第15話 追跡妄想
部屋の扉を開けると、目の前にぼさぼさ頭のあの男が立っていて、あたしはまた腰を抜かしそうになったけど、今回は怒りが込み上げてきた。
「ちょっと!ノックくらいしてください」
勇気もへったくれもなく、自然とこみ上げた感情だった。
男は、一瞬驚いた表情を見せたけど、口元に人差し指を当てて「しぃ~…」と言うだけだった。
その目はキョロキョロと落ち着きがなくて、何かを探しているのか、それとも何かに怯えているのか…そんな感じに見えた。
あたしは言った。
「何か用事ですか?」
男が小声で話し始める。
「この場所は安全かな? いや、用心した方がいいと思うから場所を変えてみても…いやいや待てよ。ちょっと待て」
「はい?」
「いやいやいや。だからちょっと待って…」
男は天井を見上げ指をさし、そしてあたしの部屋の中を指さして、今度は床に耳をあてた後にまた呟き始めた。
あたしは、ぽかんとその様子を見ているだけだったけど、不思議と恐怖心はなかった。
ちょっぴり面白いというか、この世界ではとっても普通なのかもしれないと思えた。
「私の行動は常に誰かが細心の注意と最新の科学をもってしても、誰しも把握することが出来ないのだから、いわゆる秘密裏に行動しなくてはならないのだけど、それをすることによって行動が不自然になると怪しまれる。それはわかっている、うん。それはわかりきっているし割り切っている、今部屋から出て来た? ここから出て来ました?」
いきなりの質問にあたしは戸惑ったけど、こくりと頷いてぎこちない笑みを浮かべてあげた。
「ここから出て来たんですね?ここから出て来たんですね?」
「はい」
「大丈夫、それだったら問題ない。良かったですね」
「はい」
「では皆のところへ行きましょう、たぶん待ってる。そう、いわゆる待っている。ここから出て来たんですよね?」
「はい」
あたしは込み上げてくる可笑しさと、不思議さを隠しながら思った。
この人は決して悪い人じゃないと。
すると、男はあたしの腕をぐいと掴んで走り出した。
あたしは転びそうになりながら。
「ちょっとなに! どこへ行くの!」
と叫んでいた。
ホール中にあたしの声が響き渡っていたけれどどうでもよかった。
恥ずかしさも何もなくなっていたし、運動は昔からあまり好きじゃないから、すぐに息が切れてよれよれのボロ雑巾みたいになってしまったのだ。
「止まってください!ちょっと止まって!」
そう言うとすぐに男は止まってくれたけど、お陰であたしはつんのめってコロコロ転がった。
さすがに頭に来たので男を睨み付けたけど、男は、遠くになったあたしの部屋を指さしてこう言った。
「あそこから出て来たんですよね?」
ABARAYA駐車場の、マイクロバスの周りにはみんなが集まっていて、その人とあこちゃんを取り囲んでいた。
花屋さんはぐるぐると走り回りながら「HO―HO―」と、楽し気に叫んでいて、ジュディーさんはその人と何やらおしゃべりをしている。
あこちゃんは、絵描きさんと笑いあって、ダンサーさんはその後ろでひっそりとしていた。
あたしはその光景を見ながら
「絵描きさんも笑うんだ」
と呟いた。
つい、言葉に出てしまったけど、ぼさぼさ頭の男には聞こえていなかったらしい。
近づくあたしたちを見つけたおしゃべり男が叫んだ。
「遅い!遅いよ!早く早く、待ちくたびれてどうにかなっちゃいそうだって」
その声は、やっぱり嫌な感じがしたけれど、それよりも気分が悪かったのは、おしゃべり男に指をさされたことだった。
小さい時に教えてもらわなかったのかしら、人様に指をさしてはいけません、失礼ですよって。
ジュディーさんがぼさぼさ頭の男に言った。
「あら作家さん、元気にしていた? お久しぶり」
あたしは困惑した。
そう言われてみれば風貌は作家さんーと言っても、ただのあたしの作り上げたイメージで、中学校の教科書に載っていた、白黒写真の文豪のようにも見えるし、でも単なる不潔な人にも伺える。
作家さんは、マイクロバスの車体を触りながらジュディーさんに言った。
「ここは多少安全なのかな?だけど油断はできないからあまり長くはいられないけど、取りあえず連れて来ました。安全です」
ジュディーさんは大きな声で笑いながら「ありがとう」と言った。
おしゃべり男も何やら騒いでいたけれど、あたしと作家さんが恋仲なんじゃないかとか。
作家さんは、アメリカ国防省にマークされているだとかどうとか。
あたしは全く聞く気にもなれずに、その人とあこちゃんに挨拶をした。
あこちゃんは素敵な微笑みで「こんにちは」と言ってくれたけど、その声はか細くて弱弱しく思えた。
その人が、あたしの目を真っ直ぐに見つめながら。
「どうですか? ゆっくり出来てますか?」
と、訊ねて来たのであたしは「はい」とだけ応えて目を伏せてしまった。
何故だろう、その人・・・紳士の声やしぐさには、特別な力を感じてしまう。
全てを見抜かれてしまいそうになるのだ。
恐怖に似た安心感、
初めてのデートもこんな感じなのかしら? あたしの頭の中はごちゃごちゃになっていた。
さっきまで走り回っていた花屋さんが紳士に近づいて。
「ここここ、今度は、いつ、いいいいいい、いつくらいに、帰ってくるのですか?」
と、不安げに聞いていた。
「そうだねえ。ちょっとかかるかも知れないけど」
紳士は、あこちゃんに目配せをして、にっこりほほ笑んでこう続けた。
「大丈夫。少しの検査をして、栄養のあるものをあこにたくさん食べさせて、花屋さんや、みんなにも山盛りのお土産を買って帰ってくるから」
「ほほほほ、ほんとうですか?」
花屋さんはぴょんぴょん飛び跳ねて何度も「お菓子・お菓子」と、繰り返し言った。
あたしは薄々感じていたけれど、あこちゃんはやっぱり身体が悪いのだと確信して不安になってしまった。
色白で若くて、とても可愛くて優しくて。
そんな女の子が病と闘っている。
しかも、いつもにっこりと微笑みながら。
あたしだったらどうするのだろう?
