第9話

 私の靴が渇いたころ、彼は突然私の目の前に現れた。その時私は赤い久留米ケイトウの花を手に持っていた。


「ケイトウの花言葉を知っている?おしゃれ、風変わりって意味なんだよ。」


 そう言って能天気でひょうきんな笑顔を浮かべる彼。こいつ、馬鹿なんじゃないかと私は思った。苛立ちまでは抱かないが明らかに私は不愉快ではあった。彼の言葉の選び方や立ち振る舞い全てが賢さからかけ離れていて、彼がおたんちんで無能で阿呆なことが目を逸らしたくなるほど如実に現れている。


「この花、脳みそ見たいでしょ?」


 私は花を人差し指で触れながら言った。


「鶏頭だもの。」


 ケイトウに手を出した彼の手から花を遠ざけ、私はケイトウを握りつぶした。言葉を無くす彼の、真っ白なYシャツに自分の手に付いた血液のような花の汁を擦り付け私は歩き出した。こんな私の意味不明で不可解な行動を目の当たりにしても私の傍からいなくならない彼の心情が理解できなくて、それでいて気持ち悪かった。


「なんで連絡くれないの?」


 私を追いかけ私の隣に並んだ彼は私に聞いた。


「スマホの電源が付かないの。」


 あの日以来、通信機器には触れていない。だから充電もしていないし故障しているかすら私は知らない。


「結婚のこと、考えてくれた?」


 結婚、その言葉で以前の彼の言葉を鮮明に思い出した。疎ましいことこの上ない。


「しつこい。」


 私は足を止めて彼に向き合った。


「何故そんなに僕と結婚したくないの?」


 私の腕をつかんで自分の方に引き寄せる彼。この私に結婚を迫る彼が不思議でたまらない。もしかしてこんなに長いこと一緒に居てもまだ私を常人だと思っているのだろうか。ならば今すぐに私の過去を洗いざらい綺麗に、何もかも包み隠さず暴露してやろうか?


「なんでそんなに私と結婚したいの?ほかに良い人がいないわけ?」


 彼はきっと浮気をしていないだろうと思いながらも、この言葉を言い放つ私は卑怯な人間だった。けれど私はこの世の中に自分程家庭を持つことに不適切な存在はいないと思っている。


「君と結婚したいんだ。君じゃなきゃ嫌だ。」


 私の手をぎゅっと握りしめる彼。その言葉は、子供の話を聞く前に聞きたかった。


「私の秘密を知ったら、そんなこと言えなくなるわ。」


 秘密、そんな可愛い言葉では表しきれない私の現実。


 背伸びをしなければ届かない棚に置いてある、茶色の瓶に入った甘い角砂糖を私の口に放り投げてこれは二人だけの秘密だよ、と口の中で角砂糖を移動させながら微笑んで言った私の幼き頃の友人。


 一生その秘密を守り抜くつもりでいた私、次の日周囲の人間すべてに秘密を共有していた友人。後日もう一度茶色の瓶の中身を見るとあんなにあった角砂糖がどこかに消え去っていた。


 思い返させば過去に私が背負った秘密たちはすべて、他人がどこからともなくバケツの水を投げかけてくるように私に浴びせた秘密だった。


「秘密って?」


 彼もまた私の秘密の影を濃くして、秘密を一生隠し守り抜くことを強要するのだろう。その秘密を一緒に背負ってくれようとはしない。


「秘密だもの、言わないわ。」


「何故?僕には教えてくれないの?」


「貴方はこの秘密を知ったらきっと私を軽蔑するもの。」


「僕が君のことを軽蔑したことなんてある?」


 あるじゃない。何度も私に嫌味や皮肉、軽視の言葉を投げかけたじゃない。もしかして覚えてないの?


