第7話

 例えば一生懸命ゴールの見えない道を下って、その道があまりにも険しい時。やっと道が終わってゴールにたどり着いたと思い見上げると、とても登れそうもない柵がそびえ立っていたとする。


 きっと多くの人は必死に下った過去を愛しみ、その柵を何とか壊したり登ったりして乗り越えようとするでしょう?


 けれど私はそこでやっと死ぬ理由が出来たと喜ぶの。犬が喉を撫でると喜ぶことを知っている、喉を掻っ切れば死ぬことも私は知っている。


 猫の餌が塩分過多だとイチャモンをつけるのならば、全人類からフレンチフライを奪い取れ。目の前に山盛りのフレンチフライがあった時、私はそう思った。


 先日の暴力がなかったことのように、しれっとすまして彼は居酒屋に私を呼び出し、私の目の前でそのフレンチフライを口に運び続けていた。ただでさえしょっぱいフレンチフライにケチャップをつけて食べる彼に、私は心情が隠しきれていない自分の口元を彼に見られたくはなかった。


「それ取って。」


 彼は私の傍にあるマスタードを指さした。私は自分の傍にある水の入ったコップを彼に差し出し、私の意図をくみ取れない彼は私の差し出す水と私の顔を交互に不思議な顔をして見ていた。


 私はコップを持っていない手でフレンチフライを一本手に取り、彼に差し出している水にフレンチフライの過半数を浸してからそれを口に運んだ。


「美味しい?」


 彼は頬杖をつきながら聞いた。


「ジャンキーをネイチャーが打ち消して、ようやくフードって感じ」


 天から引っ張られたように左眉だけ吊り上げた彼は、私からコップを奪って机の端に置いた。


「僕の良いところは博愛主義なところだよ」


 得意げに顔の前で指を組む彼。だからあなたの血は美味しかったのかもね、そんなことは言わないが私は端に寄せられたコップをじっと見ていた。


「博愛主義のはくという字は剥奪のはくかもね」


 彼は大きく息を吸ってから少し大げさに息を吐いた、鼻息でフレンチフライの塩分が吹っ飛びそう。


「まだ怒っているの?」


 彼は私の元にコップを戻しながら言った。私の脳はあり得ない未来ばかり選んで、その未来は貴方の物よと錯覚させる。彼に愛される未来を想像して、そのたびに欲しい未来が増えていく。


「蛞蝓の写真を見て、貴方はどう思う?」


 私の顔を見て私の問いに対する答えを必死に探す彼、もう既に不正解。


「別に、何とも思わないけど。」


 ほら、やっぱり不正解。


「じゃあ蛞蝓の入れ墨を入れようかな。」


 引きつる彼の顔、広がる鼻の穴を見て腐った桃の種を思い出した。


「冗談よ。」

 

 大して旨くない酒を呷り、私の目の前には黒蝶が数匹飛んでいた。黒蝶よ、君には私がどう見える?


 彼がトイレで席を外している隙にお金を置いて私はその店を出た。


 帰り道に公園を見つけた私は、人がいないことを確認してベンチに座った。雨の後の公園のブランコの下には水たまりが出来ると知った幼少期の私は、幼心に『期待を裏切られる悲しみ』を知った。


 得意げにブランコで勢いをつけて前に身を投げ出し、結果頭から地面に落下し重症を負ったあの子は、今もまだ生きているのだろうか。


 あの時私があの子をブランコから突き落としたと誰かが言っていて、先生はそんなわけないじゃないと私を庇うふりをしていた。本当は先生は私がその子を突き落としたかの事実なんてどうでも良く、自分の生徒が他の生徒をブランコから突き落す、なんてことをしたら自分の立場が悪くなると思っていたのだろう。


 「まだ怒っているの?」私にそう言った彼が私は不思議で仕方ない。私がいつ彼に怒りをぶつけただろうか?確かに以前彼の頬を殴ったりしたけれど、あれは頬についている口紅を拭おうとしただけで、私は彼にちっとも怒ってやしない。


