後編
その晩、蒼白な顔で家に飛び込んできた娘を見て、母親も同じくらい蒼くなった。
「立ち眩みがしただけだから」と明日香は言ったものの、身体は震え、母親に背中をさすられていた。帰宅した父親はすぐ病院へ行く支度をしたが、「本当に大丈夫だから」と明日香は自室へ引き上げた。
翌日は学校を休んだ。体調が急変したときのためだ、と急遽仕事を休んだ父親の好意は素直に嬉しかった。
何も考えないと気が楽だった。昨夜の記憶は消えていないが、時折送られてくる友人からのメッセージが、明日香の心を癒した。一週間が経った。そろそろ学校へ戻りたい、と思い始めた。
月曜日、久々に登校した。疲れ切った放課後、担任の女性教師が明日香を呼び出した。
「長く休んでしまって済みません」
頭を下げた明日香に、
「いいのよ。誰でも体調が悪いときはあるもの」
さあ、と誘導されるがまま会議室に入り、すぐ立ち止まった。長机の二筋並んだ部屋の中央に、見知らぬ姿があったからだ。
「あの、先生……」
困惑顔に振り返る明日香に、担任は、彼――白髪の老人の向かい側を示した。明日香は仕方なく座り、目前の光景に目を見開いた。
彼の後ろには広い窓があり、来客用の駐車場が見える。森閑とした空間に、ぽつんと白のセダンが止まっていた。
「こちらは佐伯さん。明日香さんの家の近所にお寺があるでしょう? そちらの寺総代をしていらっしゃる方です」
ぽかんとする明日香を見て、佐伯と紹介された男性が口を開く。
「檀信徒の代表と言えばいいですかな。住職と相談しながら寺を守っていく」
そんな役割です、と口元に笑みを浮かべる佐伯は、至って普通のお爺さんだった。
「佐伯さんはね、明日香さんを心配して連絡してくださったのよ」
「私を?」
担任は頷いて、佐伯に言葉を促す。
「このところ住職の家に相談事をしに行っていたんです。寺を続けるのはもう……いや、こんな話は余計だね。とにかくそのとき、嬢ちゃんが路地を通る姿が二階から見えていた。盗み見るつもりはなかったが、ただならぬ雰囲気だったもんで」
佐伯の言葉の意味を図りかねて、「どういうことですか」と訊く。
「どういうことも何も、毎晩そこで男性と会っていたでしょう」
明日香は戦慄する。背筋を汗が伝った。
「いつも立膝をついて、嬢ちゃんと向かい合っていた。それがどうも異様でね。もしや男に付き纏われてやしないか、と
場が沈黙する。明日香は恐る恐る尋ねた。
「……その男性というのは、どういう方でしたか」
佐伯は目を見開き、深刻そうに眉根を寄せる。
「顔は判然としないが、かっちりした制服らしいのを着ていたから、高校生か、工場の作業員あたりと思っていたんだが」
これは話が変わって来るな、と佐伯は呟く。
「……あの、先週は車が止まっていませんでしたよね」
明日香の唐突な質問に、佐伯は一拍考えた後、「ああ」と理解する。
「先週は住職が倒れてね。危なかったが、もう落ち着いてるよ。昨日も見舞いに行ったんだけど、元気なもんでした」
その日に何かあったんですかい、と訊かれたが、明日香は強く首を横に振った。
夏休みに入ったが、あの晩の光景は日を追うごとに鮮明に甦った。正面を見据える瞳、土と血の固まったような赤黒い指。――息を潜めて外を窺う姿と、ブロックを叩き割って外へ出ようとする意思が、矛盾しているようで、静と動の葛藤を恐ろしいほど体現していた。
お盆前の休日、明日香の足は寺に向いていた。熱気の
例の場所で片膝をつく。右目で透かしブロックを覗きながら、左手を壊れたブロックの上に置いた。
――この場所で、じっと外を見つめて。
息苦しくなって立ち上がる。すると、砂利が不自然に凹んでいることに気付いた。なにかを引きずったように真後ろへと続いている。それを追っていくと、身長ほどの高さの、白い苔汚れが目立つ石塔に突き当たった。
「なにか御用ですかな」
突然の声に、「わ」と身体が飛び跳ねる。
「いや、驚かせて悪いね。歩きが遅くて静かだから」
「こちらこそ済みません、勝手にお邪魔して」
作務衣を着た老年の男性だった。腰は曲がっていないが、杖をついている。
「誰でもお参りに来てくだすって結構です。こんな寂れた寺にお嬢さんが来るのは珍しいもんだから、少し見に来たんです」
ご住職さんですか、と訊くと、彼は微笑んで頷いた。
「あの、このお墓は?」
「これは、戦争で亡くなった兵隊さんですな」
住職は寂しげに墓を見る。
「その……だいぶ汚れていますね」
「無縁墓になって久しいですから」言いながら、染みのように汚れた部分を撫でる。「何十年も前のことです。この村から戦争へ行った若者の遺骨が、運良く判別できて遺族の元へ戻ってきました。しかし受け取った遺族は、一年も経たずに亡くなってしまった。この辺は空襲が酷かったので、縁故のある者と連絡もとれず、未だに継承者が現れていない。無縁になった墓は時間が経てば撤去してもいいが、継承者が現れるのではと思うと、簡単には出来ません」
手続きや費用の問題もありますが、と住職は苦笑する。
「あれも古い無縁墓です」住職は小さな墓の群れを指し示す。「戦没者、身寄りのない者、誰からも引き取られなかった者。――無念ですな。無条件で自分を迎えてくれる者がいない寂しさを思うと、やはり家族が祀る意味は大きい」
「血縁者が絶えてしまうことも」
「あります。でも血の繋がりがなくてもいいんです。親しい人間、故人に思いを馳せてくれる人間なら、家族のようなものです。しかし
お嬢さんにはまだ早いですが、と住職は笑う。
「……大変失礼ですが、このお寺は無くなるんでしょうか」
「噂が回るのは早いですな」そう言って目を瞑る。「跡継ぎが見つからなければ、そういう選択もあるでしょう。……この寺が無くなっては困りますか?」
訊かれて明日香は押し黙った。
「……正直、困らないかもしれません」明日香の家は檀家ではない。「でも無くなるのは寂しいです」
我が儘だ、と思いながらも言葉を継ぐ。
「確かにお寺との関りは少ないです。祖父も霊園に埋葬しましたし、きっと両親も……」
でも、と明日香は周囲の石塔を見渡す。
「お寺は何百年も人を見守ってきたと思うんです。私は仏教のことは分かりませんが、小さい頃は行事でお寺に行くことが楽しみでした。若い人が少なくなって、葬儀やお寺そのものも変化しなければ続かないのかもしれないけれど……」
「寂しいですか」
「はい。私は構いませんが、せめて今までお寺を大事にしてきた方には、安心して眠り続けてほしいです」
住職は静かに頷いていた。
帰り際、明日香はあの晩の目を思い出していた。不思議と怖さは感じなかった。あの目は明日香ではなく、真っ直ぐ前を見つめていたから。
――死地に赴く自分の姿を想像しながら、じっと身を潜めて時を待つ。
壁を壊し、前へ前へと進む使命だけを胸に。
命を使い尽くし、故郷に帰ってからも、ずっと。
それから明日香は、無心で部活に打ち込んだ。成績は芳しくなかったが充実感はあった。
寺は新しい僧に引き継がれることになった。寺仕舞いの方向で話が進んでいたが、苦心して住職を探し出したという。
明日香は卒業後もこの路地を通っているが、以来一度も音はしていない。
ブロック塀 小山雪哉 @yuki02
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます