第33話 ヒトガタ

 時刻は三時を回ったところだった。余裕を持って早めに出発したことに加えて、須藤すどうの準備の良さによって崖を降りるのもかなり楽だったし、迎えの船が来るまでにはまだ時間がある。といっても、もちろんぼうっとして過ごす訳にはいかないのだが。

 須藤は、やたらとごついバッグも携えていた。彼が中を探った時にちらりと見えたのは、いかにも高価そうなカメラだったような。高性能な機材なら幽霊を捉えられるかどうかは分からないけど、とにかく須藤は今夜を取材のチャンスと見て気合が入っているらしい。

 ただ、今はまだカメラの出番ではない。彼が取り出したのは、薄い木の板を人の形に切り取ったものだった。形だけ見れば、ジンジャークッキーに似ていなくもない。ただ、木の板の表面には何やら文字が書いてあるのが怪しげだった。


人形ひとがたに肩代わりしてもらうのが、まあ定番かなと思って」


 須藤が人形を証明の光の中にかざすと、文字の中には読み取れるものもあった。坂元颯斗──それに、彼の生年月日も。昼間のうちに志帆しほ経由で尋ねられていたから、何に使うのだろうかとは思っていたけれど。


「これが、颯斗はやとさんの身代わりになってくれるんですか……?」

「そう。あ、生年月日間違ってないかどうか確認してくれる?」

「あ、はい」


 須藤から人形を受け取った颯斗は、言われた通りに数字を確かめた。手で実際に触ってみたそれは、ただの木の板でしかない。真新しい、特別な謂れがあるものでもなさそうだし、文字を書いたのも筆ペンだろう。


「問題ないです」

「じゃあ、髪と爪をちょうだい。それで、より君の気配が濃くなるはずだから」

「はあ」


 これまた準備良く爪切りを差し出されて、颯斗は大人しく指の爪を切り取った。夜に爪を切ったら云々が頭を過ぎるけれど、ジンクスを気にしている場合ではない。

 爪の欠片と、適当に引っこ抜いた髪の毛を人形に留めるのは、なんとテープだった。何を使えば「それらしい」かは分からないけれど、あまりのチープさに颯斗たちは無言で視線を交わし合った。耐えきれずに須藤を質したのは、雄大ゆうだいだった。


「こんなんで、騙されてくれます……?」

「幽霊というか『あちら側』のモノは、人間のような目を持っている訳じゃないと思う。実際、坂元君以外の島の人も狙われている訳だしね。その──白波という霊は、セの可能性がある人を襲う、ってことなんだろう。自分が惚れたはずの相手も分からないなら、人間と人形の区別だって」

「俺たちは人形じゃないですよ……」


 いわば人違いで友人を殺された雄大は、不機嫌に吐き捨てる。もしも須藤の用意した人形が功を奏したら、それはそれでその程度で良かったのか、という思いは拭えなくなるのだろう。全ての島民が人形を持ち歩くのは、現実的ではないとしても。


「ああ、ごめんごめん。それは、もちろん」


 雄大の憤りをさすがに察したのか、須藤は宥めるように苦笑した。


「まあ、緊急措置だから。島から抜け出すまでの間、目くらましになれば良いってところ。何度も言うけどしょせん素人の見よう見真似だしね……」


 言いながら、須藤は人形を颯斗の手に押し付けた。


「海で『何か』が起きたら、そいつを投げつけてみて。君だと勘違いしてくれたら、時間稼ぎくらいはできるかもしれない」

「はい、ありがとうございます」


 全ては、まだ分からないこと──そう、肝に銘じながら、颯斗は薄い木の板としか思えないそれをポケットにしまった。




 四時になるまでに、志帆は颯斗に同行して船に乗ることを、須藤に同意させていた。もちろん、須藤も眉を顰めていたけれど。船上で白波──と志帆が呼ぶもの──に対抗できるのは彼女だけだ、と言われて頷かされていた格好だった。


