第4話

 例えば私の大切な人が泉に身を投げたとして、私はその泉に「大切な人を返して」と願って何か自分の持っている大切な物を投げ入れるとする。


 すると泉の中から私の目の前に現れた女神は、優しい顔をして私が投げ入れた物だけを返しにやって来る。その女神にとっては私の大切な人の命はどうでもよく、その物の方が価値あるように思えた。


 人生もそんなようなものである気がしてならない。他人によって価値が決められることで私たちは自分の価値を決定してしまう。以前私は、作品の主人公はいつだって受け取り手だと小説に書いた。


 受け手が面白い作品だと思えばその小説は面白い小説になる、しかし受け手がその小説をごみにすればその小説はごみになる。そんな風に思い私は自分の作品を評価されることから逃避していた。


 けれど最近とあるアーティストによって気が付いた。良い作品というのは受け手が誰であろうと良い作品になると、そして私の思考はただの現実逃避なのだと。


 自分の小説は面白くないという現実から逃げ回って、私は偉そうに自分の作品が認められないことを読み手のせいにした。そのことに気が付いた私は道端であるにも関わらず奇声を発して転げまわった。


 見慣れたいつもの道をいつもと違う視点から見た私。世の中のすべての事物が敵になったかのように錯覚した。ひとしきり暴れまわり落ち着いたところで、自分のこんな悲劇にも飽きて私は立ちあがり自分の転げまわった土に足でLOVE&PEACEと書いた。


 頭皮から汗が滴り首元に触れる。私はその汗を指にとって舐め、そして人差し指で左から右へ流れるようにデコルテをなぞり親指を立てて左から右へ首を切る動作をした。


 息を乱して呆然とする私は争い合った犬の様、私は一体誰と争ったのだろう。私にとって生きることは、テニスがしたいのにテニスシューズを持っていないようなものだ。


 左手を持ち上げると熊のキーホルダーが付いた鍵があった。こんなものを持って出かけてしまった。片道切符であるかのようにどや顔で歩いていたのに、私は馬鹿よ。早く、お帰り。私のマリアが言った。けれど今日はもう少し歩きたい。


 地面のタイルがHと書いていた。それも無数にあって、白く目立つガムのポイ捨てがなければ最高だった。どこからか、いつか学校のプールで感じた塩素の匂いが漂ってきた。塩素の匂いでいっぱいのプールと言うより、汗もかいたし青酸カリのシャワーを浴びたい気分だ。


 私の徘徊する住宅街のとある家の窓が開いていて、そこの家の住人がTVで何かを見ていることがわかる。自分の家でTVが付いていても興味が湧かないのに、他人の家のTVには興味が湧くのは何故だろう。


 今流行りの顔の良い俳優を見て、「君は美しい。」今日私の手を握りそう言った男の顔を思い出した。


 芸術家の恋はロマンティックだと、皆誤解しているであろう。もしロマンティックな芸術家がいるのであればそいつはきっと芸術家ではない、ペテン師だ。汚いものを見てしかめっ面をするロマンティックな者が美しいものを描けるわけがない。


 人間は汚いものから生まれ、綺麗なものに変わろうとする。だから人々は綺麗なものを求め続ける。


 汚いものを飲み込んで人間は初めて美しいものを生み出せるのだ。


「あらやだ、美しいと言うよりは仏苦しいですよ。」


 私はそのペテン師の手から逃れた。美しい、可愛い、綺麗、好き、大好き、愛している。その言葉を過去に何度か異性からもらった。その度に思っていた、死にたいなと。


 愛されなければ生きている意味がないと言われている気分になる。私の心は体を傷つけたぐらいじゃ救われない。アーメン、と何度叫び天に手を伸ばし涙を流しただろうか。  


 そんな過去は儚く、そろそろ私は何も感じなくなってしまいそう、どうか助けて。それはとうとう人間生活からの逸脱のようだ。


 マリア、そこに居るのでしょう?こんな時ばかり目を瞑って祈ってないで、私の背中をさすってくれませんか?私は生きたいなんてそんな贅沢は望まない、ただ愛されたい。


 神は私を愛してくださる?それは真実なのですか?


 羊飼いはたった羊一匹がはぐれようとも、その一匹を懸命に探す。


 虫けら以下の私がもしはぐれても貴方は私を探して下さいますか?人の欲に漬け込み忠実な愛を持てない私は、きっと貴方にさえ見放されてしまう。


「美しいですよ。」


 私の腰を抱いたその男は私を引き寄せて私の首筋の匂いを嗅いだ。全身に走った悪寒を馬鹿な私の脳みそは快楽と勘違いする。


 こんなことの繰り返しだ、私の人生は。マリアを追い出し男の目を見つめて返事をする私は、自分の付けている下着の色を思い出そうとしたことがない。


 一日一悪、私は花のように移ろうことはない。ただ無性生殖をしいくつもの箇所で小汚く咲き誇っているだけだ。

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