第76話

 薄く叩きのばしただけの鉄の板が、望の中に入っていく。案外、彼女の肉は柔らかく、素直だった。骨を削る感触を通して、心音が響いた。反応を示さない彼女の声が聞きたくて、手首を返す。胃や肝臓を、文字通り手当たり次第に切り分けていく。刃先が肋骨の裏側や背骨に当たる度、望の爪が僕の背中に食い込んだ。


「大丈夫だよ」


 一分程経って、やっと絞り出せたのは、悪意も殺意もない、ありふれた言葉だった。


「大丈夫、怖かったね」


 望の意図がわからなかった。言葉選びの基準を理解出来ない。僕の行為と言葉から、何を勘違いしたら、こんなことをするというのだ。


「君は怖かったんだ。お母さんも、お友達も、君を傷つけてきた全ての人達が、恐ろしくて仕方が無かったんだね」


 違う、何を言っているんだと、突き飛ばそうと、片手で胸を押した。それでも、彼女の体格相応の力が、逆に僕を締め付けるだけだった。僕に出来ることは、両手で牛刀を動かして、彼女の内部を細かくしていくことだけだった。口は、思うように動かない。言語化されない脳の叫びを、ただ喉で転がし続けた。


「僕も君を怖がらせてしまったんだろう。ごめんね。気が付かなくて。君のその不快感と、殺意は、恐怖の埋め合わせだ」


 頭を撫でているつもりだろうか、慰めでもしている気なのだろうか。彼女は右手で僕の髪に触れた。上から下へ、骨ばかりの指が髪と髪の隙間を通っていく。息に乱れはあるものの、未だ彼女の意識は明瞭だった。一度、牛刀を引き抜いた。ついに望から濁った息が聞こえた。それでも僕を抱く力は衰えない。


「君の、小さな君の、夢を見たと言っただろう。その時に考えたんだ。何故君はいつもおぞましい死を選ぶんだろうって」


 望のささやきを遮るために、僕は引き抜いた刃をもう一度、今度は横腹に刺した。肺が一つ潰れても、彼女は舌を止めなかった。


「君は安心したかったんだ。どんなに自分を傷つける人でも、自分と同じ人間だと、確認したかったんだ。刺せば、割れば、潰せば、焼いてしまえば……皆死ぬんだって、理解したかったんだ」


 引き抜いて、刺す。


「……今だってそうだ。君は僕に恐怖している」


 刺す。手首を捻って腸を引き摺り出す。


「僕の熱を手に入れて、解釈したいんだ」


 肋骨の一本を手折る。


「僕がただの人間だって」


 胃をつかみ取る。腹部の皮膚をえぐり取る。


「自分と同じ存在だと思いたいんだ」


 肝臓を床に落とす。胆嚢を踏み潰す。


「自分も人間で」


 血の海の中に、彼女を押し込む。


「皆と同じ、仲間外れじゃないって、思いたかったんだ」


 臓器の殆どを失い、辛うじて息をするだけになって、やっと、彼女は膝から崩れ落ちた。望は両腕で何とか上半身を起こしていた。僕はそんな彼女を見下ろして、牛刀を手離した。


「悲しかったよね、怖かったよね、一人で悩んで……寂しかったよね」


 望の顔を蹴り上げた。彼女は自らの臓腑の中に倒れた。それでも僕に手を伸ばして、血と言葉を吐いた。


「わかるよ、僕もだ」


 そうして、彼女はゼリー状の赤黒い塊を口から零した。目は輝きを失って、息も一回一回、弱くなっていく。


「――――……――――」


 微かに動く口に、僕は耳を近づけた。


「――――……僕は母さんを食べて、その、寂しさの答えを得たんだ」


 僕の顔に、生温い息がかかる。鉄分の多いそれを、出来るだけ逃がさないように、深く、深く、呼吸を繰り返した。


「僕を、食べて、ハラヤ」


 致死量の血液で膝が濡れて、寒かった。暖を取るために、望の手を取った。


「そうすれば、君だけは、一人に、ならないから」


 彼女はそう言って、手を握り返すことはなかった。望の眼球は動かず、心拍と共に腹から血が飛び出すだけだった。しかしそれも、今、止まろうとしていた。


 数分、僕は意識を保ったまま静止していた。身体が動かなかった。どんどん望の熱が拡散していくのを感じて、やっと足が動いた。

 台所用品をかき分ける。牛刀は体液だらけでもう使い物にならない。幾つかあった刃物の中から、僕はペティナイフを選び取った。小さくて良かった。まだ僕には彼女の全てを受け入れるだけの器量は無い。未だ、自分の行動にも、彼女の言葉にも、意味を見出すことは出来なかった。

 小さく、肉を切るには頼りないナイフを、僕は望の下腹部に入れた。そこにあるのは、彼女を彼女たらしめる臓器。を切り取る。


「わからない。まだ、お前が最期の最後まで、羞恥心も無く、間違った答えを僕に提示出来る理由が」


 片手に収まる肉の袋を、僕は口元に近づけた。望の瞼を降ろして、僕は呟いた。


「お前を食って、僕は一人ではなくなると、お前は言った。けれど、本当は、僕は、今までよりもずっと、誰からも理解されない、人の姿をした何かになるらしいんだ」


 ――――まあ、それも、存外、悪くはないかもしれない。

 お前がずっと一緒だと言うのなら、それが本当なら、それでも。


 僕は彼女を噛みしめて、胃に収めた。

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