第3話 九谷宗一郎の『変』
「
いつものように、そう声をかける。
すっかり彼の指定席になっている一番隅の、窓側の席だ。
私に背を向けるようにして頬杖をついているその肩を、控えめに叩く。
既に図書室には誰もいない。
もともと利用者が少ない上、閉室十分前にはお知らせのBGMも流しているから、皆それを聞いたら退室してくれるのである。それでも図太く居座るのは宗一郎くらいなものだ。
「九谷君?」
いつもならすぐに本を閉じる宗一郎が、今日はそうしなかった。何も答えず、そして、ぴくりとも動かない。寝ているのかもしれない。
どうしよう、寝てるかどうか確認した方が良いだろうか。ああでも、寝顔を間近で見られるのって結構嫌だよね。宗一郎、嫌がるだろうな。でもいい加減出てってもらわないと施錠出来ないし。よし、もう一回呼んでみてそれでも反応がなかったらもう少し強めに叩いてみようか。どうせ誰もいないんだし、声ももう少し大きくても良いよね。
「九谷君、もう閉めるよ」
と、気持ち大きめの声を出す。誰もいないし、もっと叫んでも良かったんだけど、それでも、図書室という空間で大声を出すのはやはりちょっとはばかられた。
しかし、反応はない。
ここまでくると完全に熟睡だろう。いや、それとももしかして具合が悪いとか? そうだよ、いくら宗一郎でもここまでされたら普通は起きるよ。あぁ私の馬鹿。何でそれに気付かなかったんだ。
「宗一郎? もしかして具合悪いの? 先生呼んでこようか?」
背中をさすりながら、横顔を覗き込む。寝ているか、あるいは苦しんでいるかとばかり思っていたその顔は――、
「えっ?!」
別人だった。
ずっと宗一郎だとばかり思っていたその人は、宗一郎ではなかったのだ。
えっ、でも、ここは宗一郎の指定席だよね。まぁ、指定席なんて本来ないんだけど。それに今日は絶対来るって言ってたし。てことは、私が気付かないうちに帰ったってこと? それならそれで良いんだけど。
いずれにしても、この『宗一郎じゃない彼』にも退室していただきたいことに変わりはない。
「えっと、ごめんなさい。人違いでした。あの、もう図書室を閉めるので――」
一歩距離を取ってそう言うと、その上級生なのか下級生なのかもわからない彼は、ゆっくりと私の方を見て、にこりと笑った。真正面から見ると、何ともまぁ、きれいな顔立ちである。
「俺だよ、
驚いたことに、その彼の口から出て来たのは宗一郎の声だった。
「え?」
「別人だろ」
「べ、別人……だけど。ええ、本当に宗一郎? どういうこと?」
整形?! いやまさか。そんな短時間で出来る整形なんて聞いたことない。
「特殊メイク。腕上げたろ」
「……っ、そ、それ、メイクなの?!」
「おう。今日はずっと、ここでこっそりメイクしてた。誰もこの席には近づかないからな」
最近特殊メイクにハマっててさ、って話をしてから二ヶ月ちょっとしか経っていないのに。でも、そう言われてよくよく見てみれば、ところどころ本当の皮膚との境目であるとか、ムラだったりとか、細かいしわやヒビがあったりする。
「ちょっと、図書室でそういうのやめてよ。その顔作るのにどれだけの道具広げたの?」
「そこまでじゃないよ。予め作っておいたパーツを馴染ませたり、あとは基本のメイク道具だけ」
「とにかく、もう出てって。鍵閉めないといけないんだから」
「あーいよぉ」
今日は本当に一冊も読んでいなかったらしく、宗一郎は、メイク道具が入っていると思しき大きめのトートバッグと通学鞄を肩にかけて立ち上がった。
「そんじゃ、帰ろうぜ」
当たり前のようにそう言って、宗一郎は歩き出した。図書館のドアまであと数歩、というところで、今朝の一件を思い出す。
『別に何もないんだよね?』
宗一郎のことは好きだけど、本当の好きではいけないのだ。アイドルとか、ただのクラスメイトとしての『好き』じゃないと。
「あ、あのさ。これからは一緒に帰るのとか、やめよう?」
その背中にそう言うと、宗一郎はぴたりと歩みを止め、振り返らずに「何で」と言った。
「いや、だって、ほら、変な噂になるとかさ。そういうの、困るでしょ」
「誰が?
