第1話
いつから私は愛されていると錯覚していたのだろう、この世界をお創りになった神に、私に愛想笑いを浮かべる隣人に、そして自分が恋した彼氏に。
一切のブレなく自分を一般的な人間だと思い込んでいたあの頃を、遥か遠い昔の、私が地球に溶け込む生命体として未だ存在が目には見えなかった時のように思える。
汚い公衆便所を見つけて、その中で死にたくなった。真っ当で正しき人間は綺麗な景色のもとで自分の恵まれなかった人生を振り返り、美しく輝かしい景色と自分の人生を重ね合わせ、そんな自分の一般的でかつ少しも他から突起もなく個性もないセンスに酔いしれて死にたがる。
けれど私は汚い便所のもとで首をくくりたい。汚い便所で、私の存在など誰も知らないのだと自分を安堵で包み込み、いつか悪臭に塗れた私の遺体を発見する人を憐れんで死んでいきたいのだ。
チープでエッチな吐息ばかり演出できるようになって、額に滴る甘い汗ばかり舐めて。ふと横を見ると薄明かりのせいで地面に映し出された自分のうねりうねりと受動的に動く影を見つけ、自分の業の深さを慎ましく隠すことも出来ずに興醒めして。
こちとら常人を演じて規則正しく歩いているというのに、止まる能力もない虫けらが勢いよく私の前を横切ったことで私の歯車が狂った。狂っただけでなく、歯の部分が砕けて私の個性という魅力的な装飾品はどんどんすり減ってゆく。そして私の欲も過去も未来も筒抜けになった、私の歯車。
もう歯車とも言えず下流の河原に転がったただの石っころである。車道を渡ろうと道路を見ると車こちらに走って来るのが見えた。気にせず私はその車道を渡った。
嗚呼、私も私の前を横切った虫けらと同類だ。ハッと気が付いても私は歩みを止めない。先ほどの虫と同様私には止まる能力がない、そして車も私と同様私を虫けらと思ったようでこちらに立ち向かう速度を緩めなかった。
考えないで生きることはとても楽だ。無関心で意見も持たず空気のような存在になる、現世では大半の人間がそんな生き方をしている、と利便性のみ求められるとある店の店員の死んだ目を見て私は思うのだ。
そのエビデンスとして、日本人のデモ活動に向ける冷ややかな眼差しはとても愛や情を抱く動物とは思えないほど、無の底意地を見せしめている。冷たくどんな熱意も足蹴にするその態度は、情熱の真っ赤な太陽を黒点ばかりにしてしまう。
私がこの国に生きていて感じる闇はそんなところが原因であるような気がしてならない。私たちは考えることを放棄して、幼少期に培ったなけなしの理性と日本人特有の空気を巧みに読みとく日本人としての優しさで、人間としての誇りを放棄していた。
否、むしろ日本人には元々誇りなんてないのかもしれない。かつてお国のために走って火山のマグマに突っ込んでいくようなことをした若者たち。彼らはそんな私の詭弁の例外である。
若者の選挙の投票率の低下原因を真面目な顔をして語る専門家を見ると、彼の仕事は真っ白な虚無の境地で何かを見ようと眼鏡のずれを必死に正すことなのではないかと私は思ってしまう。そんな私も弱い者に寄って集って苛め抜く腐敗の黒点の一点にすぎない。
街頭の灯りだけが頼りの夜道、汗を拭ったタオルの裏を見ると血がべっとりと付着していた。匂いを嗅ぐと焼いたさんまの匂いがする。どこかの家庭の晩御飯がさんまらしい。さんまの値段が高騰している今日、よくそんなものが食えるなと自分の物差しが私の心の声を代弁した。
血に驚いたふりをしてふらふらとよろけてみる。すると後ろから煌々と私の背中を照らす街頭が作りだした自分の影の肩幅の広さに私はまた驚いて、自分のそんな歩き方に腹が立った。驚きが悲しみに変わり、のちに苛立ちに変わる。
