第13話 おいしいごはん
牛ヒレ肉のジューシーな香りと、オニオングラタンスープの香ばしい匂いの広がる空間であっても、その声は雑音でしかなかった。
まるで異国の人間に延々とまくしたてられている気がして、すっかり食欲が失せたあたしは、サラダだけを食べ続けた。
なぜそういう気持ちになるのかはわからないけれど、おしゃべりな男の顔は笑うと皺だらけで、前歯が一本欠けていた。
小柄な猫背のその姿を、あたしは極力見ないように努めた。
目を合わせたくはなかった。
「人の出会いって不思議だね。だけど俺ね、今日の再会は昔っから予感していたんだよウン。第六感でもないな、ちょっと難しいかもしれないけれど、予知かな予知。そう、なんて言ったらいいんだろ。特殊な力のある人間にしか判らないと思うんだけど、宇宙からの気っていうの、パワーっていうのかな。それが俺にとっては重要だったりしちゃったりするわけ―あ、再会って言ったけどさ、ピンと来ないよね。でもほら、輪廻転生ってやつでさ、昔に縁があって今こうしているわけね―みんなわかるかな?」
おしゃべり男の向かいに座っていた花屋さんが言った。
「ほ。ほ。ほ。ほほほんとうですか?」
おしゃべり男は満足げな笑みを浮かべ。
「本当だとも、だけどこれは非常に難しいお話だからさ、頭の回転が速くないとね、というかさ、やっぱり俺ってね、ちょっと人とは変わったところがあるじゃない」
おしゃべり男は、なおもしゃべり続けている。
大食堂はもはや、つまらない大学のどうでもよい講義と化した。
一階フロア、カウンターの奥まったところにこの食堂はあって、どう考えても従業員用の何かしらの部屋を改装したのだろうか―大食堂とは名ばかりの、こじんまりとした室内には、大きすぎるテーブルと、これまた巨大なスクリーンが据え付けられてあった。
なんでもあこちゃんとその人―あたしが勝手に呼んでいるのだけど―は、映画鑑賞が大好きらしく、食事のあとは二人でお気に入りの映画を見ているらしかった。
その人と、あこちゃんは並んで座っていた。
花屋さんの隣にはダンサーさん。
そして空席があって、絵描きさんが座っている。
その向かいには、おしゃべり男と左耳が破裂しそうなあたし。
奥のキッチンからは、ジュージューと美味しそうな音とともに、ジュディーガーランドの「オーバーザレインボー」を歌っている女性の声が響いている。とても上手で綺麗な歌声。
でも、その魅力的な歌は、おしゃべり男の雑音で台無しとなってしまう。
みんなは嫌じゃないのだろうか?
あたしはキライ。おしゃべりな男なんて。
その人のやさしい声がした。
「もうそのへんにして、早く食べないと冷めちゃうよ」
おしゃべり男はしょんぼりしつつ、ヒレ肉をもしゃもしゃと食べ始めた。
あこちゃんはにこにこしながら。
「あたしのも食べる?」
と言って、おしゃべり男に目配せして見せた。
「え、え、いいのかなあ、なんだか申し訳ないようなでも欲しいような、あ、でもあまりよくない、女性からのプレゼントというのは―」
花屋さんが割って入った。
「ほ、ほ、ほ、ほほほほほんとうですか?」
あこちゃんは「ほんとうよ」と言うと、お皿ごと自分のステーキを花屋さんに差し出した。
おしゃべり男は、口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。
絵描きさんがワインを飲み干して。
「しゃべる時間がもったいなかったね、花屋さんがお利口だったってことさ」
と言うと、ダンサーさん以外のみんなが笑った。
花屋さんも「ホーホー」と言いながら笑って、おしゃべり男も引き攣りながら笑っていた。
ついでにあたしも笑った。
奥から声がした。
あの綺麗な歌声の主だ。
「みなさんに新作を味わってもらおうと思っていたのよ!」
あたしは期待に胸を膨らませていた。
きっと昔は女優さんか歌手か、それともモデルさんだったのかしら。
プロ顔負けの美声の主は、今でも芸能活動とかやって、たまにここに来て料理を振る舞ってくれているのかもしれない。
勝手な妄想で盛り上がった。
丸太ほどの腕があたしの脇をすり抜ける。
テーブルの中央に置かれた色鮮やかなプチケーキよりも、あたしは背後の圧迫感が気になって仕方なかった。
振り返ると、そこにいたのは女優さんでもモデルさんでもなくて、満面の笑みを浮かべた厚化粧の巨漢な中年女性だった。
しかも、かなり酒臭かった。
その人が言った。
「未来さん、紹介するよ。コックのジュディーさん」
あたしは軽く会釈して「おいしいかったです」と言った。
あまりの迫力と、歌声とのギャップに頭が混乱していた。
おしゃべり男の声がした。
「そういえば君ってベジタリアン?」
あたしは叫びたくなった。
「あなたが言わないで!」
部屋の中で、ペンギンさんとにらめっこしている時間ももったいなくて、かといって、テレビを見る気もないし、スマホの画面を覗く気分でもなかったから、あたしは軽くシャワーを浴びて、夜の「ABARAYA」散策へと繰り出した。
昔から冒険が大好きで、隣町へ自転車で出掛けては迷子になって、よくママに怒られた。
だけど、知らない人の後だけはついていかなかった。
そこまで無知じゃなかったし、パパやママ以外の大人は怖い人だと思っていた。
幼い頃、ママから良く言われたのは。
「暗くなると人さらいに連れていかれるよ」
で、その言葉の響きは、幼少の柔らかすぎる頭には恐怖でしかなかった。
「ひ・と・さ・ら・い…」
あたしは呟いて身震いした。
フロア全体は、壁に据え付けられた間接照明のほのかな灯りに包まれている。
どうやら誘拐魔は潜んではいないようだ。
深夜0時前、夜空は青みがかった黒いキャンパス。
まんまるお月様のせいだろう。
都会の生活では思いもしなかったけれど、夜空ってけっこう明るいものなんだ―。
耳を澄ませば、どこからかピアノの音が聞こえてきそうな気がする。
というよりも、あたしの頭の中ではすでに、クロード・ドビュッシーの「月の光」が流れ始めていた。
気持ちがよかった。
まほろば島は、おとぎの国のようだ。
あたしは、ミネラルウォータみたいな空気より、湧き水の聡明な空気の方が大好きなんだと実感した。
ふと、ちいさな笑い声が聞こえてきたので、あたしは声のする方向へと歩いていた。
何も怖くなかった。
「月の光」は、まだ頭の中で流れ続けている。
終わらないで…終わらないで…と願う。
大食堂の中から聞こえる声は、あこちゃんとその人だ。
幸せいっぱいの穏やかな声。
あたしは、扉越しに聞き耳をたてていた。
「パパ、これはどこなの?」
「うん、ここは箱根だよ」
「隣がお母さん?」
「そう、あこにそっくりだろ?」
あこちゃんの笑い声がした。
「パパ、お母さんがあたしに似てるんじゃなくて、あたしがお母さんにそっくりなんでしょう?」
その人は笑っていた。
もっと二人の会話を聞きたかったけど、急に申し訳なくなって・・・だけど、あたしの気持ちを暖かくしてくれた秘密の世界は聡明だった。
ーあたしが大好きなものー。
立ち去ろうと振り返ると、袴姿の男があたしの背後に立っていた。
頬はこけ、髪はボサボサのその男は、あたしと目が合うと「ひっ!」と叫んで走って行った。
あたしは声も出せずにその場にへたり込んだ。
腰が抜けたのは生まれて初めてだった。
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