終章
第37話 覚醒
「彼女」は、幾つもの海と陸を越えて、遥かな太古の時代にあの海に辿り着いた。いわば世界の果てへと流れるうちに、彼女と似た存在の気配は薄くなっていったけれど、彼女にとっては争う必要がなかったのは都合が良いことだった。
やがて、彼女の住まいに小さくか弱い生き物が住み着いた。あまりにもひ弱だから、彼らのささやかな「巣」を守ってやらなければ、と思ったほどだ。彼らは必ずしも彼女の姿を認識しはしないようだったが、中には敏い者もいた。そういった者たちを通じて彼女を知ったその生き物たちは、次第に彼女に懐くようになった。そうなると情も湧くというもので、最初は気まぐれ程度だった庇護は、いつしかより熱心なものに変わっていった。だって彼らは彼女に名を与えてくれた。それに、彼女が見守るうちに殖えた彼らは、子供のようなものでもあったから。幸い、彼女を脅かすような存在は、そこの海には現れなかった。
穏やかな時間が、どれほど過ぎたことだろう。彼女の海に、彼女以外の住民が増えた。彼女が見守る生き物たちの成れの果てが、どういう訳か海に住み着いたのだ。ちょうど、彼女が目をかけていた個体が失われてしまって、怒りと悲しみで我を忘れてしまった後のことだった。だから多分、彼女のせいで生まれたモノなのだろう。その成れの果てはどうやら彼女に害意があるようではあったけれど、実行に移すには力が足りないようだった。だから彼女は「それ」に居場所を許し、かつてよりはひっそりと生き物たちを見守ることにした。
そうこうするうちに、成れの果ては大きく育ち、力も増していった。彼女が生き物たちを見る時間は減っていったが、彼女はあまり気にしなかった。成れの果てたちも彼女が見守るものたちの一員には違いないのだろうし、か弱い生き物も次第に成長しているようだった。彼女が力を発揮する機会も減って、多くの時間をまどろむように過ごしていた。それでも、彼女の声を聴く個体は途切れることなく生まれていたから、寂しいと思う必要もなかったし。
でも、ここしばらく彼女の名を呼ばれていない気がする。少し前に、幼い個体と目が合った気がするのは、まどろみの中で見る夢だっただろうか。そうかもしれない。彼女を認識する個体もそうでないものたちも、彼らはずいぶん減ってしまったのではないだろうか。誰もいなくなってしまったら──また違う海に流れるのも良いかもしれない。彼らがいないなら、彼女がこの海に留まる理由もないのだから。
* * *
頬を涙が伝う感覚で
「ぁ──」
起き上がろうとしても身体は言うことを聞かず、声を出そうとしても喉から出るのは
「目が覚めました。先生と、親御さんを──」
颯斗の耳に、知らない女性の声とばたばたという足音が届いた。誰かが、彼が寝ていた部屋から出て行ったらしい。扉が開いて閉じる音がする。それに、鼻をくすぐる消毒薬の香り──では、ここは病院だろうか。でも、どこの、だろう。比彌島に、病院のような大きな建物は見当たらなかったと思うけれど。
不思議に思い、かつ起き上がろうともがくうちに、再び扉が開いた。
「颯斗君!」
今度の声は、颯斗にも十分聞き覚えがあるものだった。直近で聞いたのは、電話越しに、だったけど。顔を涙でぐしゃぐしゃにした母が、彼の枕元に駆け寄ってきたのだ。
「お母さん……なんで……」
「良かった! 本当に良かった……! どれだけ心配したか……!」
「……ごめん、メールとかしてなかった……」
母に抱き着かれて泣かれるうちに、喉を少しは整えることができた。それでもややしゃがれた声で答えると、母の腕に力が篭った。船の上で志帆に掴まれた記憶がフラッシュバックする──でも、母の温もりから感じるのは愛情と不安と労りだけだったから、すぐに緊張を解くことができた。そっと、宥めるように母の背を軽く叩く。これも志帆に対してもやったことがあるけれど、親に対してのことだけに気負わずに接することができる。