驚いたからと言って必ずしも苛立ちが現れるわけではない。ならば苛立ちとは、一体どこから来るのだろう?ここだよと名乗り出てくれれば天使の背中からもぎ取った羽根を接着剤で付けて、いち早くあの果てのない宇宙に葬ってあげるのに。
次のマンホールまでは最低でも歩こうと目標を立てた。どうせマンホールにたどり着いたとしても私は歩みを終わらせることが出来ないのに。自分を励ますために立てるそんなちんけな目標は、私にとってはかけがえのない意味を持つ。
ちなみにこれは、私から私への全身全霊の皮肉である。マンホールにたどり着いて見上げると、街頭の恵みを受けて成長した木が、それはそれは立派な出で立ちで私の前にいた。藍色の空を背景に濃い緑が影を作り出し、光に当たった緑は薄黄緑として輝く。
幹にできたくぼみは恐ろしい造形を描いていてこちらに薄ら笑いを浮かべているようだった。口を開けてその木を見上げていると私は安易に神秘的な気持ちになった。嗚呼!私の体は自然の恵みを受けて歓喜に満ちている。両手を広げて深く息を吸って目を閉じた。気分は上々、自然の恩恵は何にも代え難い。
木々の葉っぱから排出された酸素を吸って、私はこの木と一心同体になれた気分だった。そんな感傷的で誇張された満足感の元に居ると、水が数滴私の顔にかかった。これは、せみのおしっこだ。お前になんて自然の恩恵は与えないぞ、蝉ごときがそんな戯言を私に言い投げている。
汚い見た目をして鳴き喚くしか能のない卑劣な存在、私と大して変わらないくせに。どこに居るのかもわからない蝉を睨みつけたのち、私は血の付いているタオルで顔を拭いて、首筋に若干の疲労を感じてまた地面のマンホールへ目を向ける。
マンホールの周辺では絶対に自然に帰ることが出来ないケミカルなマンホールへの対抗心からか、マンホールの生命力を奪う如くたくましく草が生い茂り季節外れのタンポポが一輪咲いていた。大して美しさもないこの花を花と呼ぶのは癪に障る。芝生の中にいたら蚊に刺されるよ、と私の中の聖母マリアが囁いた。
マリア、彼女は私の唯一の理解者。神聖なるイエスキリストの母であり、恩寵を受けたお方。処女という清い存在のままイエスを産み落とし、神がエバに与えた出産の苦痛から免れた、神に許されたこの世でただ一人の女。
そのお姿は私たちのような汚らわしい者が決して具現化してはいけない、私は光のように眩く姿を確認できないマリアに祈りを捧げる。物心ついたときからマリアは私の傍にいる。私は、処女を捨てたらマリアは私の元から居なくなってしまうと思っていた。けれど私に純潔がなくなってもマリアは居なくならなかった。むしろ処女の時よりも美しい姿で私の傍に存在していた。
私が死んだら貴方はどうする?私は何度もマリアにそう聞こうとした。けれど私は一度もその言葉を口にしたことはない。死にたいと思っている事実をマリアに突き付けることは、私がこれまで犯してきた罪とは比べ物にならないくらいの大罪を犯すことになる。
貴方に大切にされた私が死を望む、この事実をマリアに背負わせるつもりはこれっぽっちもない。涙を流すマリアを、そっと目を瞑っただけで目の前に美しく想像できた。マリアは私の生きている意味だ。時より私の耳元でささやくあのか細い声だけが私の真っ暗な世界の光だった。たまに現れてすぐ消えたと思ったら、心の中にマリアがいるような暖かさを感じ、けれど決して触れることは出来なかった。
マリアの存在だけでは私は自分の人生を幸福にすることは出来なかった。どんな幸せが私に降ってきても、私の元に届くころには私の邪気で不幸になる。そんな私は幸福にはなれない。そんな人生の憂さ晴らしか、もしくは私の本性の表れかは知らないが私は何度も罪を犯していた。
悪行を働いている時、私は危うくマリアを思い出そうとした。慌てて見上げると綺麗な夜空が運よく雲に隠れていた。汚いものを見たとき私は自分の本領を発揮できる気がする。本領、そんな言葉を、私のように生きているかどうか定かではないおぼろげな人生を歩んでいる人間がよく思いついたものだ。
