第2話 つくり笑顔

履歴書を書き続ける毎日に嫌気がさしていた頃、私はようやく面接まで辿り着く事が出来た。

一流企業ではないけれど、電子部品を取り扱うその会社は、中国やロシアとの貿易で目覚ましい業績を挙げている。

ビジネス誌でも、紹介された優良企業だ。

リクルートスーツに身を包み、中央線から小田急線に乗り換えて目的地へと向かう。

列車から見える遅咲きの桜並木に心を和ませながら、参宮橋の駅で降りて坂道を歩く。

駅からそれほど離れていない住宅街の一画に、コンクリートの小箱みたいな建物が見えて、私の足は竦んだ。

人生が決まってしまう、そんな恐怖心から逃れたくて。


「本当に、この場所で働きたいのだろうか…」


と、自問自答を繰り返しながら建物へと入って行った。

狭いエレベーターの中、案内してくれる若い男性社員の香水が鼻にまとわりつく。

センスのない香り。

この男はきっと、女をあまり知らないんだわ。

殺風景な廊下に響き渡る私の足音。

映画で観た、死刑囚が絞首台へと向かう冷たいリズム。

A会議室の扉の前で立ち止まり、男性社員がドアをノックする。

私はマニュアル通りに一礼して、椅子の前で立ち止まり。


「掛けてください」


の声を合図に着席した。

面接官は、恰幅の良い中年男性と、生真面目そうな痩せた女。

このふたりが、私の将来を左右出来うる人材なのか、そう思うと腹がっ立ったし、胃も痛くなった。

偉そうな態度。

有り触れた質問に、マニュアル通りの返答が続くどうしようもない時間。

それでも私は、手応えを感じていた。

自然な笑顔と明るい声、私の演技は好印象に違いない。

だって、面接官達も笑顔を見せてくれたもの。

痩せた女が微笑んで言った。

作り笑顔はロボットみたい。


「大学での専攻は何ですか?」


私はすかさず。


「経済学です」


と、だけ答える。

痩せた女は履歴書を見ながら頷いて。


「6年間も大学に通っていたのは、何か特別な理由でもあったのですか?」


と、笑った。

私は、動揺を隠すのが精一杯だった。


「いえ、ホームステイとか、社会勉強の為に、様々な職場で研修を受けておりました」


私の背中が汗で濡れた。

中年男性の野太い声が室内に響く。


「大学よりもそちらの方が大事だったの?」


「いえ、大事というよりかは、少しでも社会を知りたいと…」


「職場は正規の社員って事?」


「いえ、アルバイトです…」


「だよな」


中年男性は、呆れた顔で笑った。

痩せた女が半笑いで。


「もういいですよ、追って連絡しますから」


私はカラカラに乾いた喉で、今にも裏返りそうな声を絞り出した。


「ありがとうございました」


夕暮れ時、靖国通りを私は歩いていた。

歌舞伎町を横目にして、新宿3丁目へ向かう。

面接という重圧から解放されたというのに、鉛を引きずっているようにズシリと重たい背中。

自分の過ちを呪った。

伊勢丹の前には長蛇の列が出来ている。

有名な手相占い師の行列だろう。

昔なら、我先にと列に並んでいたけれど、現実を突き付けられた今はそんな気分にもなれやしない。

私は、このどうしようもない気持ちを、やっこに聞いてもらいたかった。

やっこは大学時代からの親友で、都市銀行の四谷支店で働いている。

背は小さくて、くっきりとした目と、魅力的な厚い唇が印象的な女の子だ。

数日前に、久し振りにやっこから電話があった。


「聞いてほしい事があるんだけど…今度会えないかな?」


頼りない声はあの頃とちっとも変わっていなくて、私は懐かしさで涙が出そうになった。

やっこには、彼氏と別れた事は言わないでいた。

楽しい話をしたかったし、向こうから相談があると言うのだから、やっこの話を聞いてあげよう。

自分の話題は、頃合いを見つけて切り出せばよい。

私は、やっこのお姉さんでいたかった。

約束のフルーツパーラーは、新宿御苑のすぐそばにある。

花見を終えた家族連れや、カップル達で店内は賑わっていた。

やっこは窓際の席で小さく手を振って、5分遅れの私を迎えてくれた。

窓の外では、苑内に咲き誇る桜の花びらが、風に運ばれながら粉雪のように舞っている。

夕焼けの山吹色と薄紅色に染まる世界は、この場所が新宿である事を忘れさせてくれた。

非現実な空間に飛び込んでしまった。

途方もない幸せな気分だ。

やっこは温かいピーチティーを頼んで、私は元気が出るようにと、ヘーゼルナッツショコラケーキをセットで注文した。

たわいもない話は時間を忘れさせてくれる。

最近の流行りの映画やファッションのこと。

