海へ
第32話 暗夜行路
少しばかりの仮眠を取った後、
集落を出たところで、二人は
しばらくは、一行は押し潰されそうな闇の中を無言で進んだ。雄大と志帆が携えて来た懐中電灯を灯したのは、集落から見つかる恐れがなくなるところまで来てからのこと。幾らか歩きやすくなり、速度も上がっても、深夜の草むらや木立は怖かった。小さな灯りは、かえって濃く黒い影を生む。三人分の靴が地面を擦り、足が草を踏む音が時折止まり、あるいは不自然に大きくなって、お互いに怯え緊張していることを伝えていた。きっと、誰かが影を何かと見間違えたり、何かが現れたと思って飛び跳ねたりした気配なのだ。
集落から十分離れたと確信してか、それとも闇の重さに耐えかねたのか、志帆が口を開いた。
「──
「それは助かる」
「暗いからな……落ちないようにしないと」
闇への恐怖と緊張に神経を消耗していたのは同じだったのか、颯斗と雄大がほぼ同時に志帆に答えた。同時に、颯斗の裡には新たな恐怖も芽生えるけれど。あの道なき道を、手探りで降りなければならないことに改めて思い至ったのだ。
彼の呼吸が乱れたのに気づいたのか、背中が引きつりでもしたのか、志帆は今度は颯斗だけに呼びかけた。
「颯斗さんは大丈夫そう? 一番慣れてないでしょ」
「大丈夫……と、思う。一回通ったところだし」
その一回の記憶を反芻しながら、颯斗は慎重に頷いた。闇の中で、志帆に見えはしないだろうけど。それでも大丈夫だ、と再び自分に言い聞かせる。昼の太陽の中でとはいえ、崖を下る時に危ういと思ったことはなかった。慎重に進めば、懐中電灯の灯りでも十分だろう。
「下手に転んで海に落ちたら洒落にならないからな……」
雄大が言う通り、海に落ちる訳にはいかない。子供の頃には「彼女」と出会うことができたけど、今宵は白波が待ち受けているかもしれないのだから。白波──その名前さえ、志帆が語ったからそう呼んでいるだけなのだけど。
あの崖に辿り着くと、陸が途切れた先からほのかに光が漏れていた。
「良かった、結構明るい……!」
雄大が明るい声で小さく叫んだ通りだった。どんな照明を使ったのか、須藤は颯斗たちのためにかなりの明るさを確保してくれていた。それでも闇に対してはささやかな抵抗でしかないから、颯斗たちは足で地面を探りながら崖へと近づいた。
「目印までつけてくれてる……」
懐中電灯を崖下に向ければ、蛍光のオレンジ色がところどころに光っている。何か、テープのようなものを道に沿って残しておいてくれているらしい。これなら、降りる時間を大分短縮できそうだった。
「──須藤さん! いますか!?」
志帆が三人を代表して呼びかけると、彼女の高い声が星空に響いた。ややあって、聞き覚えのある声が返ってくる。
「ああ! 待ってた……気を付けて下りてきて!」
暗闇の中での崖下りは、思っていたよりもはるかに楽だった。もちろん、決して気を抜けるようなものではなかったけれど。三人で声を掛け合い、段差や不安定な足場に注意し合いながら降下することしばし──
「お疲れ様。まずは無事に会えて良かった」
颯斗たちは、笑って手を広げる須藤に迎えられていた。彼の笑顔に濃い影を落とす光源は、浜辺に設置された機材だった。入学式や卒業式で記念写真を取る時によく見るような照明機材──名前は、なんていうのかなんて颯斗は知らないけれど。とにかく本格的な機材だ、ということだけは分かる。
「こんなの、持ってるんですね……」
「取材ではカメラマンを兼ねることもあるからね。段々機材も揃ってしまうってことで」
オカルト関係にしろ釣りにしろ、夜間の撮影も多いのだろうか。それなら足元を確かにするための蛍光テープだかもストックしてあって当然なのかもしれないけれど。挨拶もそこそこに──まあ、今さら礼儀を気にしている場合ではないのかもしれない──、須藤は照明を海に向けた。光が届く範囲はごく狭く、しかも水の中まで照らされる訳ではないから、鏡のような水面がその黒さと暗さを一層際立たせるだけ。それでも、「彼女」と出会った場所だと思うと、颯斗の胸は甘く痛む。
それはともかく、須藤の言動にとある危惧を抱いたのは、颯斗だけではなかったようで、志帆が呆れたような声を上げた。
「これからのこと、写真とか動画とか撮るんですか……!?」
「それはまあ、記録のためというか役得というか。顔が映らないようには気を付けるから、許可してくれない?」
「まあ……色々してもらってるから仕方ないですけど……」
呆れたような声を上げたのは雄大も同様だったけれど、彼の声には少し不快と苛立ちが聞き取れたかもしれない。拓海──雄大の友人だって、白波──と志帆が呼んだ存在──に殺されているのだから当然なのだろうが。友人の仇を特ダネ扱いされては面白くないのも仕方ない。島民たちが須藤には今起きていることを教えようとしなかったというのも、こうなると頷ける話だった。
気に入らないけど、協力してもらっていることを考えると文句も言えない、と。志帆も結論付けたようだった。
「撮るようなことは起きないかもですよ? 何かが来るとしたら……颯斗さん──船の方に、でしょうし」
何か、と口に出した時の志帆の低めた声に、颯斗はぞくりとした寒気が背筋を上るのを感じた。夏の夜、ちょっとしたクライミングで身体は熱くなっているのに不思議なことだ。颯斗を狙う存在を、彼女はどのように想定しているのだろう。島の神であるところの「姫」と対峙することを予感しての敵愾心なのか、前園家の女たちの怨念の集合体であるところのあの白い影なのか。いずれにしても、彼女の想いが読み切れないのは、怖かった。
「そりゃ、こういうのが上手くいかないってことは承知しているよ。一応本職というかだから。ただ──だからこそ勘、っていうかね? 何か起きた時に、カメラがなかったんじゃ悔やんでも悔やみきれないしね?」
志帆の内心など知らない須藤は、驚くほど軽い口調で笑うのだけど。でも──この人だって、何も考えていない訳ではない。カメラに収めるべき「何か」が起きる可能性が十分にあると、知った上でのこの振舞いなのだから。さすがは大人で、さすがはプロ、なのか。
颯斗を見て、須藤が悪戯っぽく微笑んだのは合図だろうと判じて、彼は一歩進み出た。名前を知らない照明機材の光の中に入ると、眩しくて目を細めてしまう。
「でも、何もないに越したことはないですよね。お守り……的なものを、作ってきてくれたんですよね?」
須藤が何時からこの場で待機していたかは知らないけれど、間に合ってよかった、と思う。機種やキャリアによるのかもしれないけれど、ここはひどく電波状況が悪いから。志帆の帰宅前に、須藤に連絡を取ることができて良かった。志帆や雄大を出し抜いて──というのも聞こえが悪いけど──、「彼女」と会える可能性を追うことができたから。
「ああ。素人の見よう見真似だけどね。上手く効いてくれれば良いんだけど……!」
颯斗だけに伝わる共犯者の笑みで、須藤はにやりと唇に弧を描かせた。
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