第36話 海神の姫
「津波……これが……!」
迫りくる水の壁を前に、
「今のうちに、船を出してください。早く!」
だから、
「待ってください。もうちょっと……!」
だが、颯斗は揺れる船上でよろめきながら、転がるように槙田に追いすがった。今、船を出されては困る。「彼女」の住まいは、
「何言ってるんだ!? おかしいんじゃないのか? 何かに取り憑かれてるのか!?」
槙田が叫ぶのだって、全く正しい。自分以外の人間の命を懸けてまで、どうしてこうも必死になってしまうのか。彼自身が海の藻屑となるならともかく、他の二人を道連れにしてまで、どうしてこの海に留まりたいのか。「彼女」に会わなければならないと思うのか。取り憑かれているというならそうだろうし、おかしいと言われるのも当然だ。
だが──とにかく、彼はほんの数秒の時間を稼ぐことには成功してしまった。比彌島から押し寄せる白い波は早く、今にも小さな船を呑み込もうとしていた。ここから船が加速したところで明らかに間に合わない。時間が巻き戻ったかのように、空が、黒く立ち上がった水によって翳る。
「くそ……っ!?」
「きゃ──」
槙田と志帆の悲鳴を聞きながら、颯斗も全身に力を込めて衝撃に備えようとした。──が、目を閉じて俯いた彼の頬を、海水の雫が濡らすだけだった。痛みも苦しさも、夜明けの海の水の冷たさも、ない。恐る恐る目を開けた颯斗の視界に映るのは、先ほどまでと同じ、朝焼けに染まる海と、比彌島の島影。海も「姫」の来臨を表してか、渦巻き、不穏にうねっている。でも、明らかに異様なこの渦こそが、襲い来る津波をいなし、船が粉々にされるのを防いでくれたのだろう。
「助けてくれた……?」
「どうしても渡さない気……!?」
颯斗が呆然と漏らした呟きに、志帆の叫びと、足を踏み鳴らす音が被さった。津波の直撃を避けたとはいえ、先ほどからの揺れと波によって、船も三人もびしょ濡れだ。水に浸りきった志帆のスニーカーが、ぐしょりと重たげな音を立てる。さぞ冷たくて不快だろうに──などと思うのは、現実逃避だろう。志帆は、明らかに白波の、怨霊の目線で発言している。
「志帆ちゃん……!?」
「逃げなきゃ。颯斗さん、今のうちに……!」
「今のうちって、でも──」
ついさっき、颯斗を睨みつけて
「今度こそ、私が奪ってやるの。今までずっと奪われてきたんだから……だから来て、颯斗さん。諦めて……!」
颯斗の腕を掴む志帆の指は強く、痛みを感じるほどだった。彼女の強い意志が力になって表れているのか、それとも人間ではないモノが宿っているからか。いずれにしても、
「い、嫌だ……諦めない……!」
でも、彼だって譲れない想いがあるのだ。きっと、これまでセに選ばれた男たちもそうだった。陸の妻の立場を押し付けられた女性に同情しつつ、甘く誘う海に抗うための錨として利用することに後ろめたさを覚えつつ、「彼女」に惹かれるのを止められなかった。颯斗も、どうして志帆は「違う」のか不思議でならなかったけれど、どうしても彼女を好きになることはなかった。彼の心は、前に島に来た時に、とうに「彼女」に渡していたのだ。
「俺は、「彼女」のためにこの島に来たんだ!」
「そう……」
分かってくれたのか、と思った。志帆の目から、奇妙な熱っぽさが消えたから。颯斗の腕が、彼女の絡みつくような指から解放されたから。セの儀式について、やっと教えてくれるのかと思って安堵の息を吐いた颯斗は──
「じゃあ、しょうがないね」
すぐに、勘違いを思い知らされることになった。
志帆が力を抜いたのは、次の動作に備えてのことでしかなかったのだ。つまり、両手を使って颯斗を船の外に突き落とす、という動作の。船の揺れも計算に入れてタイミングを窺っていたのか、それなりに身長差もあるはずなのに、颯斗の身体は驚くほどあっさりと海に投げ出された。ちょうど高く上がった波が、巨大な生き物の
「一緒に逃げてくれるかと、思ったのに……!」
濁った海水越しに見えた志帆の頬に、涙が見えたのは気のせいだろうか。細かな表情を見て取るには、太陽の光はまだ遠い。ただ、これもまた志帆だけの言葉ではないのだろう。きっと、最初の前園の娘、白波と呼ばれる女も、セに選ばれた恋人に逃げようと乞うたのだ。そして、断られた。その記憶も、志帆たちを突き動かす原動力のひとつだったのだろう。
