第77話

 見知った廊下を歩いた。もう、歩いても歩いても終わりが見えないなどということはなかった。血をなぞって進むと、父の書斎があった。耳を澄まさなくとも、扉の向こうからは、言葉にもならない豊の狂声が聞こえた。同時に、ハンバーグでもこねるような粘ついた音が耳についた。

 ノックもせずに、扉を開く。慣れた鉄錆の臭いも、こうも濃ければむせ返る。

 書斎の奥では、血と、肉が周囲に撒き散らされていた。豊の背の向こう、デスクの上の父は、もう動いてはいなかった。


「豊」


 僕が呼びかけると、彼は手を止めて、首だけをこちらに向けた。見開いた眼は血走っていた。腫れた目元は、涙でも流したらしい。


「望?」


 彼は一度、瞼を閉じると、目を擦った。より赤く、茶色くくすんだ瞼を開く。今度は足先まで僕に向けて、口をぽかんと開けた。


「望じゃない。何だよ、ハラヤ、お前、何で、僕のこと、豊って……お前――――」


 “お前”と呼ばれるのは新鮮だった。だがそれが彼の本来の姿であることは、自分と照らし合わせれば明白だった。


「血が出てしまうのは仕方が無いが、本を汚すのはやめてくれないか」


 僕達の粗暴さは、生まれついてのものだ。趣味も、大切にしているものも異なっているが、その根本だけは同じだ。だからこそ、彼は気付くだろう。僕の中心に、別のものが入り込んだことに。


「僕も読みたいものがいくつかあるんだ。お前も欲しいものがありそうなら探しておけ。荷物は少ない方が良いから、最低限だけどな」


 思考を止めている豊を余所に、僕は壁中に敷き詰められた本の一つに手をかけた。台所で手を洗っておいてよかったと、心底思った。パラパラと紙をめくっていく。文字を追っても、その内容が頭に入ることはなかった。


「……ハラヤ、お前」


 脳を冷ました豊が、僕を呼んだ。輪郭に焦点を合わせる。彼の表情は、虚無に近かった。


「望を食ったのか」


 彼の指が、僕の口元を拭った。


「そうだよ」


 考えるより前に、応答が口から出てしまった。飾りも、嘘もない。素直な言葉を、豊かに放り投げた。彼は瞳を動かすことなく、口を開いた。


「美味しかった?」

「吟味出来る程、僕の舌は肥えていない」


 僕の返答に、彼は酷く穏やかに笑った。それは、本来、僕に向けるべきではない表情。豊は僕に、望を見ていた。


「じゃあ、また食べよう。僕ならそれくらい……いや、何だって手に入れてあげられる」


 だから、と、彼は唇だけを動かして、詰まる息を吐いた。


「僕を一人にしないでくれ」


 ふらつく足で、彼は僕に迫った。その様子は、まるで幼子が親を追う時のようだった。


「望を食べた君は神になれたんだろう。望を食って、満足しただろう。望を手に入れられて、僕の願いを掠め取って、ハッピーエンドを迎えたんだろう」


 破綻した、自己中心の論理を、豊は僕に吐き散らした。卵から生まれたばかりの雛の如く、彼は鳴いていた。その全てが、今までの望に対する献身を理由としたものだった。苦行に耐えた自分なら、褒められて当然だという、自分勝手な妄想だった。

 座り込んで泣き喚く彼を見下ろした。彼の主張は今までの僕には受け入れられるものではなかった。豊が今までどれだけの苦痛を抱えて生きたかなど、僕には関係が無い。何より、豊だって、父殺しに至り、目的は果たした筈だ。僕が彼の言うことを聞く理由はない。


「豊」


 それなのに、僕は手を差し伸べていた。指先と下腹部に蟲が這うような違和感は、棗を見ている時と似ている。


「お前、望が死んで泣いているのか?」


 再びぽかんと口を開ける豊の、顎を掴んだ。涙液に荒れた頬が、赤く腫れていた。


「違う」


 今度はしっかりと、彼は反論を口にした。


「お前を救いたがっていた彼女が、お前を救うために死んだ。それは彼女の望んだ有様だ。僕も一緒に喜ぶ義務がある」


 豊は僕の口元を掴んで、立ち上がった。的外れな答えを聞いた怒りが、その冷たい感覚が、触れる皮膚から流れ出ていた。僕を見下ろして、彼は下唇を噛んだ。流れる自らの血を舐めとりながら、彼は笑った。


天使赤檮望を食った人間の末路と、ずっと辿り着けない夢を見ていたお前の滑稽さに、吐き気がしただけなんだ」


 再び崩れようとする豊の肩を持って、僕は書斎を出た。廊下に出てすぐ、豊は自ら足を立て直した。未だ息を喉で転がす彼の、左手を握りしめた。体温は指先を伝い、僕達は同じ温度で息をした。

 振り返り、扉を閉じる。その数秒、デスクの上の父を見つめた。父の顔は、男か女かもわからなくなって、まるで存在そのものが不定になったようだった。足元には、生前に焼けて視力を失っていた、色の無い眼球が転がっていた。


「おやすみなさい、父さん」


 僕と豊、どちらがそう言ったのかは、僕にはわからなかった。


 僕の隣、繋ぐ手の先では、和泉が豊を慰めるように歌っていた。優しく柔らかな歌声は、何処にでもある子守歌を綴っていた。

 ――――豊に、彼女は実の母に似ているのだと言ったら、どんな反応を示すのだろう。

 そんな、微かな悪意を飲みこんで、僕達は一言も交わさずに、山の中を歩いた。


「まるでヘンゼルとグレーテルね」


 笑う和泉を睨もうとして、僕は優しく口角を上げていた。その表情が望とそっくりだということは、何も見ずとも理解出来た。

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