第35話 悲願

「何なんだよ、これ……っ! 君ら、知ってるの!?」


 志帆しほが答える前に、船の主である槙田まきたの声が、響く。船のエンジン音も唸り続けているけれど、船が進んでいる様子はない。現代の船なら白波に干渉されることなく突っ切れるだろう、という志帆の推測は、どうやら希望的観測でしかなかったようだ。

 思い描いていたであろう前提を崩されて、でも、志帆はそれを認めようとしていないようだった。


「嫌! 絶対に嫌! 船、出してください! 島から離れればきっと大丈夫……!」


 颯斗はやとに叫び、槙田を叱咤する。どうあっても、彼女は儀式を成立させたくはないらしい。波に弄ばれて揺れる船の上で、毛を逆立てた猫のように興奮した志帆の姿はいかにも危うい。バランスを崩した拍子に海に落ちたりしないよう、かといって下手に近づいて暴れさせたりしないよう、颯斗は手をそっと差し伸べることしかできない。


「志帆ちゃんの気持ちは、少しは分かると思うんだ。知らない奴と結婚させられるのも、島のためだから仕方ない、みたいな扱いも、嫌……だよね?」


 彼自身も船縁ふなべりに掴まりながら、颯斗は慎重に言葉を選んだ。志帆の動機は、ある程度分かると思っているのだ。彼女に寄り添い、心をほぐすことができたら、頷いてくれるかもしれない。恐らくはごく簡略化したものしかできないだろうけど、颯斗がセになる儀式を執り行うことができれば、白波と呼ばれる存在は鎮まる。そして、この船を翻弄する波も収まるはずだ。


「それは分かるから、それに、俺もそんなのは嫌だから、この船に乗せてもらったんだよ。でも、このままじゃもっと沢山の人が死んじゃうかも、なんでしょ? 雄大ゆうだい君みたいな気持ちの人を、これ以上増やしちゃいけない……!」


 幼馴染の青年の名を聞いて、志帆の頬が強張った。雄大と、死んでしまった拓海たくみへの思いも、彼女を動かしてくれれば良い。人が死んでも構わないなんて、志帆もそんなことを考えてはいないだろうと思いたい。


「えっと……俺が出て行っちゃえば、島の人たちは儀式が行われたかどうか分からないでしょ? ずっと白波に怯えることになる。……それじゃ、ダメかな? 島の伝統とか風習が嫌なら、それで復讐には、ならない? お母さんは、俺が多分最後のセになるって言ってた。ここで曖昧にしておけば、セの儀式も有耶無耶になって終わるから……!」


 波の動きは刻刻と変わり、時に人を振り落とそうとするように激しく揺れ、一瞬凪いだかと思えば下から突き上げるようなうねりが襲う。揺れる視界に酔いそうになり、波飛沫を浴び、あるいは揺れによってよろめいては言葉が途切れる。それでも、颯斗なりに言葉を尽くしたつもりだったのだけど──


「嘘吐き」


 志帆の答えは、ごく短い糾弾だった。彼女の口元こそ笑っているようにも見えるけれど、それは紛れもなく嘲笑だった。お前の欺瞞は分かっているぞと、暴き立てるかのような。でも、颯斗に嘘を吐いたつもりなどないのに。


「え、何が──」

「私のことなんて考えてない癖に! 『あいつ』のことで頭がいっぱいの癖に!」


 不安定に動く船上なのに、志帆は無造作に足を踏み出すと、颯斗の鼻先に指を突き付けた。まだ辺りに残る薄闇に、彼女の目の輝きと、舌の赤さだけが浮かび上がるかのよう。エンジン音にも波音にも負けず、志帆が張り上げる声は朝焼けに染まりつつある空に響いた。