ひとしきり息子を抱きしめて泣いて、颯斗が生きていることを確信できたのだろうか。やがて母は顔を上げると、きっと颯斗を睨みつけた。
「黙って朝釣りだなんて……! だから助かったのかもしれないけど……」
「朝釣り……?」
首を傾げる颯斗の前から、看護師によって母はそっとどかせられた。代わって彼の枕元に座ったのは、白衣に聴診器を首から下げた医者だった。
「海に漂流して、特別怪我も後遺症もないのは奇跡的だ。しかも津波があったのに! 本当に無傷かどうか、じっくり確かめないとね」
「漂流……?」
またも鸚鵡返しに繰り返した颯斗に、医者と母は代わる代わる事情を説明してくれた。
彼は、
「地震は観測されていなかったんだが。奇妙なことだ」
「…………」
異常な津波の原因に心当たりがある颯斗は、沈黙を貫くしかない。島の守り神と怨霊の争いなんて、口に出したら頭がおかしくなったと思われるだけだ。考えてみれば、当たり前のことだ。水の動きが一か所に留まるはずもなく、「彼女」と怨霊がぶつかり合った余波は、周囲の海に広がったのだ。そして比彌島は、その影響から逃れようがない近場に位置していた。
「小さな島なのは分かっていたからね。漁業の島でもあるから、皆、目が覚めていた時間だったのはまだ良かったんだろうが……」
津波の被害は比彌島にも及んだと聞かされて、今度は罪悪感のために颯斗は口を閉ざした。多分、漁のために起きた前園は、颯斗と志帆がいないことに気付いて慌てただろう。多分、集落の者を起こして探そうとして──そこに津波が襲ったのだとしたら、寝ている者が少なくて幸運だった、と言えるかもしれない。でも、そもそもの原因は、颯斗が密かに島を出ようとしたことにあるのだ。
「あの……被害は……?」
ようやく勇気をかき集めて尋ねると、医者も母も颯斗から目を逸らして首を振った。まだ分からない、と、決して小さくはない、と。ふたつの意味が込められているのは、それだけでも伝わってしまった。
「志帆ちゃん……」
船が逃げ切ることができたのは「彼女」の加護か、
「颯斗さん。ごめんなさい、私……」
ベッドに無気力に横たわっていた志帆は、颯斗を見上げると目に涙を浮かばせた。彼女の両親の安否は、まだ確認できていない。でも、集落への犠牲が皆無であるはずがない。人命についても、船や家屋などの財産についても。何より──怨霊が暴れ始めたすぐ傍にいた須藤と雄大については、楽観的な予想などできなかった。
志帆の頬から血の気がないのは、故郷があまりにも大きな痛手を負ったことを知ったからだ。医者や看護師の会話から、颯斗にもことの重大性が分かってしまっている。少子高齢化が進んだ過疎の離島のことだ。たとえ住民が全滅したのでなくても、港や家が海水に浸されてしまっては復旧は難しい。比彌島に人が戻る可能性は、ほぼないということだ。
「私は、こんなことになるなんて──っ」
「うん。志帆ちゃんのせいじゃないよ」
比彌島が滅びたことで、志帆は「憑き物が落ちた」のだろうか。先祖の怨念から、逃れることができただろうか。でも、そうだとしたら罪の意識が押し寄せるはずだ。颯斗を突き落としたことなんて些細なことに思えるくらいの重責が、彼女の肩にはかかってしまっている。
「全部、俺のせいだから」
颯斗はそう言うと志帆を抱き寄せた。嗚咽を漏らして彼に縋りつく志帆を、可哀想だとは思う。でも、それだけだ。彼女は、彼にとってやはり「違った」。
全ては彼のせいだと言ったのは、志帆を慰めるためではなく、単に事実を述べただけだった。島を逃げようとしたからでも、志帆を選ばなかったからでもない。恐ろしいほどの被害が出て、少なくない人の命が失われたと聞いてもなお、彼の心を占めるのは「彼女」だった。
誰もいない海で待つ「彼女」こそ、抱きしめてあげたい。泣いている志帆が腕の中にいるとうのに、颯斗はそれしか考えられないのだ。
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