下駄箱の前で靴を履き替えていると、「千秋、帰ろうぜ」と康太が追いかけてきた。制服の白シャツから伸びた腕は、しっかりと日に焼けている。千秋は約二週間ぶりに会った元気な悪友の隣に並び、二人で昇降口を出た。

「なあ、聞いてくれよ。夏休みの終わりに、英美理と偶然会ったんだ」

「へえ。また辛辣にけなされたのか」

「馬鹿っ、逆だよ。英美理って言い方きつい時もあるけどさ、俺になら何でも話しやすいって打ち明けてくれたんだ。それからは意気投合しちゃってさあ。きっかけになった肝試しのスタンプカードは俺の宝物だよ。今も持ち歩いてるんだ」

「良かったな」

 しわくちゃのスタンプカードを見せびらかされた千秋は適当に相槌を打ったが、掛けた言葉は本心だ。千秋はもう、康太のあんな顔を見ないで済む。それは素直に良いことだと思うからだ。

 二学期を迎えた学校帰りの畦道あぜみちは、傾き始めた日の光で橙色を纏っている。遠くで鳴くひぐらしの声が哀愁を誘い、山へと吹き渡る風には早くも秋の気配が混じっていた。青空を見上げた千秋は、以前にもこうして静かに景色を眺めた夏休みの記憶を回想する。

「そういえば、あいつ。来てなかったな」

「あいつ?」

「……知佳だよ」

 いつかのように、微かな気まずさを声に滲ませながら、千秋は言う。

 九月一日の今日、知佳は学校に来なかった。

 元々、極端な恥ずかしがり屋で存在感が薄く、教室に居ても居なくても気づかれない女子生徒だ。今日の欠席は、誰の話題にも上らなかった。しかし勝俣先生すらその不在について何も言及しないのは、いささか非道な対応に思えた。肝試しで気分が悪くなった生徒達を介抱したメンバーには、知佳だって入っていたのに。

「ちか?」

 康太は、ぽかんとしていた。

「ちか……って、誰だ?」

「おい、何言ってるんだよ。知佳だよ。クラスメイトの女子」

「……。一年一組に、〝ちか〟なんて名前の女子、いねえよ」

 ひぐらしの声が、止んだ。風の音すら消える無音に苛まれ、顔の筋肉が強張っていく。目の前の康太も、半端な笑みのまま固まっていた。恐怖に征服される一歩手前の表情で、不可解なものを見るような目で千秋を見ていた。結局こんな顔を見る羽目になったのだ、と頭の片隅で思った。

「康太、冗談よせよ。知佳は、小学校だって同じだったじゃないか。肝試しでも、俺のペアだった」

「……そんな奴、いないって言ってんだろ。大体、うちのクラスは男子が十人、女子が九人。十番のくじを引いた千秋のペアは、勝俣先生が名乗り出たから、千秋は拒否して、一人で旧校舎に入っただろ……?」

「違う! そんなわけない……そんな記憶は、俺のものじゃない!」

「……千秋。その〝ちか〟って女子、名字は何だ?」

「それ、は……」

 答えようと空気を嚥下えんかし、息が詰まる。

 千秋は愕然と、己がたった今答えようとした名前を、頭の中で反芻した。


 知佳の名字は――鹿島。鹿。〝鹿


 偽りの記憶に罅が入り、内気な少女の思い出が消え失せる。押し寄せた理解の奔流が、頭蓋の内側で荒れ狂った。

 ペアが知佳だと分かった時の、鈍い頭痛と不自然な納得。旧校舎に入った直後、何者かに閉ざされた扉。千秋が暗闇でペアを見失った瞬間に、時を同じくして〝誰か〟と口論していた英美理。あんたの名前なんて知らない。〝カシマさん〟に、もし名前を訊かれたら。廊下で英美理を探したあの時、康太が無防備にも一人で行動したように、〝彼女〟もまた一人だった。〝学校童がっこうわらし〟は旧校舎の外には出られないと、なぜ〝彼女〟は断言できた? ――導き出される答えは、一つだけだ。

