マジョリ

枕木きのこ

マジョリ

 ——さいしょはグー、じゃんけん、ポン。



「愚痴になってしまうんだけどね。聞いてくれると嬉しいな」

 大きく取られた窓から夕日が差し込んで、ほかにだれもいない廊下は白から橙へ色を変える。ひとつ先の教室の扉のあたりから両手を後ろに組んで坂上は振り返って笑う。高い鼻筋はデフォルメされた月のように、顔の半分に影を落としている。僕は彼女のほうをじっと見つめたが、笑んだ薄い瞳はこちらの姿を捉えてはいないように思えた。

 窓外からテニスボールを打つ音が聞こえる。異なる周波数で金管楽器の音色が耳に刺さる。足音と声が、汚れた体操着と坊主頭を想起させる。だれもいないのはこの廊下だけで、校内にはまだたくさんの人の気配があるというのに、僕と坂上は二人きりのように世界に埋没している。

「なに?」

 問う声は情けなく震えた。どのくらいの声量で彼女に届くのかわからず、張り切ってはみたが慣れなかった。坂上は腰を起点に横に身体を曲げて、細く白い右足をずいと伸ばした。しわのないスカートがゆらりと揺れる。先端の、青色の上履きは二年目宜しく、ずいぶんと薄汚れていた。普段踏みつぶしているせいで、かかとは大きく広がって寝そべっている。視線を上へと戻すと、彼女はそこらのアイドルがするように、ほどいた左手で妖艶に、顔を覆う髪を耳へとかける。シルバーのぽつんと打たれたピアスが、宝物のように一瞬、光った。

 

「パーティ効果——違った。カクテルパーティ効果だっけ。あれって不思議だよね。教室の中で、自分の名前だけが耳につく。ほかのだれと話していても、——もちろん、大好きな真山と話していてもね、ふいに自分の名前がささやかれているのが耳に入ってくる。ふっと声のほうを向くと、にやにやした顔をぎこちなく逸らすの」

 階段の踊り場で、坂上は小さく声を落とした。それでなくともいつもそうだが、僕は二段目から彼女を見上げている。いつから貼られているか分かったものではない黄ばんだ部活勧誘のチラシの隣に、真新しい今年度の文化祭の告知が並んでいる。

青松祭せいしょうさい」とHG創英角ポップ体を模して大きく書かれた下には、開催日と時刻が書いてある。青松高校に居ればだれもが知っている日程で、一体だれが何のために告知しているのか、きっとだれもよくわかっていない。昼から体育館を占拠して行われる「ミス青松」の参加者リストには坂上の名前も載っていた。隅のほうにちんまりと書かれた軽音楽部のライブ告知がいじらしい。さらに小さく、「真山歩瀬ほせの誕生日」と書き足してやろうかと思った。


 見上げる格好ではあるが、僕と坂上は仲がいい。仲がいいはずと思ってこの二年を過ごしてきた。一年時の最初の席替えで前後の席になって、男女の別はあれど隔てることなく趣味や行動をともにした。なんだ、男女の友情なんて普通に成立するじゃないか、とあっけらかんと思ったことを今でも覚えている。

 初めての夏休みを、僕はほとんど校舎で過ごした。秋の文化祭のために、部活で絵を仕上げなくてはならなかった。中学時代から油絵をやっていたこともあり周囲からよく褒められもしたが、技術と発想は同居せず、とにかくモチーフが決まらなかった。明日描く絵が一番素晴らしい——そう信じて、毎日暑い中制服を着こんで電車に乗り、美術室にこもってはカンバスとにらめっこを続けていた。

「やっほう、何してんの」

 坂上は開いたドアに体重を預け、ひとり唸る僕にそうやって声を掛けた。

「そっちこそ何してんの」

 久しぶりに見た夏服の坂上を、どうしてか僕はそのとき直視できず、あてもなく筆を握って、すぐに曇りないカンバスを見つめ直した。

 坂上は適当に椅子を拾ってくると僕の隣に座し、腕を組んでグラウンドのほうに視線をやった。どうやら、夏休みに入る直前にできた彼氏がサッカー部員で、恭しく待っているということだった。

「いるかなと思って」

「よかったね、いて」

「ほんとそう」

 破顔すると、時折少年のようにも見える。女神を模った輪郭に、玉のような汗をいくつか掻いていた。不完全の美しさが僕の目を奪ったのは、この瞬間だった。同時に、やはり男女の友情など存在しないのだと自覚した瞬間でもある。

 坂上を描いた作品は、文化祭当日、下駄箱の正面に飾られた。あるいはこれは部内の展示会に相応しくないと辱められたような気分でもあったが、控えめに記された「真山歩瀬」という自分の名前が、初めて少し誇らしく思えた。来校する父兄が一度そこで足を止めるたび、自ら監視役を買って出た僕の心臓は高鳴りの末に壊れてしまいそうだった。指をさし、隣人とひと言二言を交わす人々の様相は、内容こそわからなかったが、正直に言えば、あまり心地いいものではなかった。


「調子に乗んな! って言われたのが一番ショックだったかも。調子に乗ってるつもりなんて全くなかったからさあ。自分のことは自分が一番見えない——なんて、よく聞くけど、本当にそうなのかな? 真山はどう思う?」

