第10話

 カチカチと石と石をぶつけ火花が散らせて、南無阿弥陀仏と唱える修行僧がペタペタと歩いている。真っ黒な世界の中にいる私、遠くに羊飼いが羊を連れて黄金の草むらへ歩いて行くのが見えた。


 黄金の輝き、それはイエスの輝き、イエスこそがその台地。イエスの肩を優しく抱くこの世のすべての情を愛に変える微笑みを浮かべるマリア。彼らは微笑みあって黄金の大地にフッと息を吹きかけた。すると風が生まれ木には実が成り川には夏の晴天の如く青青しい水が流れた。命を宿した大地に満足したイエスはマリアから目を逸らし羊飼いを見守っていた。


 すると突然群れの最後尾にいた羊が一匹、黄金の草原に倒れた。慌てて羊飼いはその羊に駆け寄るが羊は羊飼いの呼びかけには一切応対しなかった。するとイエスは迷うことなくその羊の腹に手を伸ばし言った、目覚めなさいと。


 羊はゆっくりと目を開き自分の再度受けた日光の眩しさに歓喜した。羊は起き上がり畏敬の念を示すべくゆっくりとイエスに向かって頭を垂れる。すると命を育む春風が吹き新緑の葉っぱが風に吹かれてどこからか飛んできた。


 自然がイエスと羊を祝福している。イエスのナルドの香油の匂いを嗅いで自分の息子の偉業を見守るマリアは、私の中に居たときよりもずっと美しく、幸福という未知の存在を体現していた。



 私は思いきり叫んだ、何故私から命の宿を取り上げたのですか?と。


 しかしイエスもマリアも何も答えず私に見向きもしない。貴方の命の宿を私にくれませんか?マリアに手を伸ばし私はまた叫んだ。しかしマリアは手を伸ばすほどに薄れ、歩み寄るほど遠ざかる。


 行かないで下さい、私にそばに居てください、懇願にも近いこの願いはマリアに届くはずもなく、彼らはどんどん遠ざかっていく。やがて光の粒となり、星のように輝いていることしか分からない程度になった。


 未だに修行僧は私の背後に居て南無阿弥陀仏を唱えている。ゴーンと鐘が鳴り、それを合図に私は今まで見えていた景色を全て眼球にしまった。





 「大丈夫?」私の顔を覗きこんで言った彼。


 いつも感じていた暖かな眼差しの不在を感じ、私は自分の心の中にマリアの居た痕跡を何個も見つけ、マリアの喪失を悟った。


 私の不幸はこの男によって再認識され、私はマリアを感じることが出来なくなったのだ。私の真っ暗な人生の趣ある唯一の灯、私の生きる意味は貴方に愛されることでしかなかった。


 貴方に愛されていると思えていたからこそ、生きる希望を見いだせないこの世で生きる義務を背負った。貴方の愛を信じていたからこそ、私の命には価値が生まれた。私がこの世を去ることで悲しみに暮れる貴方が不憫でならず、私は生きねばならぬと思い込んでいた。 


 しかし貴方が私の元から去った今、私が死ぬことを悲しんでくれるものはいなくなり私に生きる理由はなくなった。もうこの世に私を引き留める者は誰もいない。新たな道への扉を押し開けるかのように、覗き込んできた彼の顔を押し出して私は歩き出した。


 私を引き留める罵詈雑言が聞こえた気がしたが、そんなものは都会に降る雪の如くアスファルトに吸い込まれるように消えていく。


 マリアの足跡を辿って歩き、マリアの歩幅の小ささに良妻賢母の力強いエネルギーを感じ取る。しっかりとその足跡を踏みしめていたつもりだったが、次第に私の歩幅はどうしてもマリアには合わなくなった。マリアの歩みから、のちに世間から、さらには自分から私は外れていく。



 父は私に言った、女は卑劣で醜く男にとって邪悪な存在であると。勿論この世の中のすべての女性がそうであるなんてことはあり得ないと分かっている。けれど何故か自分という人間はその父の言う女という人間性がぴったりと合致しているように私は思えた。


 父は私に自分に対する意識をくれた人だ。どんな時でも父に背かず生きてきたが、唯一マリア様のように純潔であれという教えには背いた。その過ちを私はひと時の反抗であり一種の自立と思っていた。


 けれど純潔を失って得たものは要らない性の知識と自分は幸せになれないと言う自負だけだった。失ったものは数知れない。マリアは私の理想だった。母として慕われ愛し愛されるマリアを羨ましく思っていた私は、何度自分の腹を叩き自分の血を見ようとしただろう。


 どうかもう一度私の憧れとなり私の心へ戻ってきてはくれませんか?


 暗闇を彷徨い歩きもがき苦しんだけれどマリアの姿は見えなかった。どんなに美しいマリアを思い出そうとしてもマルク・シャガールの妊婦の絵の世界しか私の目の前には出てきてくれない。


 美しさの中にある狂気を私は非常に恐れる、まさにその絵はその私の恐怖を十二分に煽る。陰陽がなくすべての色が薄ぼやけて表される世界。私が真っ黒でお粗末な存在だとしても彼の絵に入り込めば私は黒としての存在を失うほどに、彼の絵は黒を使わずに闇の世界を表現できる。


 いっそのこと私を飲み込んでくれ。この世の中の不幸をふき取った雑巾を絞り、出た汁を溜めたバケツの中に私を閉じ込めてくれ。


 幸せな未来を夢見ることすら忘れてしまうほど、私の心身を不幸の蜜に漬け込んで。テトラポットに吸い込まれ、暗黒しかない世界にただ一人で閉じ込められたい。


 首元で光るシルバーの十字架、十字架をアクセサリーにする奴は皆死ね。それか蛇の肉でもむさぼっていればいい。


 剥きかけのささくれ、皮膚から乖離して白く硬くなって生きてはいなかった。ここから私の死後硬直が始まってしまえばいいのに。固くなったささくれを噛み思い切り引きちぎると、乖離していない皮膚まで剥がれ血がにじんだ。


 ささくれの痛みは刺激にしては強く、苦しみにしては弱かった。この刺激すら生きている証となり忌々しい、煩わしい、汚らわしい、妬ましい、殺したい。


 幼少期に親指にホッチキスの芯を指してしまった時、血がぷっくりと膨らみながら出てきた。その不思議な血の動きを可愛らしく思って、私は血を拭うことも忘れてその様子を見ていた。


 意図的にホッチキスの芯を親指に刺すことは難しい。けれどみんなは私がわざとホッチキスの芯を指に刺したのだと言った。私の血が付いてしまったせいで私専用のホッチキスになったホッチキスは、私があそこを卒業してからどうなったのだろう。


 誰も触れてくれなくなったことが可哀そうで、私はそのホッチキスに泣きながら謝った。物の寿命は誰にも使われなくなった時に迎える。あのホッチキスは私に殺されたのだ。けれどそんなにも安易に殺される物たちが、私は羨ましくて仕方ない。



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