ブロック塀

小山雪哉

前編

 明日香が角を曲がると、街灯ひとつない路地に白のセダンが止まっていた。

 ――またあの車だ。

 眉をひそめ、足を止める。夜八時の住宅街は、月明かりと家々の照明でほのかに白んでいるが、両側を塀で囲まれたこの路地は、異質な闇がわだかまっていた。五十メートルほど先には、県道の照明灯が見える。自分と県道の間――ちょうど路地の中間辺りに、その車は止まっていた。

 フロントガラスに目を凝らす。やはり今日も無人のようだ。

 ――お寺に用があるなら、表に止めてよ。

 不満を漏らしながら目線を遣った右手には、立派な本堂が建っている。堂の奥には明かりの灯った住居が、堂の手前には墓石が、ブロック塀の際――明日香のすぐ右隣までびっしりと立ち並んでいた。

 ――嫌な場所。

 明日香の家は県道に面していた。この路地を通る必要はないが、他の道では相当大回りになってしまう。それに、部活で疲弊した身体は一刻も早く柔らかいベッドを欲していた。だから普段は、仕方なしに路地を駆け抜けるのだが、見慣れない車が止まっているここ数日は、どうしても車内を確認してからでないと動けなかった。


 それにしても寂れた墓所だ、と明日香は思う。墓が賑わうはずもないのだが、この寺はどうも人の目が行き届いていない気がした。さすがに内部は小綺麗だったが、路地と墓所を隔てるブロック塀などは、上部がえぐれたように破損し、ひびの広がったまま放置された箇所がある。

 ――誰も気にする人がいないんだ。

 そもそもこの寺が機能しているか疑問だった。明日香が小学生の頃は、花祭りや地蔵盆で賑わっていた記憶があるが、ここ数年は、めっきり子供の声を聞かなくなった。この一帯は近年急速に開発された住宅地だ。その中に取り残された寺は――古くからの檀家を除いて――今や遺跡同然の代物扱いされているのかもしれない。


 摩天楼のような墓石が、塀の上に突き出している。梅雨を引きずった蒸し暑い七月の夜に、いやな寒気を覚えて歩き始めたときだった。

 からん、という音がした。乾いた音。まるで小石が転げたような音だった。咄嗟に身を縮める。視線だけを周囲に巡らせたが、特に変化はなかった。

 安堵と同時に、脇を締めて危険に備える自分に溜息が出る。

「……女の子みたい」

 そう言う明日香は紛れもなく女の子だったが、そのとき想起したのは、お化け屋敷で泣いているような女の子だ。明日香は怪談話もホラー映画も、当然お化け屋敷だって怖がるタイプではない。だから、こうして夜道の微かな音に身体を硬直させている自分が、まるで普段が強がりだと証明されたようで気恥ずかしかった。

 耳の火照りを感じながら、通学鞄を脇に抱えて歩き始める。今は練習で帰りが遅いが、夏休みが始まればすぐ大会で、それが終われば引退なのだ。

あと少し、そう呟いて足を速めた。


 数日後のある晩、明日香は重い足取りで帰路を歩いていた。部活で思うようにいかず、気が滅入っていたのだ。惰性で続けてきた吹奏楽も、この夏で終わりにしようか――そんなことを考えながら路地に差し掛かった。

「今日も車あり」

 呟いて、無人であることを確認する。歩き出すと同時、からん、と音がした。先日と全く同じ音だった。

 ――気持ち悪い。

 無風の熱帯夜、額から玉の汗が蟀谷こめかみを伝う。明日香は逃げるように数歩進み、振り返った。人気はなく、濃い闇が塀の内側に溜まっているだけ。

 しかし何故か、その闇から目が離せなかった。

 ――私は何を見ているんだろう。

 何もない暗がりに釘付けになっている自分が、とても不思議だった。大きく息を吐く。ふと我に返って目を離しかけた刹那、どん、と闇が低く震えた。

 明日香は「ひゃ」と短く叫んで駆けだした。

 

 翌朝、明日香は家を出ると、昨夜音のした場所へ近付いた。

「やっぱり……」

 そこは塀が破損していた箇所だった。五段積みのブロックの上部二段ほどが、無骨に崩れている。すぐ下に落ちていた大小の破片が、昨夜の音の正体らしかった。

 それにしてもブロックが自然に壊れるものだろうか、と思う。元々崩れていたとはいえ、風はなかったし、最近は小さい地震も起こっていない。老朽化で自然落下した可能性もあるが、二回も同じタイミングで落ちるだろうか。

 加えて、昨夜は壁を叩くような音がした。今朝落ちていた大きい破片は、その振動で落ちたものだろう。明日香は以前、高校のブロック塀の解体作業を眺めていたのだが、ショベルカーで突いたあと、細かい部分は手で壊していたのを覚えている。

 何気なく手を塀に触れて、ふと直感した。――誰かが潜んでいたとしたら。

 恐ろしい考えだった。しかしあり得ない話ではない。

 

 以来、明日香は毎晩塀の前で立ち止まった。塀の向こうを覗く勇気はないが、出来る限り近付いて人の気配を感じ取ろうとした。だが、自分の鼓動以外は何も聞こえなかった。

 一方、ブロック塀は毎日破損していった。どん、と叩くような音をさせ、ほんのひと欠片ずつ、しかし確実に崩れていった。そして必ず破片は路地に落ちていた。それは墓の内側から力が加わっていることに他ならなかった。


 日を追うごとに窶れていった。ブロックの破損に従って、明日香の精神も削り取られていった。部活でもミスが多くなり、顧問に叱られ、部員には冷たい視線を投げられた。

 そんな七月中旬のある晩のことだった。

 いつもの如く、深手を負ったように重い足どりで路地を入ると、「え」と無意識に声が出た。

 ――車が、ない。

 毎晩止まっていた車が、この日は姿を消していた。毛嫌いしていたはずが、まるで唯一の頼りを失ったような寄る辺なさが押し寄せてくる。

 壊れた塀のそばで足を止める。

 ――もうすぐ。

 予言通り、どん、と音がした。二、三、小石の破片らしき軽い音が付随する。

 明日香は右を振り向いた。風はなく、月明かりのもと、靄の掛かったような闇が溜まっている。ゆっくり塀に近寄り、しゃがみ込んだ。

 ――こんなものに怯えてるなんて、馬鹿みたい。

 破片を指でつまみ上げる。――野良猫か野良犬か、あるいはいたちかもしれない。動物が体当たりして瞬時に逃げただけ。――そうやって理由をつけて安心しかけたとき、不意に視界の端で何かが光った。ガラスが反射したような、一瞬の光。なんとなく上の方へ視線を移動させると、再び視界の上端で明滅する。

 ――何か月明かりに反射している。

 塀を舐めるように視線を上げていく。一段、二段と上がり、そして下から四段目、井形に模様のはいった透かしブロックで視線が止まった。

 右下の枠で何かが光っている。ビー玉だろうか、と手を伸ばした刹那、明日香は声にならない叫びをあげて後ろに飛び退いた。

 黒目だった。瞳孔をめいっぱい開き、一点を凝視している眼球。どこからかえた臭気が鼻腔をついた。明日香は震える両腕を地に伸ばして、上半身を支えるので精一杯だった。

 どん、と目前の塀が叩かれる。どん、どん、と続き、ごとり、と地面が震えた。座り込んだ明日香の手元に、こぶし大の破片が転がって止まる。その破片が辿った道筋を目線で戻る。

 目の右側――えぐれたブロックの上に、五本の赤黒い指先が掛かっていた。

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