第34話 渦

 空はすみれ色に染まりつつあるけれど、比彌ひみ島の島影はまだ夜の闇の中に沈んでいた。だから、崖下の浜辺で颯斗はやとたちを見送ってくれた須藤すどう雄大ゆうだいの姿は、槙田まきたの船が島を離れるとすぐに、影に紛れて見えなくなった。


「屋久島まで二時間ってところかな。まだ暗いから寝てても良いし、朝日を待ってても良いし」

「ありがとうございます。そうですね、せっかくだから起きています」


 島を無事に出た段階で、槙田は「謎の島」は噂に過ぎないと高を括ったのかもしれない。ごく気楽に気さくに笑いかけてくれたけれど、颯斗は首を振り、船のへりから海を覗くことにした。空が明るくなるにつれて、海も深い闇の色から青みを取り戻しつつある。どの色味であろうと、底知れず深く、何が潜んでいるか知れないのは変わりないけれど。


 志帆も、颯斗に倣って彼の隣に腰掛けた。槙田は本来は釣り人向けのサービスを提供しているのだったか。それなら、いつもは仕掛けた釣竿を見守りながら釣り人たちが座るのかもしれない。


「颯斗さん、気を付けてね。船が走ってるんだから」

「うん、大丈夫」


 思えば前園まえぞのにも行きの船で志帆と同じことを言われたな、と思いながら、颯斗は海を見つめ続けた。吸い込まれるように海に落ちるのが怖いと思ったのは、そんなことを無意識にしてしまう理由が分からなかったからだ。でも、今は違う。彼は、ずっと比彌島を守っていた何かと目があって──多分、「あちら」からも好意めいたものを向けられている、はずだ。そうと分かれば、海に惹かれるのは「彼女」に惹かれているということ。怨霊に、人違いで狙われていると思い掛けたのは不本意だったけど、彼の直感が間違っていなかったなら、何も怖いことなどない。セに選ばれるのはかつては名誉なことだったと、前園も言っていたことだし。


「颯斗さんってば──」


 俯いたままの颯斗に業を煮やしたのか心配したのか、志帆が彼の視界に入ろうと身を乗り出した。続けて何か講義めいたことを言おうとしたのだろうけど──彼女が次に発したのは、実際には息を呑む鋭い音だった。

 彼らが乗る船を中心に、海がうねり渦を巻いている。風もない雲もない、嵐の気配などはないというのに。まるで大きな「何か」が、この船の周囲を泳いでいるかのよう。まだ夜の気配が濃い薄闇の中、海の中を見通すことはできないし、そもそも肉眼で渦を巻き起こすモノの正体が見えるとは限らないのだけど。


「な、何だ、これ……!?」


 船首から聞こえる槙田の上擦った声が、渦は船全体を取り囲んでいるのだと分かる。颯斗が目を上げてみると、遠ざかる一方だったはずの比彌島の黒い影は、大きさを全く変えていない。渦に捕らえられて、槙田の船は進むことができなくなっているらしい。


「白波だ……やっぱり、追いかけて来た……!」


 海水のうねりは波を呼び、高く上がった飛沫が颯斗たちを濡らした。額に貼りついた髪をけながら、志帆が叫ぶ。その顔には不安や恐怖など欠片も見えず、むしろなぜか嬉しそうに微笑んでいた。


「颯斗さん、須藤さんからもらったやつ──」

「違うでしょ、志帆ちゃん」

「え──」


 でも、颯斗が静かに首を振ると、志帆は笑顔のままで固まった。騙していたこと、嘘をついていたことはバレているのだ、と。彼の言葉が理解できないのか、理解したくないのか──志帆を気の毒に思いながらも、颯斗は彼女の欺瞞を容赦なく暴く。


「白波……っていう名前も、本当にそうか分からないけど。とにかく、『これ』は恋人を取られた女の幽霊じゃないでしょ? 比彌島──姫の島の、主? 神様? とにかく、拓海君を殺したのとは違う存在でしょ?」


