第8話
言葉は刃であるとよく聞くが、私にとって彼の言葉は新たな門を開けて刺してきた強い日差しの様であった。
それは少しも輝きとか未来への希望などといった能天気な意味ではなく、吸血鬼に日の光を浴びせるような効力を意味していた。強い光であるがゆえに私は視力を失う。その言葉で私は心の沈降をまじまじと感じ、彼の喉元に目つきの刃をむき出しにした。
私の体内を巡る血液に乗って体中に流れ着く憎しみ、悲しき私の生涯は私の命の源により正の幸せを手に入れることは出来ない。彼に愛された私の子宮、母体は女であると言うことで追加された私の幻想のオプションに過ぎないのに私よりも存在価値を持っていた。
一体本当の私という人間はどこに居るのでしょう?
私は本当の私に未だかつて会ったことがない。
マリア、貴方が言ったあの言葉を今すぐに撤回してください。彼は愛と本能の見分けがついていない。
「父親が病気でもう残す人生が僅かなんだ。僕は長男だし父親を安心させたくて。」
また、男か。私の人生を翻弄させるのはいつだって男だ。男女に体の構造の差がなくなってしまえば、私はどれだけ幸せだろう。自分の欲のために女の心を消費していることに男は気が付いていない。
男を受け入れると言うこと、他人が自分の中に入ってくる感覚の気持ちの悪さ、そしてその行為が快楽として扱われていることへの苛立ちを男は知らない。まさに男は女に寄生している。それを女の幸せだと言う女も男も、私にとっては家に帰り用意された食事を食べることぐらい理解できない。
彼を父親という存在にすることを、私の全てをかけてまで阻止したい。いっそのこと、この世の中に内分泌攪乱物質をばらまいて男女の概念なんてぶっ壊してやりたい。
「聞いてる?」
彼が私の顔を覗き込んでいる。今すぐにその重い瞼に白いゼラニウムの刺繍を縫い付けてやりたい。
「お父さんのこと、心配してくれているの?」
何故私があなたの父の心配をしなければいないの?父親なんて男尊女卑の偶像のようなものだ。大体、父親に自分の子供を見せたいなんてこの世に残される者の悪あがきで自己満足でしょう?
子孫繁栄が上等なんて一体誰が決めたの。私は彼から一歩後退りをした。ふくらはぎが痙攣してマリアが私の足にかじりついているようだった。
地面が暗黒に変わりまるで海の底の居るような圧迫感、四方八方から私を押しつぶそうと目玉を引ん剝いた魚たちが一斉に私に攻撃を仕掛けてくる。
何か言われているような気がするが、私の耳には声として届かない。モスキート音のように私の意識を飛ばすこの音から私は逃れるように、今いる場から一目散に走り出した。
浅い呼吸に薄れる景色、自分の体力の限界を足のよろけで知った。コーヒー一杯でカフェに入り浸る心地で今私はこの世に生きていた。
呼吸を整えながらゆっくりと私は歩く。先ほど痙攣を感じたふくらはぎの足取りの重さから、自分が人間としての健康的な生活を送ることを怠っていることを実感し、私はふくらはぎを数回叩いた。
いつの間にか日は落ち月が顔を出していた。下着に虫が入り込むほど不愉快な今を忘れたくて、私は便利な通信機器を取り出した。けれどボタンを押しても画面が明るくならなかった。
充電がないのか壊れたのかは分からないが、明らかに今日の自分が不運であることは分かった。通信機器をしまい、一つ咳をした。月を見ているといつも思う、お前は毎日変化があるからこんなに愛されているんだぞと。
仮に月が毎日同じ時刻同じ形で人間の前に現れていたら、今ほどの存在価値はなかった。例えるなら、大切に思っている人の写真を綺麗な写真立てに入れて飾っても、数日すれば景色に馴染み特別感がなくなり目にも止まらなくなるような、そんな感じだろう。
移ろい続けるものを人間は好む、規則的なものは飽きられてすぐに捨てられる。けれど私はずっと変わらない愛が欲しい。高尚なお考えを持ち、布一枚身にまとっただけで涙を流してしまうほどお美しいマリア。