! セはなんか見向きもしないで、『あいつ』ばっかり!」


「志帆ちゃん……?」


 呼びかけながら、颯斗は違う、と思っていた。目の前にいるのは、志帆では──志帆だけでは、ない。白波と呼ばれる存在は、前園の娘の恨みを蓄積してきたと、彼女自身が語っていた。それを聞いたのは、夜の海でのことだ。白波の憎悪に触れた颯斗に、志帆はそう説明したのだ。恋人同士のように身体を寄せて、けれど心はお互いに離れたままのはずだった。でも、颯斗を睨みつける今の志帆は、悔しさに歯噛みしているようにも見える。まるで、恋人の心変わりを詰るかのように。


 手を繋いできた時、身体を触れ合わせた時。──彼を押し倒して、圧し掛かって来た時。志帆は、彼を心変わりさせようとしていたのだろうか。そしてその度に、無駄なことだと思い知ったのだろうか。颯斗にとっては不思議で、そして海への思いを新たにすることだったけれど──志帆としても、何らかの感情を掻き立てられていたのだろうか。そして、その感情とは──


「絶対に渡さない。セは『あいつ』と心を通わせてしまうもの。! ! 『あいつ』だけ好きな人と結ばれるなんて、許さない……!」


 嫉妬。憎悪。屈辱。怒り。多分、彼が白波と呼ばれた存在に触れた時に流れ込んできた感情だ。それを凝縮させたものが、志帆の中にも渦巻いている。前園の血に流れて受け継がれてきたものなのか、かつてのセの、陸の妻たちと同じ立場ゆえに芽生えた思いなのか。


 夜の海で、志帆が漏らした言葉が颯斗の耳に蘇る。全ての原因は白波なのに、と彼が呟いたのに答えたものだ。


『それか、白波の恋人を奪った姫、かな。でも、手を出せる相手じゃないからね……』


 あの時は、「姫」は昔話の名もない登場人物に過ぎなかった。でも、今ならあの言葉も意味合いが変わって聞こえるのではないだろうか。白波が蠢く間は、「彼女」は息を潜めている。だから会えない。手が出せない。でも、今は白波は颯斗の人形を追って浜辺に留まっている。だからなのか、「彼女」はこの船に惹かれるように現れた。それなら、今なら……?


「志帆ちゃん、何を……!?」


 颯斗の考えがまとまる前に、志帆が動いた。揺れる船上を軽やかに数歩駆け、船尾へと辿り着く。船が背にしようとしていた比彌島、朝焼けにより鮮やかに姿を浮かび上がらせようとしている島影に向かって、彼女は叫ぶ。


! ! 『あいつ』が、ここにいるの! 浮かんできてるの!」


 叫んだのは志帆なのか、前園の娘の切なる願いが声になったのか。この世のものではない存在に、人の声が届く理屈も分からないけれど。でも、白波は、彼女の末裔の声を聞き取った、らしかった。


 比彌島の浜辺で、海が弾けた、と見えた。映画がとか特撮の爆破シーンのように、波が高く上がる。宙に踊る白い波は、そのまま鎮まることはない。こちらへ──颯斗たちが乗る船へ、押し寄せてくる。船を捕らえる渦と同じく、意思を持つとしか思えない早さと真っ直ぐさで。獲物を狙って駆ける獣のような勢いで。


「津波……!? 次から次に、何なんだよ……!?」


 悲鳴のような泣き言のような叫びを上げる槙田を、気の毒には思った。でも、彼にも説明する時間も余裕もなかった。激しさを増す揺れに、海に投げ出されないようにしがみつくのが精いっぱいで。


 ただ、頭の片隅で思う。


 恋人と引き離されて死んだ女、なんて。そう伝わっているというだけだ。白波は、生前から恋人を奪われないことしか考えていなかったのかもしれないと、颯斗だって考えたのだ。だから恋人を、当時のセを殺したのかもしれないし、死後はその代償として島の男たちを狙うのでは、と。でも、白波の狙いは違ったのかもしれない。「姫」が全ての元凶だと、白波が考えているのだとしたら。海の底に潜む「彼女」に挑むためにこそ、白波は身を投げたのではないのだろうか。人の身では敵わない神に、人でなくなることで立ち向かおうとしたのだとしたら。

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