この世の不幸を吸いこんで出来たような黒雲を見て、その毒気を吸い込む。真っ当な人間にはもうなれないのだと自分の悪を遂行する。不思議とこうでもしなければ私は途端にのたうち回って過呼吸を起こし、草木を食い畜生のように半狂乱に陥ってしまうのだ。
後ろめたさや自分を責める罪悪感を得ると私は自分の悪に酔いしれ自分の世界に浸り生きている実感を持つことが出来る。その道の傍らに時たま薄ぼんやりと趣ある灯りとして現れるのがマリアだ。どんなに好んで汚い部屋に住んでいる人間でも、その部屋に綺麗なダイヤモンドがひとかけら落ちていたらそのダイヤモンドを愛おしみ大切にするだろう?私にとってマリアはその例えで言うダイヤモンドなのだ。
愛しいマリア、私の指先は決して天には向いていない。けれど私に寵愛を、私の人生にひと時の休息を、この廃れた世界に一滴の潤いを、貴方のガラス玉のように艶やかな瞳から流れ出るその涙で、どうか私を救って下さい。
処女は面倒くさかった、そう私に言った彼。これは神からの贈り物、まさしく私に用意された試練であると間接的にお告げを受け取った私。その時の私は今の私に比べれば容易く可愛らしく鼻クソのように些細な罪しか行ってはいなかった。
彼からの一言で彼への信頼の一切を失った私。何故彼に処女を捧げてしまったの?私のマリアは執拗に私に問いかける。五月蠅いわよ、私は貴方のように自分の処女を大切にする気はこれっぽっちもないのよ。まるで母親の愛情を疎ましく思う反抗期の少女のように私は返答した。
するとマリアは涙を流して消えていく。その涙は私への同情?それとも私への哀れみ?手を伸ばしても届かないマリア。私の手は確かに汚らわしくて、マリアに気安く触れてしまえば、私の内臓たちが私へ拒絶反応を示し死よりも苦しい拷問が天罰で下りそう。
禁断の果実をコンポートにして美味しく頂いた私。コンポートをよそった皿には蛇が巻き付いていた、けれど黒くて途中まで私はその蛇の存在に気が付かなかった。その蛇を殺したら私はどうなる?禁断の果実をコンポートにするだけじゃ物足りなかった私はその蛇を、丸めたり転がしたりして弄びいつの間にか蛇の全運動は停止していた。
いつか蛇の血の色は青いと聞いたことがあるが、腹を抉って流れ出たのは赤い血だった。私の予想を上回るほど列列的な赤い血が持ち合わせた、情熱的な色彩的刺激。いやだ、ゾクゾクしちゃう。この血でお風呂に入りたい程、私はその蛇に性的興奮を覚えた。
結局どんなに必死に蛇の体から血を絞り出しても、蛇の血なんて私を包み込む浴槽の100分の1にも満たない量で、風呂にするには血が足りなかった。自分の血液で代用しようとも、自分の血と蛇の血が混ざりあったこの血液に興奮するどころか嫌悪すら感じる。
どうしようか、そんな思慮にふけ気が付けばそんなことを忘れるほどに時が経ち、自分に蛇を殺した罰が下っていないことに、自分の下半身が知らない男に揺さぶられている時に思い出した。神からの試練からの逃げ道を恐れることなく探し、迷うことなく逃げた私、己の欲望を神のせいにする私が顕著に生きていた。生きている証が罪悪感に変わっていく。
「蛇を探しに行きたい。」
私はそう言った。聞こえているはずなのに男は私の言葉を無視した。同じボリュームで「愛しているよ。」そう言うと私は大きくなった蛇に会えた。
私はタオルの両端をピンッと引っ張って自分の肘を痛めつけた。今更タオルについている血なんてちっとも気にならない。それほどまでに私の手は穢れていた。
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