「……僕が関わっていたことは絶対に知られないようにしないとね。元々そうだったけど。この島の暮らしも、気に入ってるしね」

「でも、記事にしたらバレちゃうでしょ?」


 身体を冷やさないように浜辺をぐるぐると歩き回りながら、颯斗は尋ねた。須藤がこの場にいたこと自体は隠せるかもしれないけれど、雑誌やネットにでも記事が出てしまったら、島民にいつ知られるか分かったものではない。須藤は今の生活を捨てる覚悟でやっていたのかと、急に不安にもなってしまう。

 案じる思いもあっての問いかけなのに、須藤は例によって軽い調子で首を傾げるだけだった。


「そこだよねえ。体験さえできれば満足できるのか、やっぱり世に出したくなるかは自分でも分からないんだ。まあ、記事にするとしたらこの島は引き払わなきゃだろうけど──あ、来たね」


 須藤の呟きに、颯斗たちはいっせいに海に目を向けた。まだ暗い闇の中に、ぽつんと灯りが現れている。それは、真っ直ぐに彼らがいる浜辺を目指している。須藤が依頼した海上タクシーの船だろう。大掛かりな照明機材は灯台の意味もあったのだと、颯斗はやっと気付いた。


 浜辺に着いた船は、前園の所有の福栄丸よりは小さく、けれどより流線型のシルエットで速度が出せそうなデザインをしていた。フェリーや福栄丸よりも海面が近いことは不安要素かもしれないけれど、スピードが出せるなら逃げ切る方向に希望は持てる、だろうか。

 船は、浜辺から少し距離を置いて止まり、船主に掲げた灯りが動いた。操縦手が、灯りを携えて下船したらしい。膝のあたりまで届く海水をかき分けて、手を振りながら現れたのは、須藤と同じ年頃の男だった。照明機材の強い光に照らされた顔は、前園のようによく日に灼けている。海の男の顔だった。


槙田まきたさん! おはようございます! 急なことで、すみませんでした」

「須藤さん、どうも久しぶり──いや、比彌ひみ島のアレは気になるからね。ちょうど空いてて良かった。えっと、『どっち』が、その……?」

「僕です」


 槙田と呼ばれた男の視線に応えて、颯斗は波打ち際へと足を進めた。比彌島の変わった風習のせいで島から出られなくなった、と。決して間違いともいえないざっくりとした説明を、須藤はしているらしい。


「あと、こっちの女の子も。放っておくと、島のために二人で結婚しなきゃいけないそうで」

「はあ、駆け落ちの逆みたいなことなのかな……?」


 面白がるような同情するような、曖昧な笑みを槙田は浮かべた。須藤の呼びかけに即座に応じるだけあって、好奇心旺盛な男なのかもしれない。周辺の島々や海に関わる人々にとって、比彌島はどんな存在で、どんな風に語られているのか──颯斗の方でも気になるけれど、今はそんな場合ではないと判じて、大人しく槙田に頭を下げる。


「ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」

「いや、謎の島に来られてちょっと夢が叶ったくらいだから。こっちも仕事だし、気にしないで」

「謎の……?」


 颯斗が首を傾げるうちに、志帆もすっと彼の隣に並んでいる。島の風習による結婚から逃れるための計画だというのに、まるで彼の傍にいるのが当たり前だとでも言うかのような表情で。あるいは、槙田が何か口を滑らせることを警戒しているのかもしれない。何か──颯斗に気付かせてしまうようなことを。


「昔からこの島には近かない方が良いって、この辺では言われててね。この辺りにくるとエンジンがおかしくなるとか、舵が効かなくなるとか、ね? でも、行きはそんなことなかったから、ただの噂だったのかな?」


 いずれにしても、ただの噂でないのはこの場の誰もが知っている。槙田が同意を求めるように一同を見回しても、誰も表情は硬く、答えて笑うことはなかった。

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