私は貴方の小指にいつまでも吸い付いていたい。イエスを産むとき、マリアは一体何を思っただろう。
私は自分の愛しい子供に生を押し付けなければならないことが、苦しくて仕方ない。私の体内に閉じ込められて私たちの意見を聞いて私たちに押し付けられた常識を持って生きていくわが子が不憫だ。
この世の人々はどうして子供を作れるのだろう。皆は生きることが辛くはないのか、自分の母性によって育まれた愛しい子供にこの世の汚いものを見せることに抵抗はないのだろうか。
何故自分のエゴで命を誕生させることに罪悪感を持たないのだろう。女は好きな人の子供を欲しがる、その言葉を最初に発したのは男ではないか?一般的な倫理観を持ち合わせていない私は男女に差を生まないよう男を卑下している。
結婚し子供を生めば私は幸せになる?病気で苦しんでいる彼の父親に孫を抱かせて、そのあとは一体どうするの?
私の判断によって生かすも殺すも自由な子供を目の前にして、私の気は狂わないわけがない。私は母親を知らないのだから、愛を知らないのだから、真実を知らないのだから。
息子がはり付けになっても神への信仰を失わなかったマリアが羨ましくて仕方ない。ある種それは処女として懐妊した羞恥からの信仰心なのかもしれない。
人は女から生まれ、人生は短く苦しみは絶えない。この聖句はどうも気に入らない。まるで女から生まれたから人は苦しい人生を生きるのだと言われているようで、それこそ男尊女卑の源泉であるかの様だ。
イエスの性別が男であり、マリアがイエスに跪いたその瞬間からこの世の不幸は始まった。神がお創りになった私たち、命の尊さを知らしめるための子を産むときに生じる苦痛には、私は一切の抵抗はない、けれど私は男が子を作る時に与えられる快楽には苦言を漏らす。
主よ、この世の人は皆どうしてこんなに苦しい思いをしてまで生きているのでしょうか?私はただ体に灯油を塗って遊んでいただけなのです。誰かが私に火を放ち、私は燃え盛りそして重さを測れないほどの灰になりました。
過去の苦しみを栄光のように大切に持ち時より太陽にかざしてみるのです。見えるのは禁忌を犯す自分の姿。
人間とは心と体、正反対の二つのベクトルの矢印の先がぶつかり合って形成されているよう。少しでも矢印の先がずれればベクトルはどんどん遠ざかっていく。何か得体のしれないものに吸い寄せられ私のベクトルたちはどんどん離れていく。
その得体のしれないものが死期であって欲しいものだ。このベクトルたちは父のいきり立った中指の様。私の胸でお眠りなさい、そう言って私に手を伸ばすマリア。
愛していると言われると死にたくなる私が、愛していると言う言葉を一番求めていることに貴方を見ていると気が付かされる。儚いものばかりが美しいこの世は卑怯だ。
彼と永遠の愛を誓うことが出来るチャンスを、私はみすみす逃した。自分の足音が鬱陶しくて、私は履いていた靴を脱いで手に持った。人気のない商店街、店の電気はとっくに消えて街が眠っている。目に留まった店頭のショーケースのハイヒール。つま先からかかとにかけて描かれる曲線が美しい女体を表している様だった。
買ってあげようか、いつか私の肩を抱いて言った男。あの時私は何といえばよかったのだろう。靴は履いて楽しむものではなく視覚的に楽しむものだと思っている私は、この男にハイヒールを買われたことでこのハイヒールを履かねばならないことが不本意でならなかった。
首を横に振って歩き出した私に男は、身長が高くなってしまうことを気にしているのかと聞いた。この男はインテリアの木目のほとんどが人間によって描かれたものであることを知らないのだろうな、と私は思った。
こんなことを考えても何もかも無駄なのだ。だって私にはどれも実現不可で無関係な世界なのだから、私の命の宿は奪い去られた。
