第6話
今まで近づくことを避けてきた公衆便所に、今日私は近づいてみた。汚い公衆便所を、足を踏み入れることすら恐ろしい聖地のように思っていた私。
近づいて女のマークをまじまじと見ると「死ね」と書いてあった。体中が強く揺さぶられた様な、シンバルの音を間近で聞いた様な感覚が地面から私の頭の先まで走る。
けれどそれは条件反射のような感動で、次の瞬間には欠伸が出た。直接的な死の表現は非常にナンセンスだ。もし男のマークに「生きる」とでも書いていたら、私はその安い文字の羅列に傍ら痛いと笑い転げることが出来たが、男のマークには何も書いておらず、チッと舌打ちをした。
今日私は血を含んだティッシュを食べた。
私に「結婚しよう」と言った彼の頬を目掛け私は手のひらを風に乗らせた。すると思ったよりも私の手は勢いを持って彼の頬に到着し、結果彼の鼻から血が出た。鼻の中の毛細血管はやけに脆い。
私が持っていたティッシュを全て使っても彼の血は止まらない。処理が面倒くさくなり私は彼を置いて帰ったけれど、腹が減って口が寂しかったので私は持ち帰った彼の鼻血をたくさん含んだティッシュを食べた。
何故彼の頬を叩いたのか?大した理由はない。ただ彼の頬に私の持っていない口紅の跡が見えて、私はそれを拭おうとしただけだ。
彼は私を雨女だと言った。けれどマリアに、私は雨女よと言うと何故かマリアはひどく怒る。雨女という言葉を愛称だと思っていた私、雨女という言葉が嫌味だと気が付いた私。後者の私は自分の体から血管を2,3本取り出されても、何も感じなかったと思う。
私は捨てたいのだ、情という心を、執着と言う期待を、幸せという幻を。
私は一人で生きていたい、いつでも、どこでも。
この世の全ての人間から忘れられたい。
どうせ自ら死を選択することはできないのだ。生きている者の定めとして、この世に生を受けマリアが心に住み着いてから、私は生きることから逃れる権利を与えられなかった。
ならば生きる上でもっとも私を苦しめる愛を、私は捨てたいのだ。けれど愛が消えない、あまりにも濃くて消えないのだ。例え憎しみに変わった愛だとしても、それの根底は紛れもない愛なのだ。
彼の鼻血を食べた私は異常だと思いますか?
これが昔、一人ぼっちで体育座りをして孤独に耐えていた私の成長した、私なりの愛だとしたら貴方に涙を流させてしまうでしょうか?
結婚、そのフレーズを聞いて最も対極的な未来を引き寄せようと彼を色眼鏡で見た私は、己の罪深さのせいで磨いていたはずの眼鏡の汚れに気が付かなかった。
彼を信じられない、それが原因で私が犯した過ちたちはいっせいに私を不幸にしようと一丸となる。
愛を捨てようと思うほどに愛を求めた私。人影に反応して光るライトに照らされて、犯罪者になった気分だ。
マリアよ、貴方は私を許してくださいますか?師よ、貴方は私を受け入れてくださいますか?主よ、私が歌う讃美歌を神様に届けてくださいますか?コンクリートに走っている数本の溝が私の体から抜き取られた血管の様で、私は自分の心臓の異様な動きを察知した。
私もこの地球の血管の一部になれているかもしれない。そんな光栄で壮大な勘違いは束の間の期待を生み、奈落の底へ私を突き落す何かの力を増大させる。蜘蛛の巣に引っかかり、私の存在は夢物語りなんかじゃないと慌てて蜘蛛の巣を取ろうとした。蝙蝠が飛びさかり、蝙蝠の影が視界に入るたびに私は怯えた。
蝶のようなスパイダーフラワー。美しく咲き誇り、四方八方に伸びる茎が、私には十字架にはり付けにされたイエスの姿に見えた。恐る恐る私はスパイダーフラワーに手を伸ばす、イヤホンから流れてくる「汝、悔い改めよ!」その言葉で私の体は硬直した。
石打ちの刑に値する私は、何度ヨハネによる福音書を読んだことだろう。しかしあんなに読んだにも関わらず、私は何度でもイエスの最初のお言葉を忘れ、何度でも私は罪深く許されざる人間だという言葉に塗り替えられてしまう。
ピヨピヨと言う小鳥のさえずりを聞いたとき、多くの人は爽やかな朝を思い浮かべるかもしれない。寝起きで定まらない視界を擦りながらカーテンを開けると朝日の輝く空に小鳥が三匹、波を描いて飛んでいる。おはよう、そう言いながら起きてきた夫に寝起きの体温の低さを知らしめようと、ぎゅっと抱き着く。
そんな幸せを小鳥のさえずりから結婚という文字を連想し脳内で再生できるのならば、万々歳だ。しかし私は小鳥のさえずりを聞くと、小鳥の首根っこを掴み嫌がる小鳥に躊躇もせず羽根を丁寧に一枚ずつもいでいき、羽根を抜き終わり現れた小鳥の丸裸の皮膚に歯を立ててその傷に指を突っ込み内臓を掻き出す、そんな連想をあまりにも鮮明に脳内でかきたててしまう。
爽やかな向かい風も私のこの思考を見抜いて追い風に変わり、厭きれた様子で私をすり抜けていく。
「どうして僕を叩いたの?」
便利な通信機器を使って聞いてきた彼。
まつ毛がそっぽを向いていたの、そう返すと私は便利な通信機器を仕舞った。
彼はきっとどんな味か分からない木の実を口にしたような気分だろう。キンキンに冷えた桃をかじった記憶が私の中に走る。中にあった種が腐り、底なしの地獄がそこにはあった。
どうして彼は私と結婚したいの?
私はマリアに問いかけた。
彼は貴方を愛しているからよ、マリアはそう答えた。
私だってそう信じたい。パラパラと降り始める雨、勿論傘など持っていない。袖から一本の糸が解れて出ていた。それを引っこ抜いて空中に捨てると、その糸は風に乗り離れないわよ、と私のズボンに飛びついた。
その執着心に既視感を覚えて私はズボンを手で払った。箒の先に付いた虫を払おうと箒を振ると手を滑らせ箒まで飛んでいくように、執着心は私からは離れず、私は天国からは遠い異世界へ執着心と共に飛ばされる。
大丈夫、彼は貴方を愛しているはずだから、マリアは私の耳元で優しく呟いた。私は先ほどしまった通信機器を再度取り出して、蛞蝓の写真を送った。しばらくして来た「きもい」という返事に人間の方がきもいよと返そうとしたけれど、私はそのまま文字を打つことをやめた。
塩をかけるだけで溶ける蛞蝓が私は羨ましくて仕方ない。私の学歴や作品は必死にしがみついていなければ蛞蝓よりも早く溶けて消えるのに、私の存在だけは忌々しく残り続ける。
雨で濡れた髪が唇に張り付くと、やけに情欲的じゃない?
自分の唇にまとわりつく髪の毛を可愛がる理由を探し出し、けれど雨脚が弱まっていることに勘づいた私は、雨が止んでしまう前にどさくさに紛れて泣いてしまおうかと思った。雨粒が落ちて跳ねた草と会話する。
「貴方は寂しい人間ね。」
「いいえ、寂しいから泣いているんじゃないの、私はずっとさもしいの。」
かぁかぁと鳴くカラスが私に雨あがりの時を伝えていた。燕が腹を地面に擦るのではないかと思うほど低く飛んだ。明日はきっと空から免罪符が降って来る。
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