「うん、そうね。」


 自信満々に自分は彼女を大切にしてきたと言わんばかりの表情でいる彼に私は何も言えなかった。呆れてものも言えないとはまさにこのことだ。


「教えてよ。」


 私の手を握る彼の手が暖かい。どんなに冷酷で残酷な過去を持ち現実の過酷さを知っていても、人間の手のぬくもりには勝てない。幸せへの誘惑な気がして、どんなに逃げようとしても心がそれを求めてしまう。


 もし私の秘密を彼が受け入れてくれたら私は普通の人間として生きられるかもしれない、そんな安易な考えも彼の熱に触れて情熱的な感情に変わろうとしている。


 今まで彼を信じることが出来なかったけれど、この秘密を知っても彼が私の傍に居続けてくれるのなら、ようやく私は肉体を超えた新境地で彼に会えるのだ。跳ねる心臓、静まる瞳孔。彼を一直線に見る眼差しは病的で動転していて気は確かではなかった。


 私は自分の手に重ねられた手を両手で持ち、のちに自分のへそのあたりに置いた。彼は不思議そうに私の行動を見ている。


「私ね、腹筋が一回も出来ないの。」


 彼の手を左右に少しずつ動かして言った。彼の手は脱力していて私の誘導に抗わなかった。


「知ってるよ。」


 私はやせ型だが、きっと内臓脂肪は多い。そんな風に思わせる私の腹の柔らかさ。


「ここにね、貴方と私の赤ちゃんが来てもね。」


 私は彼の手を下の方へ動かした。


「ここに赤ちゃんを育む場所が私にはないの。」


 彼は私の下腹部をじっと見つめ、私の言っていることをてんで理解できていない様子だった。


「お父さんがね、取っちゃったの」


 口に出すことすら忌々しい存在である私の父。父は私に私が卑しい存在だと教えてくれた人、父は地を這うもののように醜くそして賢い。


「私の子宮。」


 一切力が入っていなかった彼の手が一瞬にして固く動かなくなった。今の私には彼の全細胞の呼吸が聞こえ彼の血の重みを感じる、それほどまでに彼は驚き静寂を呼び寄せていた。


 彼の目がこの世の情景を全て飲み込もうとしているかのように丸く開く。彼の瞳にピースサインを示す私の姿があるが、彼は私を認識しているだろうか。彼が起こした沈黙はなかなか破れず私は彼の次の言葉を待ちきれずにそわそわしていた。


 段々と細くなってゆく彼の瞳、彼の手がそっと私から離れ彼は私を拒み始めたのだと私は知った。


「そっか。」


 彼はこの状況に合う自分にとって最善の言葉を必死に探しているようだった。そんなこと、ボーカルの声より楽器の音の方が大きいバンドの売れる確率を見出すことよりも難しい。この状況に置いてどんな理由があろうと私を拒むことは彼にとって最低な行動なのだから。


 彼のぬくもりを、私は段々忘れていく。心が段々と冷却され、これから起こるだろう未来を感じ始めている。言わなければ良かったと後悔するにはまだ早いと私は最後の希望を捨てずに両手で強く握りしめていた。


 それは物心ついた頃、どこかで拾った二本の枝でみみっちい十字架を作り握りしめていた時のようで、私の心は孤独で愛に飢えすぎていた。


 私の視線から逃げるように目を泳がす彼。そんなにも彼にとって私は逃れたい存在なのか、追いかけるように誘導させたのは彼なのに。


「ねぇ。」


 私の声に驚き肩をびくつかせた彼。もしかして私を正体不明の謎の生き物であるかのように思っている?私は彼をじっと見つめた。腫れ物に触るような彼の視線が私の存在を否定していて、見え透いた未来を受ける気にもなれなかった。


 何かを発さなければと焦ってぽつぽつと額に汗をかき始める彼の姿が無様で、こんな奴に期待していたのかと私は自分をあざ笑った。


「ははははははっ」


 彼は乾いた愛想笑いをし私の肩をトンっと叩いた。


 その拍子にパンッと私の頭ではじけた水風船、悪意を持ってかけられた水が髪を滴り私はそのままうつむいた。それはいつかの過去の出来事。

 何故今それを鮮明に思い出す?


「なんだ、毎回毎回避妊なんてしなくて良かったのか。」


 彼にかけられた罵声のせいで、私の世界は一気に無音になった。


 ゆっくりと顔を上げ目を見開いても今の私は情景を認識できない。


 ピーっとどこからか放送禁止用語を隠す音が聞こえてくる。


 避妊しなくて良かったのか、だって君には子供ができるリスクがないんだから、そう私は言われたのか。


 そうだ、私は世の中の女性と同じリスクを背負うことすらできないんだ。


 だって私にはないんだもの、赤ちゃんを守る場所が。私は母親にはなれないんだ。種がまかれてもその種は根を張るどころか、私の中に種として居座ることが出来ない。





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