 再び廊下を進んでいる。ひとつ階を上がったせいで、斜陽の角度がきつくなった。僕は目を細めて先を行く坂上を何とか視界に捉える。今更になって胸元のリボンが気に喰わなくなったらしく、ぐちぐちと弄って外し、その辺に放った。

「どうって。どうだろう」

 吟味するつもりはなかったが、過去の記憶が去来する。


 絵に心酔したきっかけは、身体が弱かったからだ。自分でそれを認識したのは小学生になってからだった。かけっこをするとほとんどの場合めまいを起こし、そのうち一割程度は気を失う。親は何をも言わなかったが、担任の計らいで体育はすべて見学か、保健室での待機となった。運動会や体育祭の類には一切参加できず、長期入院で勉学がおろそかになることもあった。

 ただ、絵は、いつでも、どこでも描けた。はじめはクレヨン。色鉛筆。それから本格的な画材を揃えてくれるようになって、僕は両親が僕のことを愛してくれていることを認識した。だから打ち込んだ。がんばった。もちろん楽しくもあった。だれでも子供のときは芸術家なのだ。たくさんの絵で部屋が埋まることが、ただひどく純粋に、楽しかった。

 でも唯一、自画像だけは描けなかった。

 僕は自分が何者なのかを、理解できない。他者による評価によって認識を繰り返しているだけで、自分がだれなのか、自分というものがなんであるのかを理解できない。あるいはそれはだれもがそうであると言えるが、僕の場合はたぶん、少し違う。

 自己との乖離を自覚している。鏡に映る自分が、うすい靄のように見えてしまう。原因はわからない。絵に打ち込みすぎたせいかもしれない。違うだれかを重ねられるせいかもしれない。なんとでも言えるだろう。

 僕が自画像を描くのはたぶん、死を身近に感じたときだろう。そのときようやく、自分を理解できるのだと思っている。


「ちょっと待ってよ」


 校内をジグザグに上がっていく。この学校の屋上の管理はずさんだった。坂上の目的地がそこであることは最初に聞いていた。僕は屋上には用はない。

 坂上は立ち止まるごとに断片的に最近の話をした。彼氏と別れたこと。原因が昨年描いた僕の絵であること。僕たちは「デキている」とうわさされていること。「ビッチだ」と罵られている——気がすること。元彼は周囲の女子からよく好まれていて、ずいぶんと僻まれていること。それに比べて鬱屈として存在さえ不確定な僕と一緒にいることが、いわく「調子に乗っている」ことだと言われること。


 ついに屋上にたどり着くと、彼女はフェンスの前に立ち止まった。じっと正面に広がる街並みを見つめている。僕は風になびく彼女の髪が、彼女自身を先導してどこかへ連れ去って行ってしまいそうで、階段の途中から遠く、目を離すことができなかった。

 気づいていたか、と言われると、そうだ、とはっきりと言える。秋は人を惑わせる。長い夜は彼女に思考のいとまを与えてしまった。安直で、愚直で、愚案と言わざるを得ないが、その理屈は許容できる。生や死を考えたところで、その道筋は千差万別を極め、また紆余曲折もするものだから、結局他人の倫理観をすべて理解することはできない。だから、あくまでも許容だ。


 彼女が死ぬことを、僕は、許して、認めている。

 ——本当か?


 うつむいてしまった視線を上げ、坂上を見た。坂上も僕を見ていた。

 他人の考えを変える——捻じ曲げるには、争って、勝つしかない。あまたの歴史的事実がそう言っている。争って、勝って、捻じ曲げて、強制する。

 僕は今、坂上に勝たなければならないと、ふいに、強く思った。


 僕は彼女が好きだ。


「真山。今までありがとうね。今日も。昨日も、その前も、ずっと前から」


 坂上はすっと手を伸ばした。表情は落ち、暮れかけた日が彼女の存在を不鮮明にしていく。

 僕も手を伸ばした。上背のない僕の歩幅で、あとどれほどの数が必要だろうか、と頭で考えているうちに、——最後のときが来てしまった。




「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ」


 隣に並び立つと、坂上はきょとんとした。瞳の中に僕が映っているのが見えるほど見開いている。

 それから、プッと息を吹きだした。

「そんなのずるいよ。なんで知ってるの? 普通覚えてられないでしょ。確かに最初のひと文、なんでもありのグリコとは言ったけど。クイズ王でも目指してるの?」


「僕に絵を与えた両親だよ。絵画に疎いわけじゃなかった。名前だってそう。ピカソの本名の、使えそうな部分の当て字。同じ誕生日のせいで、生まれ変わりだと言われていたんだから。——ねえ坂上」

「なに?」

「死ぬのはやめよう」

「——ん。わかった」


 僕は勝てた喜びでずっと開いたままだったパーで、彼女の手を握った。

 坂上は拒絶こそしなかったが、握り返しても来なかった。もう力んではいないように見えたけれど、どうだろうか。

「真山のことは好きだけど、そういう好きじゃないよ」


「知ってる」言って、それでも手を離さずにいる。「今はまだ『青の時代』だから」

「なに? それ」


 今はまだ、孤独で不安な青春時代である。

 ——でも。

「最後に勝つのは、僕だから」


 僕は坂上の少し冷えた手を引っ張って、屋上を後にした。

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