 水たまりの上に浮かぶブランコに遠慮がちに乗って私は微かに体を動かした、段々水たまりを気にしていることが馬鹿らしくなって、足で地面を蹴りブランコに勢いをつけた。私の体重の重みでギシギシというブランコ。


 手に持つ部分が鉄臭くて、風に乗る浮遊感が幽体離脱の瞬間のようで心地よかった。人影を感じてブランコを止めようと水たまりに足を突っ込みブランコの勢いを止め、同時に水が跳ねてズボンの裾が濡れた。


 靴の中に泥が入り込んで、足の指を曲げると指と指の隙間にいる細かな石で起こる摩擦。私に近づいて来る彼は私の足元をじっと見ていた。


「ブランコ楽しい?」


 決して私の隣のブランコには乗ろうとしない彼は私の真正面に立って聞いた。


「子供の頃は怖くて嫌いだったの」


 私は水たまりから足を出してブランコから立ち上がった。


「あの頃の私は何を怖がっていたのだろう」


 彼の前を素通りして私は公園内を歩き出した。かかとで靴を踏みしめる度に靴から水がジュワッと流れ出た。


「ちゃんと話そう」


 彼は私の腕を後ろから掴んだ。そんなに強く握ったって私という人間は、すぐに多大なる愛情の些細な隙間から風のようにすり抜けるのに。


 摘まれた花を自己満足で放置しない貴方はいい人ね、ペットの糞を放置する飼い主に、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいぐらいだわ。


 入道雲が鼈甲色に輝く夕暮れ、洗剤の匂いときんぴらごぼうの匂いが混じって気持ちが悪かった。


「何故僕を叩いたの?僕のことが嫌いになった?」


 オニユリのまだら模様が全身に鳥肌が立つほどの底気味悪さで、それはまるで自分を見ているように錯覚させた。私は花粉を吹き飛ばそうと一つ咳をした。


「頬に何か付いていたのよ」


 私はそっと彼の頬に自分の手を当てた、前回の反省から優しく刺激を与えないように。私の目にはまだ彼の頬に私の知らない口紅が見えた。私が触れても少しも動揺しない彼、その勇ましさが彼の身の潔白を証明しているよう。


 諸悪の根源は私なのだと、私は知っている。彼の愛を、彼の恋心を、彼の言葉を私は少しも信用しなかった。知らない男と生々しい生をぶつけ合う度に彼の愛の美しさを知り、彼への愛おしさが執念深い依存に変わっていく。


 そんな自分に気が付いていながら私は、彼を裏切りたくて仕方なかったのだ。彼に大切にされ彼との幸せな未来が目に浮かぶほどに私はその未来から必死に逃げようとした。失うことを恐れ、そして得ることまで恐れた。


 もし私の浮気に気が付いて彼が私から離れていくならば、やはり彼は偽物だったと私は腹を抱えて笑う。


 その先には、何もない。


「怒ってないの?」


 彼は私の手にそっと触れ、私の手が彼の頬に吸い込まれてしまいそうだった。


「怒ってないわ」


 私はいつだって自分に対して殺意を持っている。今目の前で胸を撫でおろし八重歯を見せて、こんにゃくのように柔らかく微笑む世界で一番愛おしい人を一番不幸にしている私が、許せない。


 自ら木を揺らして落とした松ぼっくり、口を開けて待っていても一つも口には入らない。もうそろそろ、私は彼に首を切り落とされた方が良いのかもしれない。そんなことを思いつつ、快適なぬるま湯に浸かる私は自分の切り落とされた首を綺麗に洗う彼を想像してしまい、自分への憎しみも忘れてしまいそうだった。


「どうして私と結婚したいの?」


 彼からの愛の言葉を期待して、私はそんな質問を彼に投げかけた。すっかり彼の笑顔に絆され自分の罪も棚に上げ、彼の愛を信じる普通の女を私は演じ始めている。彼はポリポリと自分の後頭部を掻いて左の口角を真下に下げた。そっと前歯をむき出しにして下唇を噛むとどこかで見たような動物の顔になった。


「子供が、欲しいんだ」

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