に詰める。
時間が余れば、沈黙を埋めるために言葉を発するのは、主に私のほうであった。女は言葉少なに答えた。一度、無理に居る必要はない、店に戻って良いと勧めたが、きまりですからと微笑むだけであった。
本日もありがとうございました――場に相応しくないような清潔な礼を、部屋をあとにする時、女はきまってするのだった。言葉通りの謝意よりは、定型に切り詰められた行為の潔癖的な拒絶、この場この時間を消し去る祈祷の趣きがあった。だから彼女の万事における丁寧な作法は、徹底するほど、冷え冷えと侘しかった。
見る者が見れば、一目でそれとわかる気配が、彼女にももはやあった。仕事は長いのだろうと察せられた。その鋭い足取りが夜の街明かりの下を抜けてゆく、痩せた背をホテルの一室のなかで幻視する。影が歩むように人々をすりぬけてゆく。歩みが澄むほどに危うくなり、地に落ちたまま均衡を保ち風が吹けば崩れてしまう一本の細い氷柱に、姿が似通う。衰えた男たちだけが振り返る。
息を殺して歩くその骨ばった脚に、筋肉がなく弛緩した、ほっそりとやわらかな脚が重なる。
甘えられるならなんでも喜んだ女だが、眠りの途中で目が覚めてしまったとき、ひとり起きていた私に飲み物を頼むのがなにより好きらしかった。目もつむったままの女の頭を腕に抱えて少し起こし、口元にコップを傾ける。唇を少し開いて、少しずつ少しずつ、喉を鳴らす顔つきが母乳を吸う赤子を想い起こさせもした。飲み終えるとやわらかく笑みを広げ、再び寝入るまで横に寝ていてほしいとせがんだ。常に不眠の私もその時は女の温かい寝息がそばに聞こえはじめるころに眠れるのだった。
女は、甘えられるだけ甘えたあと、ふと泣き出したりもした。
自分でも気づいていないかのような、おだやかな涙だった。理由を聞いたことはなかった。私は流れる美しい涙を眺めながら、好きなだけ甘えさせるに任せた。
店の女は、ホテルの部屋の強すぎる明かりの下で、抱かれながら首飾りを外さない。シャワーを浴びる時にだけ、外した。
そして女は、眠る時には必ず外した。しょっちゅう見失っては慌てふためきながら部屋中を探し回っていた。
交わりの時には必ず着けた。私の手に着けられたがった。
*
妊娠したという電話を受けてから、月日が巡った。想わぬようにしようとつとめながらも構えていた時期に、産まれたという報告のメールが届いた。
無事に産まれましたという一文と、白い布に包まれた新生児の写真。
二月七日。
産まれた日付は、いつのまにか心に残った。
五度、日付が巡った。
二月七日はきまって、何度も日付を確かめた。二月七日という日が存在することを確認したかった。
胸の内でさえ、祝福して許されるはずはなかった。一年を経るたび、児は私のなかで育った。私はただ、男とも女ともしれぬ、どちらともとれる縹渺とした顔を眺めるほかなかった。胸には首飾りが光る。歩きはじめるのは早く、言葉を覚えるのは遅かった。
*
六度目の二月七日を迎える、ひと月と少し前に、女は首を吊って自死した。
女の古い友人から連絡があった。
古いとはいっても遠地に住んでいて、知り合った頃から格別深い関係でもなくなにかの間違いのようにたまたま縁が先まで続いた女で、それだから気兼ねも薄いのか、稀に思い出したように電話をしては近況を話す仲だった。彼女の唯一と言って良い友人であった。
自死のことも、少し前に、するかもしれないからその時は処理を頼む、身内の誰にも葬られたくはないし向こうも拒むだろうからと、葬儀費用にいくらか上乗せした額の金を預けておいたようだ。私を葬儀に呼ぶことも、女は頼んでいたらしい。
直葬で、滞りなく済んだ。私と女の友人の二人きりだった。
死顔は見なかった。
別れると決めた時から、いつかこうなるとは心のどこかで知っていた。それよりさきに私が身を捨てるから赦してほしいと、虫の好いことを幾度もひとりごちてきた。そして遂に、女がさきに死んだ。
町中にある火葬場で、知らなければそうと分からぬ外観だった。老人ホームか少年院にでも見えた。
中規模の無機質な箱で、洋式には違いないが印象で言えばそこにはいかなる様式もない、機能だけがある。ささやかな飾り立ては、むしろ飾り立てないための作為であり、それによって合理的に設計された建造物の不気味な美しささえ匂わず、ただ空虚だった。煙突はないから、煙も昇っているはずはない。冬の晴れ空が遠く冴えていた。
火葬場を出て、ひっそりとした箱を振り返り、女の体はなまなましく焼かれたのではなく、廃品のようにベルトコンベアに乗って運ばれ、機械的に分解されたという錯覚をさえ抱きたくなった。我に返り、こういう甘い赦しを死者のかわりに与えるための空虚さかと気付かされた。
一緒に死ぬのでは駄目だったのか。
女にも何度もぶつけられた言葉が、自身のものとなって過った。女の、私の、二つの声で。
すぐに行く、赦してほしい。
短く、そう洩らすことしか、もはやできなかった。
*
帰り際、女の友人に呼び止められ、思い出したように花の首飾りを手渡された。
女が、首を吊る時にも、着けていたらしい。
しかし、これは生まれた子どもに与えられたはずだ。
友人に聞くと、女には子なぞいないということだった。そんなことは一言も言わなかったし、家に形跡もない。これまで交わした連絡にも、孕み、産んだ気配は微塵もなかった、と。
女から送られてきた、赤子の写真を彼女に見せると、これは私の子の写真だ、女に何年も前に送ったものだ、と息をのんだ。
帰路を歩いた。
低い住宅が並ぶ、人も車もまばらな道をゆく足は知らず知らず早まった。もはや帰路ではなかった、どちらを向き、どこへ歩くのか、自分にもわからなかった。ただ淡々と、足を動かす。風景が移ろう。家々が視界から背後へと消え去り、日の光に白っぽく明るむ小さな交差点をいくつも越えていく。
目の奥に纏わりつく靄のような、児の顔が浮かぶ。
私のなかで育ち、もうすぐ六歳になる、男でも女でもない児の顔。女は、子を産まなかった。ならばこの児はなんだろう。どこからきてどこへゆくのだろう。
二月七日とは、どのような日付だろう。
ポケットに突き入れた掌のなかにある首飾りを、持て余した。
児の幼い首にも、まだ少し似合わないながら、銀の花の光がある。
女は、子を産み首飾りを与えると、かたった。
それは、誰をどのように、呪おうとしたのだったか。
そういえば、と私は児を前にして、不意に横断歩道の途中に立ち停まった。児の顔を眺める。いまだかつて、笑いも泣きも、したことがない。
*
女の死後、同じ首飾りを持つ女を呼ぶ頻度は増えた。
むこうも、厳しい精神の潔癖は固辞しつつ、それでも馴れが生じてはいた。
ある日、彼女ひとりシャワーを浴びて、私はベッドに横になっていた。
ふとサイドテーブルに置かれた花の首飾りに心が留まった。
掌に置いてみる。
こうも近くで、よく見るのは、初めてのことだった。
それは、私が女に贈った花のかたちではなく、雪の結晶を模していた。
形見 しゃくさんしん @tanibayashi
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