 セを見極める儀式を、颯斗は目にしたことがない。雄大や亡くなった拓海は立ち会って、そして何も起きなかったのだろう。でも、セを連れて行けば、海が騒ぐのだという。颯斗は、彼を駆り立てる衝動の強さからも、白波と志帆が呼ぶ存在に狙われたことからも、本物のセで間違いないはず。「彼女」は、夫を迎えに現れただけなのだ。それに対して人型を投げろ、という志帆は──「彼女」こそを騙して、引き下がらせようとしているとしか思えなかった。


「なんで……いつから……」

「何だか変だと思ってたのは、ずっと。志帆ちゃんが言うみたいな、逆恨みや人違いで狙われてるんじゃない気がしてたから。他にも色々……自分で気付いたり、お母さんに教えてもらったりもした」


 それに、須藤からも。比彌島を再訪して以来、颯斗の目的の「彼女」は姿を見せてくれなかった。白波と呼ばれる霊が蠢く気配がしていただけで。それはなぜか、そして、なぜ前園たちはセの儀式を行おうとしていたか。それに対する仮説を、須藤はメールを通して教えてくれたのだ。


 ──白波の霊は、前園家の女たちの恨みも吸収して巨大化している。それなら、相当なけがれの存在になっていてもおかしくない。そんなヤツがうろうろしていたら、神様だって出てこられないんじゃないかな。


 神に祭り上げられた怨霊、ではなくて。その怨霊が生まれる前から島を守っていた海神という概念に、須藤は夢中になっていたようだった。メールの文面からだけでも、彼の饒舌ぶりがはっきりと聞こえるようだった。そんな須藤なら、どうせなら怨霊よりも神そのものを目にしたいと思うのは当然のことだ。だから──須藤は、今、この瞬間も、浜辺でカメラを構えているに違いない。


「儀式をすれば、白波も鎮まるんでしょ? じゃあ、それを今、ここでやろう」


 ──セっていうのは、男性の巫女のようなものなんだろうね。神様との相性がすごく良い人。だから、先代のセの死を切っ掛けに白波は活性化する。凝り固まった恨みで、セの候補を狙う。神様も人の世界に干渉できなくなってしまう。でも、無事に次のセを立てることができたら、神と人のチャンネルは確立する。セを目印にして、比彌島の姫神は島を守る力を発揮しているんじゃないかと思う。


 須藤の推測は、颯斗にとって希望だった。そして指針となるものでもあった。彼と「彼女」が接触すれば、白波はいなくなるのかもしれない。それによって比彌島が安寧を得るのはもちろんのこと、そうなれば──「彼女」に、会える。彼が海に出れば、「彼女」は現れる。渦によって船は揺れ、不穏に上下を始めていたけれど颯斗の胸は甘く高鳴っていた。


「志帆ちゃんも、少しは内容を知ってるよね。その、儀式の……?」


 志帆の同行を認めたのも、このためだった。何をすれば良いのか、彼には全く分からないのだから。彼女が望まないのは百も承知で、自らにも危険が迫れば、もしかしたら心を曲げてくれるのではないかと思ったのだ。彼女自身を人質に取るような、卑劣な考えだとは分かっていたけど──


「──嫌!」


 そして、志帆は間髪を入れずに激しく首を振ったけれど。分からない、ではなく嫌だ、との答えで、儀式の内容自体は知っていることを伝えているのは、彼女にとってはもうどうでも良いことなのだろうか。


「須藤さんからもらったやつを投げて! 颯斗さんの身代わりになってくれるんでしょ!?」

「ああ、あれね……」


 颯斗は、ポケットを探ると薄い木の板を取り出した。クッキーのように人の形に切り取られ──その表面には、何も書かれていない。


「今は須藤さんが持ってるよ。だから、白波はあっちに行ってるはず。これじゃ身代わりにはならないだろうから──やっぱり、俺じゃないと」


 暗がりの中で、須藤は颯斗に渡す人形をすり替えていたのだ。颯斗の名前を記し、彼の髪と爪を張り付けた人形は、須藤が手元に確保している。神を目の当たりにするため、怨霊を間近に観察──できるものなら──するため。須藤は、颯斗に協力してくれた。


「志帆ちゃん……!」


 期待を込めて──同時に、縋るように。颯斗は志帆に呼びかけた。

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