海に呑まれた颯斗は、流れに翻弄される枯葉の気分を味わった。人一人の質量など、海の広さと深さの前では葉っぱ一枚よりも軽く脆い。
「……っ」
そして、前に溺れかけた記憶よりもなお、今の海は暗く冷たかった。光のない世界では、上下左右の区別はつかない。口から洩れる泡の行方で確かめようにも、視界は闇も同然だった。手探りで何かに触れたと思っても、それはすぐに流れ去ってしまう。その間にも、絶え間なく水にもみくちゃにされ、船からどれだけ離れたのか、水面はどれだけ遠いのかも分からない。
海水が肺を満たすのを感じながら、もう終わりだな、と思う。走馬灯というやつなのか、両親や友人たちの顔が頭を駆け巡る。前園に黙って出てきてしまったから、颯斗は失踪扱いになってしまうのだろうか。「彼女」の懐に抱かれると思えば良いのか──でも、白波の手に堕ちたくはない。
「…………?」
どうしてこんなに考える余裕があるのだろう。津波の力があれば、人間の身体を粉々にするのは一瞬ではないのだろうか。身構える暇もなく海に投げ出されたから、息を整えてさえいなかったのに。
気付けば、冷たさも息苦しさも感じなくなっていた。海の中だというのに、なぜか居心地の良ささえ感じる。守られていると、感じる。水底の世界は颯斗を拒絶するのではなく、受け入れてくれているかのような。「彼女」が、すぐ傍にいるのだろうか。セを奪うべく波を起こした、白波を退けて?
──神様との結婚式では、何をするんだろうね?
思い出すのは、昨日須藤とやり取りしたメールだ。
──神前式や仏前式も、趣旨としては神様や仏様に結婚を報告するってことだ。でも、その神様がお相手の式では、どうなるのかな。契りの盃を交わすとか、お清めはありそうだけど。
そうだ、彼は儀式をしなければならないのだ。晴れて、「彼女」のセになるための。海の中では、どうして生きているのかも分からない有様では、できることなどないかもしれないけれど。そもそも、颯斗は既に息絶えていて、幽霊になっているのかもしれない。
でも、周囲で「彼女」と白波が争っている気配は確かに感じる。波は、海はまだ荒れ狂っている。白波は、「彼女」を狙って暴れている。このままでは、比彌島の集落も、浜辺に残してきた須藤や雄大も危ないのではないだろうか。志帆と槙田は、船を出すことができただろうか。
「…………!」
焦りが、颯斗の口から空気を吐き出させた。肺の中の酸素はとっくに尽きているだろうに、どうして考えることができるのかは分からない。いつまで持つのかも。それでも、考えなければ。儀式を成立させるため、白波を抑えるために、何ができるのかを。
指輪の交換なんてありえない。颯斗が一人で呼ばれたからには、親の出番が必要ということもないはず。呪文というか
──姫神様のお名前を誰も言わないのは、意味があるのかもね。セしか呼べないとか、それこそ儀式の時じゃないと言ってはいけないとか。
それは、合っているかもしれない。前園たちが「彼女」の名を口にしていたら、颯斗はもっと早く志帆との話の齟齬を確信していただろう。志帆は、儀式の相手の名が伏せられているところに付け込んだ、ということなのかも。
それでは、颯斗は「彼女」の名を知らないといけない。というか、知りたい。ずっと思い続けていた相手の名前なのだから、声に出して呼びたい。
名前を教えて。
そう心で念じると、弾むような嬉しそうな、暖かい思いが伝わってきた。「彼女」も、颯斗と同じ気持ちだったのだろうか。日高という先代のセがなくなってしまって、寂しかった? あの夢を見始めたのも、「彼女」と呼応してのことだったのだろうか。それなら、ずいぶん待たせてしまった。
颯斗の視界を光が満たした。暗かった海中が、照らされていく。とうとう朝日が昇ったのだ。同時に、繋がった、と思った。これがセになるということ。
脳にかかった負荷の重さに身体をよじると、少し休みなさい、と言葉に拠らずに言われた気がした。だから颯斗はおとなしく力を抜いて目を閉じた。
「彼女」は守ってくれると、もう確信できていた。
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