形見
しゃくさんしん
⚪︎
きつく張ったシーツの上、仰向けで白色の天井を眺める。
ホテルの外に去来する騒々しさを薄らと聞きながら、夜の街の中空に浮かぶ小さな箱に身を置いているような乾いた虚しさを覚える。
生活の匂いの一切が排除され、機能的であるばかりの狭い空間。静けさの底に響くノックの音を、いつの間にか耳をそばだてて待っている。
使う前に寝転がっているのも無神経かと、ベッドから体を起こそうとし、やめた。金で買う肉体を前に、無神経もなにもない。論理でそのように考えたというよりも、心遣いを演じることで演技のほうに心が引きずられるのを怖れた。
ノックが聞こえた。
待ち呆ける心に鳴った音かとも疑った。
*
女と別れてからはじめた買春の習慣で、その以前からの癖ではなかった。
性の見境もなかった。一人で幸福になってはいけないと思った。
気儘に破れかぶれに転げまわり、ふと息つく間に死のうとする危うさを、女は抱えていた。死をひと思いに求めることさえできないようだった。
一緒に死んでやると言ったのは、そうでも言わぬと生きてくれないと知っていたからだった。言葉は偽りで、心は真実だと、私はのんきに考えていた。
しかし女には裏切りに見えたらしかった。もとより言葉も心も彼女にはないのだから。言葉は心で、心は言葉の、直線的で透明な魂だった。私はそれに惚れ込んだのでもあった。
死ぬと容易く口走るわりに、生物の死には耐えられなかった。スーパーの明るい白光の下に陳列された鮮魚の、生気を失った黒く深い眼が視界にちらと入るだけで胸までさあっと蒼ざめた。
しかし刺身になると好んで食べた。
「ばらばらになった体は、体じゃない、きたなくない」
気まぐれに花を欲しがることがあった。
女の母親が、母親らしく見えたのは、玄関の花瓶に挿す花を取りかえる時だけだったという。
しかし花も、枯れ、散る。
自分で生けて、愛おしんだ花の死を目の当たりにする女を思い、哀れんだ。私は、花のかたちを模した小さな宝石の首飾りを女へ贈った。
同じ首飾りをつけた女が、ある日、ホテルのドアを、ノックした。
高く晴れた昼下がりの、光に溢れた部屋だった。
それ以来私は、他の肉体を買い求めることは止めた。
*
去ることを告げた時、女は思いの外うろたえなかった。捨てられることには慣れているのかもしれなかった。女が自身を捨ててさえいたから。
自棄の悪癖を断ち切らせるために近付いた私と、もろとも身を投げ出してくれる相手を望んだ女だった。どちらも他者に願ってはならぬことを願った。
互いに求めすぎ、肌と肌の境を失って溶け合い、しかし異なる方角へ向かおうとするのだから、骨肉の痛まないはずはなかった。私がさきに匙を投げた。
椅子に、座るというよりは身を置くようにだらりと、腕を垂らしていた。黒目がちな動きに乏しい瞳を、テーブルの隅に放って、
「わたしから逃げるの」
と、女はこぼした。
激しい言葉にも聞こえたが、白けたような気色が滲んでいた。
子どもが少ない言葉で拙く話すように、女はいつも陳腐な台詞ばかり口にした。それなのにどこか、異様に響いてしまう。私は切なかった。
別れてからひと月ほどして、女から電話があった。
妊娠した、あなたとの子だ――。
一人で産み、一人で育てたい。
生まれてくる子へ、あなたから貰った花の首飾りを贈るつもりだ。
*
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