 直感が働き、千秋は真っ青な顔の康太の手から、スタンプカードを奪い取った。

 そして、信じられない文字をそこに見つけて、慄然とする。

 肝試しの夜には伏字だったはずの名前が、今ならはっきり読めたのだ。


『旧校舎三階の一年一組には、幽霊が棲んでいる。幽霊に気に入られると黄泉の国へ連れていかれるという噂があり、中学生達が肝試しを行った。

 一年一組に到着し、さあ帰ろうと誰かが言った時だった。一緒にいたはずの知佳ちゃんが見当たらない。全員で探したが、知佳ちゃんは行方不明となった。

 その後、旧校舎では女の子のすすり泣きが聞こえるという。


『N中学校一年一組 学級新聞九月号』より抜粋』


「……!」

 鳥肌が立った。

 旧校舎にまつわる怪談で、かつて居なくなった女の子こそが――

 では――〝

「千秋……お前、変だぞ。……俺、先に行くから。この後、英美理と約束してるんだ」

 康太は茫然とする千秋からスタンプカードを奪い返すと、不気味そうに千秋を一瞥してから、畦道をそそくさと駆けていった。

 田んぼの稲が一斉にそよぎ、ぬるい風が頬を叩く。黄昏時が迫りつつある通学路に一人取り残された千秋の背後から、ひた、と冷たい気配が忍び寄った。一足早い夜気が甘く香り、過ぎたはずの夏の匂いを運んでくる。

 凛、と。鈴の音が、耳朶を打つ。

 這いずるような、声も聞こえた。


「――旧校舎に棲む〝学校童〟は、幼い子供にしか見えない怪異で、子供達と楽しく遊んでいたの。でも小学校が廃校になって、生徒が建物に立ち入る機会がなくなった。夏には中学生達が肝試しで遊びに来るけれど、〝学校童〟は幼い子供にしか見えない存在。いつしか〝学校童〟には〝カシマさん〟という名前が当て嵌められて、元の名前で呼んでくれる者がいなくなったの……」


 頭から、血の気が引いていくのが分かった。がちがちと歯の音が鳴り、逃げろ、逃げろ、と心の中で、己を必死に叱咤しったする。なのに、身体が動かない。

「〝学校童〟は、一人ぼっちで寂しかったから――外に友達を作ることにしたんだ」

 背後の存在が、吐息をついた。

 声音が、甘やかな笑みを含む。

「友達を作るには、幼い子供じゃなくても〝学校童〟が見えるようにならなくちゃ。だから〝学校童〟は、旧校舎へ肝試しに来た中学生達から、いろんなものを分けてもらったよ。気軽に呼んでもらえる名前を。呼び声に応えられる声を。そして、、中学一年生の女の子の身体を」

 だから〝学校童〟は――〝カシマさん〟になったのだ。本物の鹿島知佳が、攫われたから。その怪談が中学生達の間に流布るふし、呼び名が変わってしまったのだ。

〝学校童〟は、旧校舎から出なかった。だが、〝カシマさん〟は違う。

 恐れに取り憑かれた千秋をわらうように、背後ににじり寄った存在が、囁いた。


「千秋くん。――私の名前は?」


 旧校舎の暗がりで、心細そうに繋がれた冷たい手。英美理を探しに行った千秋を見送る、切ない羨望の眼差し。一年一組の教室で見つめ合った時の、儀式めいた呪文を交わす声――臆病さと柔らかさをはらんだ声は、どうしようもなく肝試しの夜の〝彼女〟そのもので、あどけなく存在を問われた千秋は、まるで夢遊病者のように、呼び慣れなくてそわそわしたはずの〝彼女〟の名前を、掠れた声に乗せていた。

「知……佳……?」

 鼓膜を震わせた名前が意識に染み込み、絶望が胃の底からせり上がった。


 ――『もし〝カシマさん〟に出会って「私の名前は?」と訊かれたら、「仮面のカ、死人のシ、悪魔のマ」と答えたら何もしないで帰るけど、別の名前を答えたら、「友達になれた」と思われて、黄泉の国へ連れていかれるんだって……』


「千秋くんなら、そう答えてくれると思ってた」

 千秋が知佳と呼んでしまった存在は、嬉しそうに答えた。

 生白い腕が、背後から千秋の胴体に回ってくる。途端に全身から力が抜けていき、千秋は冷たい腕を身体に巻き付けたまま、畦道あぜみちにゆっくりとくずおれる。外れた眼鏡が、地面で弾むのを最後に見た。

 急速に遠のいていく意識を手放す直前に、漠然と思った。きっと千秋は、康太や英美理のように見逃してもらえない。

 旧校舎に棲む幽霊に気に入られたら、黄泉の国へ連れていかれるのだから――。

「一緒に帰るって、約束したもんね」


〈了〉

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学校童のカシマさん 一初ゆずこ @yuzuko

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