「私がっていうか……」
「俺が?」
「まぁ、そう……かな」
「困らんけど」
「いや、困るって。だって、私みたいなのとだよ?」
「みたいなの、って何だよ」
「だって宗一郎は皆の人気者じゃん。私みたいな『その他大勢』とは違うじゃん」
「何だそれ。俺は未蕾の事その他大勢に括った覚えはないぞ」
「宗一郎はそう思わなくても、周りはそう思ってないんだって」
「周りなんかどうでも良いんだよ。それより未蕾は? 嫌なのか、俺と帰るの」
宗一郎は振り返らない。
あの顔――一体誰の顔なのかはわからないが――は怒っているのだろうか、それとも、呆れているのだろうか。声色だけでは判別しにくい。ただ、確実に、笑ってはいないということだけはわかる。
「嫌じゃないけど」
ただ、会話が弾まないから何か申し訳なくなるだけで、別に嫌ではないのだ。いま興味あることを一方的に語るだけだったりするけど、宗一郎の話はいつも私に新しい世界を見せてくれるようで、すごく楽しい。
「だったら良いじゃん」
「ていうかさ、そもそも何で一緒に帰りたがるの? 別にさ、私と一緒に帰ったって、大して会話が弾むわけでもないじゃん」
「そりゃあそうだけど」
「でしょ? だったらほら、いっつも一緒にいる話の合う子と一緒に帰ったら良いんだよ」
そうだ。
宗一郎はいつも皆に囲まれて楽しそうにしているのだ。宗一郎が一方的にあれやこれやと話すのではなく、皆が彼に話しかける。ねぇねぇ聞いて昨日のドラマ見たそういや今日の宿題やったそうそう駅前のたい焼き屋さんがさ、って。皆、宗一郎と会話がしたいのだ。この人気者の彼の視線をどうにか自分に向けたいのである。
「嫌だ」
宗一郎は、ただ一言そう言って、くるりとこちらを向いた。
怒っているか呆れているとばかり思っていたその顔は、意外にもちょっと泣き出しそうで、だけど作り物だからか、ところどころが引きつったようになっている。
そして、
「俺は未蕾が良い。俺が一緒にいたい相手を未蕾が決めるな」
ちょっと掠れた声でそう言うと、数メートルのこの距離をあっという間に詰め、私をぎゅうと抱きしめてきた。
「えっ、ちょっと……?」
「なぁ未蕾、『乱』と『変』の違いってわかるか?」
「いや、待って。急に何? まず離れようよ。何これ」
「良いから。応仁の乱とか、本能寺の変とかの『乱』と『変』。その違い」
「そ、そんなの知らないよ! えっ? 西島先生授業でそういうの言ってたっけ?」
「言ってない。気になったから調べた」
「それじゃあわかるわけないよ。ねぇ、お願いだから離れよ? ね?」
ぶっちゃけこういうのは小学生くらいまではよくしていたけど、さすがにいまは高校生だ。しかもこっちは『好き』が恋愛感情にならないよう必死に抑え込んでいる状態なのである。この体勢は非常にまずい。
「失敗したら『乱』、成功したら『変』、なんだと」
「そうなの?」
「厳密には違う部分もあるみたいだけど、ざっくり括るとそんな感じらしい」
「でも、それが何なの」
乱だか変だか知らないが、いまのこの状態とどう関係があるのだろう。もういい加減離れてくれないと心臓が口から飛び出しかねない。
「これは『乱』か? それとも『変』か?」
「……はい?」
もういよいよもって宗一郎がわからない。いつも変だけど、今日はさらに変だ。
「伝われよ」
「伝わるわけないよ。話が難しすぎるって」
「だからつまり、俺は、未蕾のことが好きなんだよ」
「……えぇ?」
ちょっとそういうのはこういう体勢で言うのやめてくれないかな。幼馴染みとして――っていう意味だとしても、自分に都合の良い方にとらえてしまいそうになるから。
「俺だけなんて嫌だ。いまの関係を変えたい。なぁ、これは『乱』か? それとも『変』になるか?」
「待って。いまの関係を変えたいって、どういうこと?」
「幼馴染みじゃなくて、ってこと。俺は未蕾を恋人に変えたい」
「な、何でよ。私なんか」
「『なんか』とか言うのやめろ。未蕾の価値を決めるのは未蕾じゃない」
「じゃあ誰が決めるの」
「そんなの俺に決まってるだろ。俺は未蕾を『なんか』なんて思ったことは一回もないんだからな」
宗一郎の手に力がこもる。正直ちょっと息苦しいけど、それがちょっとだけ心地良い。
「それで、答えは」
「ええと、その――」
ぐい、と宗一郎の胸を押して無理やり離れ、その顔を見る。
ぱっちり大きくなった目、いつもより太めの眉、控えめにすぼめられた口。小さくて高い鼻は、上から貼り付けたのだろう、ちょっと立派になっている。いつもの宗一郎はどこにもいない。
「この宗一郎はちょっと」
「はぁ? だって未蕾はこういう美少年顔が良いって言ってたじゃんか!」
「え? 何? それでこの顔?!」
「当たり前だろ! 何のためにメイクの勉強したと思ってるんだ!」
「このためなの?!」
「未蕾、昔からアイドルとか好きだし、こないだ美冬綾人が好きだって言ってたし。だから」
そこでふと思う。
「……もしかしてさ、ジャグリングとか、手品とかも?」
「小学生の時、手品の特番一緒に見てさ、未蕾言ったじゃん、『すごいね、あんなの出来たら恰好良いね』って」
「そんなこと言ったっけ……?」
「言った! 絶対言った! じゃなきゃ特訓なんかするかよ。俺はな、未蕾を一生飽きさせないようにずっと必死なんだからな」
一生って。
そんな人生レベルで?
「だけど、これは『乱』なんだな? 俺は、鎮圧されて終わりなんだな?」
「鎮圧って……。ええと、そんなことない、と思う」
「何だよ、思う、って」
「私は、いつもの顔の宗一郎が好きだよ。そのままの顔が良い。そしたら、『変』になる、かも」
そう言うと、宗一郎はその作り物の鼻にがりがりと爪を立て始めた。けれど、簡単にベリベリと剥がれるものでもないらしい。
「くっそ。やっぱリムーバーいるか。未蕾ごめん、もうちょっと待っててくれ。落としてもっかいやり直す」
「わかった。だけどさ、いい加減出よ? 施錠しないと。それで、トイレでゆっくり落としてきなよ。私、待ってるから」
ほらほら、と背中を押すと、宗一郎は歩き出した。
畜生、秒で落としてやるからな、なんて悔しそうに言いながら。
彼にかかれば、愛の告白だって戦扱いなのだ。
この恋は、乱か、変か。
やっぱり九谷宗一郎は、変わり者だ。
けれど彼を好きな私もまた。
九谷宗一郎の『変』 宇部 松清 @NiKaNa_DaDa
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