現に泣いてばかりいたではないか。
自分が惨めになった。
「それじゃあ、ジュディーさん。留守中よろしくお願いします」
紳士は深々とお辞儀をした。
あこちゃんも大きく手を振って「すぐに戻るからね」「待っててね」と言いながら、マイクロバスに乗り込もうと歩き始めた。
あたしはとてもやり切れなくて。切ないというか、哀しいというか、はっきりした感覚ではないけれど叫ばずにはいられなかった。
「ちょっと待ってください!」
周りのみんながあたしを振り向いた。
心臓がドクドクしている。
喉もカラカラで、顔もポカポカ火照っていた。
あたしは、あこちゃんを見ながら言った。
「あの、みんなで写真とか、あ、カメラで写真撮りませんか?」
あこちゃんは満面の笑みを浮かべた。
真っ白な歯とえくぼ、透き通るような唇のピンクと潤んだ瞳。
そっか。とっくに忘れていたけれど、あたしは小さい頃に妹が欲しくてたまらなかったんだ。
よくママやパパを困らせていたもん。
あたしの中ではごく普通だった今までの日常。
それは、対人関係で始終悩まされる世界。
僻みややっかみ、意地とプライドが共存する堅苦しい世界―から遠く離れたこの異世界にだってカメラはあるし三脚だってある。
紳士が、マイクロバスから一眼レフカメラを取り出して三脚にセッティングし終えると、おしゃべり男がここぞとばかりに語り始めた。
「ほいきた。任せなさいって。ずっと昔の事だったんだけどね。色んなテレビ局、あ、もちろんキー局も含めてだけどカメラやってたからさ、プロ並みにみんなを撮ってあげるよ。そうそう、報道カメラマンっての? あれもやってたけどね」
絵描きさんが軽くあしらう。
おしゃべり男の扱いは彼女が一番長けている感じだ。
「じゃあプロ並みの腕前でさっさとやってよ」
おしゃべり男は頷きながら、カメラの角度や操作盤のあちこちを確認し始めた。
あたしは紳士に聞いた。
「あの…」
「何ですか?」
「あのカメラはフィルムですか?」
紳士は楽しげに笑って「もちろんデジタルですよ」と言った。
あたしは、もたつくおしゃべり男の言葉はでたらめばかりだなと呆れてしまった。
その心根を知ってか知らずか紳士は言った。
「彼はね、ああやって人を楽しませようと必死なんですよ」
あこちゃんも笑いながら。
「悪く思わないでね」と続けた。
おしゃべり男は「よし!」と奇声にも似た裏返った叫び声をあげて、みんなの元へと小走りに近づいた。
「30秒しかないから、30秒しかないからまとまって!」
中央に紳士とあこちゃん。
両サイドには絵描きさんとダンサーさん。
後方に身体の大きなジュディーさんと作家さん。
花屋さんがウロチョロしているのを見て、ジュディーさんがひょいとそのちいさな身体を持ち上げて肩車した。
おしゃべり男は一番前で寝転がった。「一番目立つね。サイコー」と言いながら。
あたしは…。
正直自分の居場所を見つけるのが不得意になっていたし、まだ新参者だから立ち位置がよくわからなかった。
「おねえさんはあたしの隣だよ」
と、ジュディーさんが言った。
あたしはびっくりしたけれど、涙が出るくらいに嬉しかった。
実際に目頭が熱くなった。
おしゃべり男がカウントを始める。
「5,4,3,2,1…」
あたしとあこちゃんで、今流行りのハートのマークをお互いの片手と片手で作って見せた。
あこちゃんが呟いた。
「ありがとう」
おしゃべり男のカウントよりも3秒くらい遅れて、シャッター音がこの異世界の空間に響き渡った。
あたしにはその音が、教会のベルの音のように聞こえて仕方がなかった。
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