蛇足
エピローグ
「先生、失礼します。葦屋です」
「ノック」
「失念しました」
九月、韮井先生の研究室に、変化はない。紙と本、いくつかのペンに、ゼミ生のデスクとマグカップ。全てが夏の始まりと同じままだった。ただ、一人でこの部屋に入るのは新鮮で、変な違和感はある。
窓際のデスクで珈琲を啜る先生の隣には、見慣れないスーツの巨漢が立っていた。いつだったか、七竈の義兄や嘉内さんと共にマンションの前に集った一人であったのは覚えている。一度も言葉を交わしたことの無いその人がいるだけで、暑くも無いのに汗が頭皮を濡らした。
「座れ。警戒しなくて良い。この男は立花竜胆。私の協力者だ」
先生はそう言って、俺の前に来客用のマグを差し出した。一礼の後、中身の珈琲を一口飲み込むと、立花と呼ばれた男が、険しい表情のまま、顎を引いた。頭は下がっていないが、これがお辞儀の一種であることは理解出来た。
「あ、葦屋幽冥です。先生には、一年の時からお世話になってます。学部学科は全然違いますけど」
「その辺りは韮井さんから聞いてる。優秀な学生なんだってな。今、三回生だろ。希望とかないならうちで働かないか」
見た目よりはフランクな言葉選びに圧倒される。立花さんは、顔は笑ってこそいないが、悪人ではないのはわかった。
「俺、刑事。怪異を"いなかったことにする"のが専門のな」
そう言って、彼は手にあった封筒を差し出した。中身に心当たりはあった。
「事の全てを七竈のせいにしたのは、貴方なんですね」
この数週間、流れるニュースの中に、明らかな嘘が紛れていたのは確かだった。
別荘からは七竈の父親と、継母の惨殺死体が見つかった。それどころか、マンションの事件で共に監禁されていた青木棗の両親もバラバラになって見つかり、棗自身も警察に保護された。七竈祓自身は行方知れずで、彼は別荘に火を点けたという。その時、台所のガス栓を開け、部屋にガスを充満させ、全てを爆散させたのだ。そのため、詳細はそれ以上は不明で、ただ、七竈が殺したのだということだけが事実として公表された――――大体、そんな筋書きだったかと思う。
「遺族には了承を得ている。七竈友美はうちで預かるし、匡香ちゃんも和泉が世話してくれてるんだろ。戸籍とかはまあ、落ち着いた頃にそういうのが得意な奴らにちょちょいと変えてもらうさ」
警察が言っていいことなのかは知らないが、彼がどういう職務についているのかは、想像がついた。そして、それが彼等の正義だということも、飲み込むことは出来た。
「嫌そうな顔をしてるな。全てを公表した方が良かったと思ってるのか?」
立花さんの問いに対して、俺は首を横に振った。
「いや、間違いではないと思います。寧ろ正しい。全てを真っ当に世に出せば、世間からは気でも狂っているのかと叩かれます。何より、夜咲の血統の信仰が過熱しかねない。いつかは何処かから漏れてしまうでしょうけど、七竈が生きているだろう、人を食って神になっただろうと解釈できる事実は出来る限り隠しておいた方が良い」
理解は出来ている。嘘は吐いていない。七竈の遺体が出ていないというのは事実だろう。そして多分、アイツは、人を食っている。もしも、ただ脱出しただけだったなら、きっと、すぐに俺に会いに来るはずだ。
「韮井さん、やっぱり葦屋君はうちにくださいよ。葬儀屋じゃあ、やっていけないですよ、この思想は」
「勧誘なら好きにしろ。一時避難先として
気安い二人の会話の中、開けられるのを待つ封筒を撫でた。紙が手汗で弱っていく。珈琲を一口啜った。立花さんに目を向けると、彼は俺の言葉を待つように、口を閉じた。
「中身、見ても」
「そのために俺はここに一人で来た」
彼の返答を合図に、自然と指が動いた。封をする糊の硬さに苛立つ。茶色の間に白い紙を見た時、息が止まった。文字列は冷淡だった。ただ、そこに書かれたものは、事実なのだと直感出来た。
遺体発見「七竈政子」「赤檮望」「青木進」「青木葵」
行方不明「七竈祓」「日比野豊」
その並びに、事実に、違和感があった。俺の知る名前が、一つ無い。最後、自分の指が隠していた行に、目が進んだ。
――――身元不明遺体を書斎にて発見。司法解剖の結果、七竈奏と思われるも、七竈祓および日比野豊との親子関係は認められない。多数の整形手術の痕跡アリ。
「日比野豊と七竈祓の繋がりは、こちらも把握済みだ。だが一つ、一人だけ、訳の分からないのがいる」
先生は頭を引っ掻きながら、声を落とした。俺の思考は、応答の用意が出来ていなかった。
「七竈奏とは、何者だ」
俺は首を横に振るしか出来なかった。あの人が何者かなど、俺だって知りたい。
「一度だけ、俺の前で"清水"と名乗ったことはあります。それ以外は、何も」
ただ恐ろしい人として、俺はあの人を見ていた。七竈を神にしたい人。ただそれだけの人。俺に"小清水"という名を与えた"清水"という男。
「清水……苗字だよなあ、それ」
立花さんは唸りつつも、しっかりとメモ帳にペンを走らせた。
「こうなると、夜咲の血統ですらないのだろう。正しく行き止まりだな」
先生の呆れ声と溜め息が、耳に染みた。最早、調べることにすら、意味は無いのかもしれない。実際に俺はこの数週間、七竈を探すことも出来ず、アパートで本を読みふけっていた。結局、水圏生化学は四年生で再履修することになってしまったし、隣室には警察以外、誰も足を踏み入れなかった。
「まあ、わからないなら仕方が無い。何か"清水"について思い出したら連絡してくれ。あ、就職希望の方でも、大歓迎だから」
枠はいくらでも空いてると、立花さんは名刺を投げつけた。肩書も、所属すらも書かれていないカードを、財布の中に収める。先生がまた息を吐いた。
「葦屋、公務員程の安定はないかもしれないが、一応、私の助手という就職先もあるからな」
一瞬、珈琲を吹き零しそうになって、気管と鼻が痛んだ。何の冗談ですかと、反論を重ねようとしたとき、先生の目は、静かに俺だけを見ていた。
「私なら、七竈を裏切るようなことだけは、させないからな」
何も考えずに出る言葉ではないだろう。騙し続けた俺に対する慈悲が、これなのだ。
「考えておきます」
けれど、それをそのまま受け取る勇気が無かった。自分自身の言葉を、何も通さずに、そのまま吐き出すことが、まだ、出来なかった。けれど、俺はいつか自分の答えを出せるように、思考を続けなければいけない。
きっと、対等な誰かと、相談だってしなければならないのだろう。その誰かは、考える隙も無く脳内に浮かんだ。
だが、そいつは、俺の金でたらふく飯を食うだけ食って、無表情のまま正論を吐き捨てるのだろう。そんな想像に口角が上がるのがわかった。
そして俺は、震える唇を、空のマグカップで隠した。
冷凍された真夢 棺之夜幟 @yotaka_storys
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