自分に可愛げがないことも、人間として生きることが下手であることも何となく知っていた。可愛らしさを演出できる人間は可愛いがられた人間だけだ。
可愛がられた過去が自分に自信を与え、どんな対応が可愛い人間のすることなのかを教授する。私はどんな態度が人に好かれ自分がどうあるべきなのかが分からない。教えてくれる者は一人としておらず、本心で褒めてくれる人間も可愛がってくれる人間もいなかった。
私は誰の目から見ても可哀そうな子であったと思う。可哀そうな私は卑しい子になりそして悪い子になった。かたわと父に呼ばれ聖書の角で頭を叩かれた時、教えの重みと自分の罪深さを脳内に刻まれた気がした。
今でも頭皮にその時の傷が残っている。人間生活からの逸脱者としての烙印、そんなものを私は後生大事に持ってこの世に居座り続けているのだ。
後ろから走ってくる足音が聞こえ、まさかと思い振り返った。私の淡い期待は海のモズクとなりそれは知らない男性がランニングをしている足音で、それなりのスピードで私の横を走って行った。
はぁとため息をついて立ち止まると橋の中間地点で、私は橋の上から下を見下ろした。暗くて川と橋の距離感が掴めなかった。ここから身を投げるのはなかなかにべたなバッドエンドであるためそんなことはしない。
橋に腕を置いて体重をかけた。涼しい風音と鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。何度ボタンを押しても反応を示さない通信機器の真っ暗な画面を見て、自分の目が半開きであることに気が付いた。やる気のなさそうな脱力感のある表情は見る者を不快にさせる。
自分の顔に金をかける価値を見出せないため整形などする気はないが、服を選ぶように自分の顔も選べればよいのにと思う。綺麗とか美しいとかの類の言葉を投げかけられることがよくある私は、自分の顔のステータスの高さを知ってはいるが、自分という人間が気に入らない私は、例え私が絶世の美女であろうと自分の顔という事実だけで自分の顔を嫌いになる。
けれどマリアは私のまつ毛を撫でている。その光景はカレーにココナッツオイルを入れるような違和感を私に与えていた。
カミキリムシが私の腕に引っ付いても抵抗せずにゆっくりと噛まれていく私であるが、神が私に何度かお与えになった私の人生のアクシデントからは幾度となく逃げた。
それでも私は、ペットの散歩中に通信機器にうつつを抜かしている人よりかはましであると思っていた、純潔と信頼を手放すまでは。
何度でも言うが私は彼に「処女は面倒くさい」と言われた時、これはまさに神の御業だと思った。神が私に生きる苦しみを与え死への憧れを齎しているのだ、となくした純潔の名残を探しながら気が付いた。
愛があればどんな言葉も過去も笑い話、とはならず彼への信頼は一向に取り戻せない。それどころか彼への信頼が恨みに変わり復讐心となって私に帰ってきた。結果、神から受けた試練に私はことごとく敗れ私は何度も過ちを犯した。
水面に揺れる月が映りほどほどに綺麗だ。川は絶え間なく流れ続け、月も絶え間なく動き続けている。彼らに力がどう働いているのか学がないためちっとも分からないが、彼らのどちらかの動きが止まればもう片方の動きも止まるような、そんな相関関係が彼らには少なからずある気がしている。
私と彼にはそんな相関関係はない。それこそ私たちに欠落している愛の枠組みであると、彼と一緒に居ると感じる。それは愛の本質のような気もするし、不必要な戯言であるような気もする。
兎角私には、人間の愛だの恋だの美しい幻想は理解出来ない。私のような生まれつきの阿婆擦れには侵入できない領域だ、と指を咥えて見ているだけで私はだいぶ満足だった。
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