第75話

 咄嗟に顔面を殴りつけていないだけ、僕にもまだ理性というものがあるらしい。無遠慮に僕の身体をまさぐる望は、冷たくなった僕の手を擦って、暖めようと必死だった。眼球を動かして周囲を探ったが、何処にも日比野や父はいなかった。


「ベタベタ触るな気色悪い」


 やっと声帯がほぐれて、僕はそう唾を吐いた。舌の根はまだ冷えていて、自分の身体が死んでしまっている様にも感じられた。


「良かった、気が付いたんだね。脈も弱くて、危ないと思って……ごめんね」


 思うように身体が動かない。それをいいことに、望は未だ僕の手指の間に、己の節ばった指を通す。心配も、配慮も、本心ではあるのだろう。ただそんな彼女の無限にも思える愛情が、吐き気がするほどに重く、好かなかった。


「日比野は」


 瞬き二回の間に問いかける。望は微笑みを絶やさずに口を開いた。


「豊ならこの屋敷を探索しているよ。お父さんがいないって、ちょっと落ち込んでた」

「父さんがいない?」


 それは困惑を誘う以外の何物でもなかった。父の足は僕が破壊している。移動できたとしても、床を這いつくばるのがやっとだろう。だらだらと流れ出る鮮血が床を汚して、居場所に続いている筈だ。


 ふと、自分の両手を見た。傷一つない、少女性の満ちた指と掌。硝子に裂かれた肉の断面は既に消失している。日比野と自らの“巻き戻し”を想起した。父が単純な狂人ではないのなら、何となく理解に行きつく。

 日比野も分かっていてここまで来ている筈だ。何処で父が待ち構えているかなど、考える必要はない。今この別荘で息をしているのは、父を含めても化け物だけだ。

 存分に殴り合えば良い。出来ることなら相討ちしてくれれば最高だ。ただ、それには父に生命力が足りないかもしれない。


「楽しそう。何か面白いこと考えてる?」


 無自覚に笑みを零してしまっていたらしい。喉奥で小さく気泡が上下していた。


「父親と兄弟の死を想像するのは、僕にとって最大の娯楽かもしれない」


 ささくれ立った唇が素直に動いた。末端の感覚も戻っている。立ち上がるには踏ん張る硬い床が足りない。


「もう離れろ。暖める必要はない。お前が触りたいだけだろ。不愉快だ」


 極めて大きすぎる望の胴を押しのける。転げ落ちた床は温く、己の表面温度の低さがわかった。息を止めて力をこめれば、なんとか上半身を起こすことが出来た。

 数十センチ離れて見る望の姿は、冷凍庫の中で見た夢よりも、輝きを失っていた。齢二一にもなって、色眼鏡の偉大さに気付く。同時に、日比野の盲目さに、些か呆れてしまった。

 彼女を美しいと思うだけの感性は僕にもある。けれど、望の在り方は、僕が欲しかったものではない。彼女は周りの見えないお姫様のような人だ。だから、幼い頃から隣にいた日比野よりも、目新しい僕に意識が向いている。


 僕は、僕と同じ人間が欲しかったのだ。

 望は、自分と真逆の僕に興味があるのだ。


 その意識の違いに気付いてしまった瞬間、重力が心身を食い荒らそうとした。背は再び冷たい床の上に落ちた。辛うじて頭部は望がその手で拾い上げ、致命的な落下を免れた。仰ぎ見る望の顔を掴む。皮膚は毛穴も分からない程にきめ細やかだった。顔面の凹凸の明瞭さは、コーカソイドの血を窺わせる。


「本当に、銀で出来た彫像でもあれば、僕もお前を愛せたかもしれないのに」


 小さく「え?」と望は驚嘆を零した。その息を噛み砕くが如く、僕は彼女の唇に向って牙を向けた。


「お前が生物である限り、僕はお前に対して嫌悪しか向けない、ということだ」


 その身に蓄えた人肉のせいか、望の体臭は生臭く、血や膿のような香ばしさも混ざりあっていた。その臭気を遠ざけるようにして、僕は彼女の腕から転げ出た。胴が戸に当たると、自然と四肢が動いた。たまたまその戸の内側に刃物があったのか、それとも僕の無意識がそこを選んだのかは定かではない。ただ、それでも、僕が咄嗟に牛刀を持って立ち上がったのは、僕自身の意思だ。


「お前は何も悪くない。お前が謝罪する理由はない。お前は清らかだ。お前は正しい。人を食うことが禁忌だなんて、現代の法解釈に知性を奪われた人間という集団の言うことだ」


 望を賞賛し、牛刀の先を向けることに、特に意味は無い。それで解決することはどこにもない。正しくこれは子供のする駄々とそう変わりないものだ。本来、母親へ向ける筈だった感情を、僕は、彼女に向けてしまっている。

 今のこの精神は、言葉を知らない赤子の持つ、言語が表現を諦めざるを得ない、上等過ぎる何かだ。


「全ては僕が悪いんだろう。僕が起点となって惨事は起きている。夏が始まるより前に、僕は全てを捨てて消えるべきだった」


 僕の自己破壊は、望の眉間に皺を寄せる。仕方も無い。彼女に僕の考えが分かる筈もないのだ。


「母さんを殺すより前に、幽冥よりも先に――――お前と出会っていたら、友人にくらいは、なれたかもしれない」


 僕は握りしめた刃を望の中心に触れさせた。布一枚の向こうに、彼女の肉があった。僕はそのまま、細胞の一つも割ることなく、牛刀を静止させていた。

 そんな僅かに震える僕の手に、望は黙って自分も手を添えた。探るように彼女の手は僕の腕を伝い、肩に辿り着く。


「ハラヤ」


 彼女の声で、頭上から僕の名前が聞こえた。見上げた視界には、微笑む望の顔があった。曇りのないその瞳に見とれている内、彼女は僕の身体を両腕で力いっぱいに抱きしめた。


 包丁が人間の臓器を進む感触が、懐かしくて、熱かった。

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