第38話 君が待つ海へ

 九月になっても、南国の太陽はまだ夏の強さを誇って輝いていた。その眩い太陽が照らす比彌ひみ島の元集落は、泥に塗れて腐臭を放ち、惨憺たる有り様だったが。


「これは、ひどいな……」


 顔を顰めて呟いたのは、足立あだちという編集者だった。須藤すどうにもらった名刺、そこに載っていた雑誌名を辿って連絡を取った相手だ。つまりはオカルト系の繋がりということで、謎の津波の生存者とい肩書と須藤の名前によって、アポを取るのは簡単だった。


『須藤君か……結局見つからないっていうのは、そういうこと、なんだろうなあ』


 退院後、実家で療養していた颯斗はやとは、都内のカフェで足立と会った。彼が見た須藤の最後の姿を伝えつつ、あの日、比彌島の海で何があったかという取材に答える形だった。比彌島の島民のどれだけが生きているかは颯斗も詳しくは知らないけれど、島の風習について外の者に語ることはないだろう。ならば島の者とも言い切れない颯斗が言うのも許されないはずで、だから彼が伝えたのは結局志帆しほに聞かされたような歪めた物語になった。


『怨霊との結婚の儀式……で、逃げようとしたら津波を起こした、って……』


 遺体さえ見つかっていない須藤に思いを馳せてだろう、沈痛な面持ちをしたのも束の間、足立は颯斗が語ったことが信じられないというように眉を顰めていた。とはいえ、頭ごなしに否定しないだけ、そういう業界に身を置いているだけのことはある、ということだったのだろう。


『須藤君は、確かにあの島には何かある、いつか記事にしたいって言ってたけどね……』

『須藤さんの家は、少し高台にありました。だから、資料やメモは無事で残っているかもしれません』


 足立の表情を伺いながら、故人や事件を利用するような話の持って行き方に自己嫌悪を覚えながら、颯斗は慎重に切り出した。


『僕が案内します。……その、メディア的にも貴重な資料になるんでしょうし。僕としても、せめてお花くらい、って思うのに親が行かせてくれなさそうなんで……!』


 颯斗の訴えに心を動かされたのか、須藤と同じような職業的好奇心からか。足立は、比彌島に向かう船をチャーターしてくれることに同意した。颯斗は、心配して引き留める親を説得して独り暮らしのアパートに戻り──そして、一か月ぶりに比彌島の土を踏んだという訳だった。




 須藤の家は、やはり被害を受けてはいなかった。普段は布団の中だったであろう時刻の津波だから、颯斗がいなければ須藤は助かっていたはずだった。須藤と雄大と、比彌島の島民全てに心の中で詫びながら、颯斗は花を供えて線香を立てた。颯斗の内心は知らないながら、足立も彼の隣で手を合わせていた。

 須藤の家で資料やパソコンを回収した後──足立が彼の知人や友人を辿って、遺族を探してくれるということだった──、二人は廃集落を後にした。


「もう一か所、行きたいところがあるんです。子供の頃の、思い出の場所で」

「ふうん……」


 荷物が増えた足立は、しきりに汗を拭いながらも例の崖までついてきてくれた。別に、先に港で待っていてもらうのでも良かったのだけど。でも、滅びたばかりの集落で待つのは、いくらオカルト雑誌の編集者でも気味が悪いものなのかもしれない。


「はあ、絶景だねえ」

「でしょう」


 崖から臨む海は、幼い頃の記憶のままに美しく青く澄んでいた。きっと、須藤と雄大ゆうだいはこの近くに眠っているのかもしれないけれど。でも、足立には言わない方が良いのだろう。今日は下りる気はないから、須藤の機材が見つかるようなこともないだろう。もしかしたら、すぐにこの辺りを調べることになるのかもしれないけれど。それは、颯斗が知らないことだ。


 荷物を地面に下ろしてしきりに腰を叩く足立を横目に、颯斗は密やかに崖の縁まで歩み寄った。視界が、空と海との青で満たされるほどに。


 心臓がどきどきと高鳴る。申し訳なさと後ろめたさが、理由のひとつ。両親と志帆には、できるだけ詳しく事情と彼の思いを綴った手紙を残したけれど、悲しまないはずがない。志帆については、さらに自分を責めることにもなるだろう。それか、怨霊たちの憎しみを思い出して、再び嫉妬に駆られるかもしれない。

 でも、母を抱きしめた温もりも、親に先立つ不孝も。志帆しほの涙も、彼女への哀れみや同情も。颯斗を止めることはできないのだ。罪悪感を軽々と塗り潰して彼の心を占めるのは──期待と、ときめきだ。


 白く波を砕けさせる海を見下ろして、そっと呟く。


「──外海とつわたのたまの白波しらなみの比売ひめ


 外国の海からやって来た、美しい白波の女神、くらいの意味なのだろう。比彌島の太古の住民が、「彼女」に贈った美しい名前だ。志帆は、それも捻じ曲げて怨霊の名前として伝えようとしていたのだ。


 名前の一部だけ、それも、他の存在を念頭に置いて呼ぶのでは、彼女は反応してくれなかった。でも背の君である者に正しく名を呼ばれたのを聞いてくれたのだろうか。波が嬉しそうに弾けた。良かった。「彼女」は待っていてくれた。島の者がいなくなったからといって、この海を離れたりしていなかった。それを確かめて微笑んで──颯斗は地面を蹴った。子供の頃と、同じように。


「──え?」


 足立が声を上げるのが背後で聞こえたが、もう遅い。颯斗の身体は宙に浮いている。全身を浮遊感が襲う。視界がぐるりと回る。大きな飛沫が上がる。海が、彼を抱き止める。


 光射す海の中の世界は、もう怖くなかった。そこで、彼女が待っているのだから。力を抜いて水底を目指す。きっと、今までのセもこうしたかったはずだ。陸での家族にとっては耐え難いことでも、彼らにとっては純粋な喜びだったはず。だって今の颯斗も、長年の宿願が叶う時の幸福感に包まれている。大した夢や目標を持てなかったのも、きっとこの時のためだ。彼の全ては彼女のためにあったのだ。


 くすくすと笑う気配が颯斗に触れた。よく来てくれたと言うかのように。甘えるかのように。そう、今までのセがここまで来たのは陸での生を終えた後だったはず。生きたままで彼女に会いに来たのは、颯斗が初めてなのかもしれない。


 待たせてごめん。ずっと一緒にいよう。そう伝えるために、腕を伸ばす──颯斗の頬に、笑みが浮かんでいた。

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君が待つ海へ 悠井すみれ @Veilchen

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