仕事の話は、お互いに避けている感じがした。

やっこは以前よりも大人びて見え、胸もとのネックレスのハートが、笑う度に可愛らしく揺れていた。

私は、いつまで子供のままでいられるのだろう…。

明らかな差を、親友に感じた。

それはただの嫉妬かも知れない。

ピーチティーの湯気が消え入りそうになった時、やっこが真っ直ぐに私を見つめて。


「聞いてほしいことがあるの」


やっこの潤んだ瞳は、綺麗な宝石のようだと昔から思う。

私は、すっかり冷めてしまったコーヒーを口へ運んで。


「どうしたの、気になっていたんだけど」


と、やさしく言った。

やっこは俯いて黙り込んだ。

こういうところは学生時代から全く変わらない。

恋愛相談やサークルでの人間関係の悩みを、昔はよく聞いてあげたものだ。

朝まで飲んでカラオケで大騒ぎして、夏休みには沖縄やグアムへふたりで出掛けて、冬になると、私のパパのペンションでスキーを楽しんだ。

わずか数年前の思い出がとても懐かしい。

あの頃に戻りたいと、何度願っただろう。

青春時代を共に過ごしたやっこが、愛おしくて儚げで可愛くて。

しょんぼりとうな垂れている身体を、ぎゅっと抱きしめてあげたかった。


「水くさいじゃない、ちょっとどうしたの? 私には何でも相談してよね」


私はわざと明るく言った。

やっこの震える声が聞こえた。


「あのね、未来…」


「ん?」


「あたし…」


「うん」


「未来にはさ、どうしても言っておかなくちゃいけないと思って、それで…」


「うん」


顔を上げたやっこの瞳から、ポロポロと涙が零れていた。

私は笑顔を見せて。


「楽になりなよ、たくさん泣こうよ」


と、顔を近付けた。

やっこの唇がかすかに動いている。


「ごめんなさい…」


沈黙の中で、その言葉をどう理解して良いのかわからずに「え?」と私は聞き返した。

やっこは泣きながら、時々喉をしゃくり上げながら話し続けている。


「あたし、飯山君と付き合っているの…」


「俊介と…?」


「ごめん…」


私の中で時間が止まった。

やっこは私の元彼と付き合っている。

その事実がうまく受け止められない…。

店内のBGMも、やっこの告白も聞こえてはこない。

何も感じられない。


「未来、ごめん、ほんとにごめんね…」


親友の言葉を聞きながら、私やっとは確信した。

突然の別れの理由を―。


「なんだ、そんなことか」


私の口から出た言葉は、精一杯のプライドだった。


「いいんじゃない別に、あんな男くれてやるわよ、私に気がねする事ないって!」


「未来…」


「いつまでもメソメソしないでさ、元気出しなって!」


私はハンカチを差し出した。


「ごめんね、ごめんね…」


やっこは涙を拭いながら、同じ言葉を繰り返している。

私は笑いながら。


「あ~あ、清清した、やっこなら安心だよ…」


と、水を飲んだ。


「私の事はもういいからさ、明日も仕事でしょ?」


そう言うと、やっこは頷いて立ち上がった。

早くひとりになりたかった。

壊れてしまいそうだったから。

やっこの前では強がっていたかった。

自分を見失いたくはないから。

そんな心情を察してくれたのだろうか、やっこは小銭とハンカチを置いて早々と去って行った。

皮肉な心遣いもやっこの涙にも、今となっては感情は湧かない。

泣きたいのは私なのに…。


ふと、窓の外に目をやると、行き交う車のフロントガラスに、街のネオンの灯りが反射して輝いていた。

いつの間にか日も落ちて、あんなに幻想的だった桜と、夕暮れのコントラストは夜の闇に呑み込まれてしまった。

街路樹と電話ボックスとの隙間に、やっこの姿がポツンと見える。

スマホの画面を見つめながらも、時折辺りを気にしているようだ。

しばらくして、見慣れた男が笑顔で近付いて、やっこの肩をそっと自分の胸元へと引き寄せた。

痩せた頬、細い髪の毛、奥二重の目、長い下まつ毛、身体のわりに大きな手と背中、そして響きのいい素敵な声。

私は、あのきれいな声が特に好きだった。

やっこはまだ泣いているのだろうか。

元彼は何故、ここまで迎えに来たのだろう。

遠ざかるふたりの背中を見ながら、私は悪い夢でも見ている気持ちになった。

そして、淋しさが雪崩のごとく押し寄せて、空っぽの心の中を埋め尽くしてしまった。


「こんなの、惨めすぎるじゃん…」


私は、顔を覆って泣いた。


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