肆
下駄箱の前で靴を履き替えていると、「千秋、帰ろうぜ」と康太が追いかけてきた。制服の白シャツから伸びた腕は、しっかりと日に焼けている。千秋は約二週間ぶりに会った元気な悪友の隣に並び、二人で昇降口を出た。
「なあ、聞いてくれよ。夏休みの終わりに、英美理と偶然会ったんだ」
「へえ。また辛辣に
「馬鹿っ、逆だよ。英美理って言い方きつい時もあるけどさ、俺になら何でも話しやすいって打ち明けてくれたんだ。それからは意気投合しちゃってさあ。きっかけになった肝試しのスタンプカードは俺の宝物だよ。今も持ち歩いてるんだ」
「良かったな」
しわくちゃのスタンプカードを見せびらかされた千秋は適当に相槌を打ったが、掛けた言葉は本心だ。千秋はもう、康太のあんな顔を見ないで済む。それは素直に良いことだと思うからだ。
二学期を迎えた学校帰りの
「そういえば、あいつ。来てなかったな」
「あいつ?」
「……知佳だよ」
いつかのように、微かな気まずさを声に滲ませながら、千秋は言う。
九月一日の今日、知佳は学校に来なかった。
元々、極端な恥ずかしがり屋で存在感が薄く、教室に居ても居なくても気づかれない女子生徒だ。今日の欠席は、誰の話題にも上らなかった。しかし勝俣先生すらその不在について何も言及しないのは、いささか非道な対応に思えた。肝試しで気分が悪くなった生徒達を介抱したメンバーには、知佳だって入っていたのに。
「ちか?」
康太は、ぽかんとしていた。
「ちか……って、誰だ?」
「おい、何言ってるんだよ。知佳だよ。クラスメイトの女子」
「……。一年一組に、〝ちか〟なんて名前の女子、いねえよ」
「康太、冗談よせよ。知佳は、小学校だって同じだったじゃないか。肝試しでも、俺のペアだった」
「……そんな奴、いないって言ってんだろ。大体、うちのクラスは男子が十人、女子が九人。十番のくじを引いた千秋のペアは、勝俣先生が名乗り出たから、千秋は拒否して、一人で旧校舎に入っただろ……?」
「違う! そんなわけない……そんな記憶は、俺のものじゃない!」
「……千秋。その〝ちか〟って女子、名字は何だ?」
「それ、は……」
答えようと空気を
千秋は愕然と、己がたった今答えようとした名前を、頭の中で反芻した。
知佳の名字は――鹿島。鹿島知佳。〝カシマさん〟の鹿島。
偽りの記憶に罅が入り、内気な少女の思い出が消え失せる。押し寄せた理解の奔流が、頭蓋の内側で荒れ狂った。
ペアが知佳だと分かった時の、鈍い頭痛と不自然な納得。旧校舎に入った直後、何者かに閉ざされた扉。千秋が暗闇でペアを見失った瞬間に、時を同じくして〝誰か〟と口論していた英美理。あんたの名前なんて知らない。〝カシマさん〟に、もし名前を訊かれたら。廊下で英美理を探したあの時、康太が無防備にも一人で行動したように、〝彼女〟もまた一人だった。〝
直感が働き、千秋は真っ青な顔の康太の手から、スタンプカードを奪い取った。
そして、信じられない文字をそこに見つけて、慄然とする。
肝試しの夜には伏字だったはずの名前が、今ならはっきり読めたのだ。
『旧校舎三階の一年一組には、幽霊が棲んでいる。幽霊に気に入られると黄泉の国へ連れていかれるという噂があり、中学生達が肝試しを行った。
一年一組に到着し、さあ帰ろうと誰かが言った時だった。一緒にいたはずの知佳ちゃんが見当たらない。全員で探したが、知佳ちゃんは行方不明となった。
その後、旧校舎では女の子のすすり泣きが聞こえるという。
『N中学校一年一組 学級新聞九月号』より抜粋』
「……!」
鳥肌が立った。
旧校舎にまつわる怪談で、かつて居なくなった女の子こそが――知佳だった。
では――〝彼女〟は、誰だ?
「千秋……お前、変だぞ。……俺、先に行くから。この後、英美理と約束してるんだ」
康太は茫然とする千秋からスタンプカードを奪い返すと、不気味そうに千秋を一瞥してから、畦道をそそくさと駆けていった。
田んぼの稲が一斉にそよぎ、ぬるい風が頬を叩く。黄昏時が迫りつつある通学路に一人取り残された千秋の背後から、ひた、と冷たい気配が忍び寄った。一足早い夜気が甘く香り、過ぎたはずの夏の匂いを運んでくる。
凛、と。鈴の音が、耳朶を打つ。
這いずるような、声も聞こえた。
「――旧校舎に棲む〝学校童〟は、幼い子供にしか見えない怪異で、子供達と楽しく遊んでいたの。でも小学校が廃校になって、生徒が建物に立ち入る機会がなくなった。夏には中学生達が肝試しで遊びに来るけれど、〝学校童〟は幼い子供にしか見えない存在。いつしか〝学校童〟には〝カシマさん〟という名前が当て嵌められて、元の名前で呼んでくれる者がいなくなったの……」
頭から、血の気が引いていくのが分かった。がちがちと歯の音が鳴り、逃げろ、逃げろ、と心の中で、己を必死に
「〝学校童〟は、一人ぼっちで寂しかったから――外に友達を作ることにしたんだ」
背後の存在が、吐息をついた。
声音が、甘やかな笑みを含む。
「友達を作るには、幼い子供じゃなくても〝学校童〟が見えるようにならなくちゃ。だから〝学校童〟は、旧校舎へ肝試しに来た中学生達から、いろんなものを分けてもらったよ。気軽に呼んでもらえる名前を。呼び声に応えられる声を。そして、肝試しに参加できるように、中学一年生の女の子の身体を」
だから〝学校童〟は――〝カシマさん〟になったのだ。本物の鹿島知佳が、攫われたから。その怪談が中学生達の間に
〝学校童〟は、旧校舎から出なかった。だが、〝カシマさん〟は違う。
恐れに取り憑かれた千秋を
「千秋くん。――私の名前は?」
旧校舎の暗がりで、心細そうに繋がれた冷たい手。英美理を探しに行った千秋を見送る、切ない羨望の眼差し。一年一組の教室で見つめ合った時の、儀式めいた呪文を交わす声――臆病さと柔らかさを
「知……佳……?」
鼓膜を震わせた名前が意識に染み込み、絶望が胃の底からせり上がった。
――『もし〝カシマさん〟に出会って「私の名前は?」と訊かれたら、「仮面のカ、死人のシ、悪魔のマ」と答えたら何もしないで帰るけど、別の名前を答えたら、「友達になれた」と思われて、黄泉の国へ連れていかれるんだって……』
「千秋くんなら、そう答えてくれると思ってた」
千秋が知佳と呼んでしまった存在は、嬉しそうに答えた。
生白い腕が、背後から千秋の胴体に回ってくる。途端に全身から力が抜けていき、千秋は冷たい腕を身体に巻き付けたまま、
急速に遠のいていく意識を手放す直前に、漠然と思った。きっと千秋は、康太や英美理のように見逃してもらえない。
旧校舎に棲む幽霊に気に入られたら、黄泉の国へ連れていかれるのだから――。
「一緒に帰るって、約束したもんね」
〈了〉
学校童のカシマさん 一初ゆずこ @yuzuko
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